今度こそ、定時で帰る!
午後十一時四十七分。
オフィスには、数本の蛍光灯だけが残っていた。
小さな唸り声を上げる照明の下で、佐藤美咲はパソコンの画面を睨みつけていた。
目の前には、数字がびっしりと並んだスプレッドシート。
美咲はすっかり冷めてしまったコーヒーを一口飲んだ。
「……まずい」
酸味と苦味が混ざった味に顔をしかめる。
視線を画面右下の時計へ向け、それから机の上に置かれたメモへと移した。
メモには、今日やるべき仕事が書き込まれている。
もともとは五つだったはずの項目が、赤ペンで追加され、今では十二個にまで増えていた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
上司からのメッセージだった。
『明日の朝の会議までに、先月の資料をもう一度まとめ直しておいて』
美咲は数秒間、その一文を見つめた。
そして、無言でスマートフォンを伏せた。
これで十三日連続の出勤だった。
先週に予定されていた休日は取り消され、一昨日は定時で帰るつもりだったのに、急な仕事を押しつけられて消えた。
先月の残業代が正しく計算されているのかどうかさえ、もう確認する気力がない。
もちろん、辞めようと思ったことは何度もある。
それでも決心するたび、翌日になれば現実的な理由を並べて、またこの椅子に座っている。
いつの間にか、深夜のオフィスに漂うカップ麺の匂いさえ、日常の一部になっていた。
「これが終わったら帰ろう」
美咲は自分に言い聞かせる。
今日、これを口にするのは六回目だった。
最後の報告書を保存し、美咲は椅子の背もたれに体を預けた。
目を閉じ、乾いて痛む目元を指で揉む。
ようやく終わった。
そう思いながらパソコンを閉じようとした、その瞬間。
画面の右下に、新着メールの通知が表示された。
『【緊急】明日の会議資料について修正』
美咲の指がマウスの上で止まった。
メールを開かなかった。
ただ、その通知をじっと見つめる。
その瞬間、胸の奥から一気に疲労が押し寄せてきた。
ただ眠いわけではない。
体が限界を訴えているわけでもない。
もっと深いところ。
長い時間をかけて積み重なり、自分でもどうすればいいのかわからなくなった疲れだった。
「……畑がほしい」
小さな声は、誰もいないオフィスに吸い込まれていく。
「太陽の当たる土地を見つけて、トマトとか、ジャガイモとか、イチゴを育てて……小さな動物も飼って」
目を閉じる。
すると、頭の中に一つの光景が浮かんだ。
木造の小さな家。
朝になったら起きて、畑に水をやる。
昼には自分で育てた野菜を食べ、午後は木陰で風に吹かれながら本を読む。
鳴り続ける電話もない。
すぐに返信しなければならないメッセージもない。
終わりの見えない緊急会議もない。
仕事が終わったなら、堂々と休めばいい。
そんな生活ができたら、どれだけ幸せだろう。
美咲は自嘲するように笑った。
机の上の水を手に取り、立ち上がろうとする。
その瞬間――。
視界が大きく揺れた。
「……え?」
世界が回る。
美咲は慌てて机に手をついた。
直後、胸を押し潰されるような重苦しい痛みが襲ってきた。
息が吸えない。
手から滑り落ちたコップが床にぶつかり、乾いた音を響かせる。
助けを呼ぼうとスマートフォンへ手を伸ばす。
けれど、腕にはもう力が入らなかった。
視界が少しずつ暗くなっていく。
最後に見えたのは、画面に残された未読の緊急メールだった。
意識が途切れる直前、美咲はふと思い出した。
そういえば今日――夕食をまだ食べていない。
(ああ……カレー食べたかったな)
(それに、明日の仕事……)
そこまで考えたところで、意識は完全に途切れた。
*
次に意識が戻ったとき。
最初に感じたのは、湿った土の匂いだった。
それに混じって、かすかな草の香りがする。
美咲は勢いよく目を開けた。
そこにあったのは、病院の白い天井でも、見慣れたオフィスの照明でもなかった。
四方へ広がる巨大な岩壁。
その岩肌には淡い青色の光が浮かび、まるで星空のように洞窟全体を照らしている。
美咲は柔らかな苔の上に横たわっていた。
すぐそばには見たこともない植物が生えており、その葉から淡い光が漏れている。
遠くからは、一定の間隔で水滴が水面を叩く音が聞こえていた。
美咲は何度か瞬きをする。
目を閉じる。
そして、もう一度開く。
「……ここ、どこ?」
ゆっくりと体を起こした。
その瞬間、自分の服装に気づいた。
黒いローブ。
大きく広がった袖。
柔らかな布地。
腰には革のベルトまで巻かれている。
「……何これ」
美咲は自分の手を見た。
長年キーボードを叩き続けてきた指には、もう硬いタコがない。
細く、長い指。
透き通るように白い肌。
慌てて頬に触れる。
次に髪を掴んだ。
一本の長い髪が指の間から滑り落ちる。
青白い光を受けたその髪は、銀灰色に輝いていた。
