無予算お買い物大作戦
夕食の時間。
「……塩」
アリシアは木のテーブルに座り、目の前のスープを悲痛な顔で見つめていた。
そのスープは、見た目だけなら実に美しかった。
採れたての新鮮な野菜に、つやつやとした根菜。さらに、上には宝石のように透き通った紫色のベリーまで添えられている。
前世の映え重視のレストランなら、少なくとも三百八十円くらいは取れそうな一品だ。
アリシアはわずかな期待を胸に木のスプーンを手に取り、一口すくって口へ運ぶ。
「……」
三秒ほど咀嚼したあと、アリシアは無表情のままスプーンを置いた。
食材は新鮮。
火加減も完璧。
問題は、ただ一つ。
このスープには、魂がなかった。
塩が、一粒も入っていない。
農園を開拓し始めてからというもの、アリシアの食卓は確かに色鮮やかになった。
だが、どれだけ食材を入れ替えても、組み合わせを変えても、口に入れた瞬間に広がるのは――。
自然そのものの、純粋な味。
簡単に言えば。
草の味だった。
「私、本当に……本当に塩が必要だわ……」
アリシアは力なくテーブルに突っ伏した。
それは、魂からの叫びだった。
前世の彼女なら、夜中の二時まで残業したとしても、会社を出て右へ曲がればコンビニがあった。
そこで熱々の黒胡椒煮込み弁当を買えた。
保存料たっぷりなのに妙に美味しいカップ麺だってあった。
カロリーを爆発させる各種ソースや調味料も、選びたい放題だった。
それなのに今はどうだ。
尊敬されるべき魔女となり、誰もが羨む悠々自適な隠居生活を送っているというのに――。
塩一粒すら手に入らない。
「これのどこが悠々自適なのよ……。ただのサバイバルじゃない……」
「それから胡椒、砂糖、サラダ油、マヨネーズ、小麦粉……」
アリシアは悲壮な顔で木炭を手に取り、欲しい食べ物を木の板へ次々と書き出していく。
書けば書くほど、リストはどんどん危険な方向へ膨れ上がっていった。
鉄鍋もそろそろ買い替えたい。
着替えも何着か欲しい。
針と糸、ハサミ、石を叩くための鉄槌。
ああ、それから頭を使わずに読める小説が何冊かあれば完璧だ。
やがてアリシアは、黒炭でびっしり埋め尽くされた木の板を見つめた。
もはや名前を書く場所すら残っていない。
「……これ、完全に世紀末の無予算お買い物リストじゃない」
アリシアは木炭を置き、こめかみを揉んだ。
この中に、土から引き抜けば手に入るものなど一つもない。
この森の生態系がどれだけ非常識でも、現代の工業製品を勝手に生産するサプライチェーンまで生えてくるわけではないのだ。
「これは……どうしても、この世界の人間にお邪魔するしかなさそうね」
アリシアは頬杖をつき、洞窟の奥に広がる未知の闇を見つめた。
近くに村があるのかもわからない。
そもそも、この森がどれほど広いのかすら知らない。
下手に歩き回って、塩を買うどころか迷子になり、そのまま森の永久地縛霊になる可能性だってある。
「とりあえず、ちゃんとした道を見つけないと」
アリシアはため息をつき、あの「欲望リスト」を引き出しへ押し込んだ。
そして、他に何か方法がないか考え始めた。
――翌日。
アリシアはいつもの大掃除をしていた。
古い魔法道具をしまっている木箱を整理していたところ、その一番底から、一冊の薄いノートが出てきた。
端は黄色く変色し、ところどころ少しカビまで生えている。
表紙は妙に綺麗だった。
タイトルすら書かれていない。
アリシアは最初、「火を起こしたり、湿気を取ったりする魔法でも載っていないかしら」と、実用性だけを求めてページをめくっていた。
だが。
あるページを開いた瞬間、アリシアの視線がぴたりと止まった。
そこに描かれていたのは、円形の魔法陣だった。
複雑な線が幾重にも交差し、その中央には、顔文字のようにも見える奇妙な記号がいくつか記されている。
もちろん、アリシアには何が書いてあるのかさっぱりわからない。
しばらく魔法陣を見つめたあと、アリシアは吸い寄せられるように指を伸ばし、そっと紙面に触れた。
「これ……転移魔法?」
その瞬間。
ドンッ!
いくつもの断片的な記憶が、何の前触れもなく頭の中へ流れ込んできた。
真っ暗な部屋。
床一面に刻まれた、淡く光る魔法陣。
机の上には、ゴミの山のように積み重なった研究ノート。
そして壁際には、魔力を測定するためのものらしい、キラキラとした棒が何本も並んでいる。
それは、この身体に残っていた「元の持ち主」の記憶だった。
どうやら元のアリシアは、魔法研究に取り憑かれた筋金入りの魔法オタクだったらしい。
何年もの間、来る日も来る日も、この転移魔法陣の研究を続けていた。
そして、ある実験の日。
魔法陣が突然、ネオンのように暴走した。
安定していた線が一本、また一本と途切れていき――。
最後には。
ドンッ!
まばゆい光が部屋を包み込んだ。
そして次に意識を取り戻したとき。
彼女は今の姿で、この農園の洞窟に横たわっていた。
アリシアは複雑な表情でノートを閉じた。
「……つまり私、あいつに宅配便で送られてきたってこと?」
自分がこの地下洞窟で生まれ育った人間ではないことは、ずっとわかっていた。
元の持ち主が魔法研究をしていたことも、なんとなく覚えていた。
だが。
まさか真相が、こんなにもロマンのないものだったとは。
元のアリシアが、いったいどこへ行こうとしていたのか。
なぜ魔法陣が暴走したのか。
そして、なぜ転移先が――。
塩すら手に入らない、このろくでもない場所だったのか。
何一つわからない。
「でも、もし近くに別の受信設備が残っているなら……」
アリシアはノートを見つめた。
「無料のバス代わりに使えるんじゃない?」
それなら話は早い。
このまま家に引きこもって、味のない野菜スープと見つめ合っているよりもいい。
ちょうど塩を買うための道も探さなければならないのだ。
ならば、二つまとめて解決すればいい。
完璧だ。
アリシアはノートを大切にしまい、静かに立ち上がった。
「よし。まずは、外へ出る方法を探しましょう」
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