美咲は黙り込んだ。
三十秒ほど経ってから、ようやく胸に手を当てる。
痛くない。
息も苦しくない。
それどころか、体が驚くほど軽い。
ここ数年間、一度も感じたことのないほどだった。
美咲は立ち上がり、ゆっくりと手足を動かしてみる。
「……私、死んだの?」
荒唐無稽な答えだった。
けれど、自分が突然こんな幻想的な巨大洞窟に現れ、しかも別人の体になっていることのほうが、よほどあり得ない。
美咲は冷たい岩壁に背を預けた。
倒れる直前の苦しさと絶望は、まだ鮮明に残っている。
あれが死だったのなら――。
では、ここは一体何なのか。
そのときだった。
自分のものではない大量の知識が、何の前触れもなく頭の中へ流れ込んできた。
魔女。
魔法。
薬草学。
そして、一つの名前。
――アリシア・ルーン。
知らない名前のはずなのに、不思議なほど自分の魂に馴染んでいた。
名前と一緒に、断片的な知識も浮かんでくる。
自分が魔法を使えること。
足元に置かれた木の杖が魔法を使うための道具であること。
周囲に生えている光る植物の名前や、その用途。
だが、それ以外のことはほとんどわからない。
美咲は数分かけて、ようやく一つの結論にたどり着いた。
どうやら自分は、本当に転生したらしい。
ここがどんな世界なのかはわからない。
ただ一つだけ確かなことがある。
ここは、人間が暮らす場所ではない。
「グォォォォォ――――」
突然、洞窟の奥から低い咆哮が響き渡った。
アリシアは息を呑み、反射的に口を両手で覆った。
風の音でも、水の音でもない。
空気そのものを震わせるような重低音。
そこには、明確な威圧感があった。
とても大きな何かがいる。
アリシアはゆっくりと洞窟の奥を見つめた。
青い光が遠くで明滅している。
状況もわからないまま走り回るのは危険だ。
「まずは安全を確認して、隠れられる場所を探そう」
それが、アリシアが異世界で立てた最初の計画だった。
岩壁沿いを進み、植物の陰を利用しながら慎重に歩く。
途中、実をつけた灌木をいくつか見つけたが、勝手に口にすることはせず、形や色を観察して場所だけ覚えておいた。
十数分ほど歩いたところで、視界が一気に開けた。
そこには比較的広い空間があった。
頭上には天然の窪みがあり、雨風を防げそうだ。
少し離れた場所には清らかな小川も流れている。
そして何より、周囲には大型生物が動き回った痕跡も、嫌な臭いもなかった。
「ここなら……」
アリシアはほっと息を吐いた。
しゃがみ込み、地面の土を手ですくう。
柔らかい。
湿り気もちょうどいい。
それに――妙に肥えている。
「これなら、種さえあれば何か育てられるかも」
その瞬間、アリシアの目が輝いた。
待って。
ここには水がある。
地下には淡い光を放つ植物があり、最低限の明かりも確保できる。
そして、この肥沃な土。
もし近くに危険な生物がいないのなら――。
「ここで暮らせるんじゃない?」
毎朝、満員電車に乗らなくていい。
上司の顔色を窺わなくていい。
深夜に緊急メールが届くこともない。
誰かの一言のために、自分の健康や人生を犠牲にする必要もない。
アリシアはゆっくりと立ち上がり、広大な地下空間を見渡した。
この先、自分が何に出会うのかはわからない。
それでも今、この瞬間。
頭の中には、はっきりとした未来が浮かんでいた。
「よし」
アリシアは拳を握る。
久しぶりに、心の底から力が湧いてくるのを感じた。
「今日から、自分のために生きよう」
そして最初にやることは――。
「作物の種を探さないと!」
アリシアは嬉しそうに周囲の植物を観察し始めた。
その足元。
肥沃な土のさらに奥では、一本の古い植物の根に沿って、暗赤色の光が静かに流れていた。
そして、遥か地下深く。
千年もの間、眠り続けていたな暗赤色の瞳が、ゆっくりと開く。
古き黒竜が、自らの領域に入り込んだ見知らぬ気配を感じ取ったのだ。
その気配は弱い。
あまりにも弱い。
黒竜にとっては、まるで小さな蟻のような存在だった。
これまでにも、地下迷宮へ迷い込んだ生物は数え切れないほどいる。
わざわざ指一本動かす価値すらない。
しかし――。
その小さな気配は、他の侵入者とは違っていた。
恐怖に駆られて逃げることもなければ、領域から離れようともしない。
むしろ、黒竜の領域で最も肥沃な土地の前に座り込み――。
何故か、嬉しそうにしている。
黒竜はしばらく暗闇の中からその様子を見つめていた。
やがて興味を失ったように、ゆっくりと瞳を閉じる。
洞窟に再び静寂が戻った。
そのことを知る由もないアリシアは、地面にしゃがみ込みながら楽しそうに呟いていた。
「異世界にも……まさか、残業制度なんてないよね?」
そして彼女は、異世界へ来て初めて――。
土を掘った。
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