第一話 私のことだけ忘れてしまったあなた
湿った木の匂いがする、古いアパートの一室。
壁紙はところどころ剥がれ、窓枠は歪み、雨の日には隙間から冷たい風が入ってくる。
床板は踏むたびに軋み、部屋の隅には洗っても落ちない薬草の匂いが染みついていた。
その狭い部屋の中央に置かれた寝台の横で、私は祈るように彼の手を握りしめていた。
「お願い……目を開けて、アベル様……」
ベッドに横たわっているのは、私の最愛の人だった。
アベル・クライゼル。
しがない子爵家の次男だと、彼はよく自分のことをそう言って笑っていた。
けれど私にとっては、どんな高位貴族よりも誠実で、誰よりも美しい心を持った人だった。
私は格式高い公爵家の令嬢、エラ・ヴァレンタイン。
本来ならば、彼と私は並んで歩くことすら許されなかった。
舞踏会の片隅で偶然言葉を交わし、庭園の薔薇の前で二度目に出会い、三度目にはもう互いの名を呼ぶ声を聞くだけで胸が苦しくなっていた。
当然、周囲は反対した。
父は怒り、母は泣き、彼の家も困惑した。身分が違いすぎる。将来がない。若さゆえの熱だ。誰もがそう言った。
けれど、私たちは手を離せなかった。
夜更け、私はわずかな衣類と母から譲られた真珠の髪飾りだけを抱え、屋敷を抜け出した。
門の外で待っていたアベルは、震える私の手を両手で包み込んだ。
「後悔させない。必ず、君を幸せにする」
あの夜の声を、私は今でも覚えている。
駆け落ちしてたどり着いたこの街での暮らしは、貴族令嬢だった私が想像していたものより、ずっと厳しかった。
それでも、幸せだった。
朝、同じ硬いパンを分け合うこと。洗濯物を干しながら、隣の家の猫に笑うこと。
アベルが慣れない仕事から帰ってきて、疲れた顔のまま私を抱きしめてくれること。
公爵家にいた頃のような絹のドレスも、銀の食器も、温かい侍女の手もなかった。
けれど、彼がいた。
それだけで、私は何も怖くなかった。
そんな日々は、ある日突然壊れた。
アベルは仕事中に荷崩れに巻き込まれ、頭を強く打った。
運び込まれた時、彼の額からは血が流れ、唇は紙のように白かった。
医師は難しい顔をした。
「目を覚ますかどうかは、本人の力次第です」
それからの日々は、底のない暗闇の中を歩くようだった。
私は朝から晩まで彼の体を拭き、薬湯を作り、熱の下がらない額を冷やし続けた。
貯金はあっという間になくなった。
椅子を売り、小さな戸棚を売り、最後には、公爵家から持ち出した真珠の髪飾りも売った。
母が嫁入りの時に祖母から譲られたものだった。
手放す時、店主が小さな布袋に入れた銀貨を差し出した。
私は泣かなかった。泣いたら、髪飾りに申し訳ない気がした。
食事は日に一度になった。
パンの耳を水でふやかし、薄い野菜くずのスープで腹を満たす。
鏡を見ることはなくなった。見なくてもわかる。
かつて褒められた髪は乾いて絡まり、手は薬草と洗濯で荒れ、爪の端は割れている。
ドレスは何度も縫い直し、袖口だけ布の色が違っていた。
もう、売れるものもない。
薬代も、明日のパン代もない。
彼の手を握りながら、私は声を殺して泣いた。
自分のことより、彼を助ける方法がないことが苦しくて仕方ない。
「アベル様……私、どうしたら……」
その時だった。
指先が、かすかに動いた。
「……う……」
私の息が止まる。
握っていた手が、ほんの少しだけ私の手を握り返した。
「アベル様……?」
長いまつ毛が震えた。
そして、彼の瞼がゆっくりと開いた。
「……ここは……?」
「アベル様!よかった……よかった、目が覚めたのですね……!」
私は思わず身を乗り出した。
胸に飛び込みそうになった体を、ぎりぎりで止めた。
彼の瞳が、私を見ていた。
けれど、そこにあったのは、私を見つけた時の柔らかな光ではなかった。
困惑と警戒と、知らないものを見る冷たさ。
「君は……誰だ?」
喉が詰まった。
聞き間違いだと思いたかった。
「アベル様……?」
「なぜ僕の名を知っている。ここはどこだ。僕はなぜ、こんな部屋にいる」
彼は顔をしかめて体を起こそうとした。
けれど、力が入らなかったのだろう。苦しそうに息を吐き、枕へ沈む。
「無理をなさらないでください。まだ動いては……」
私が支えようと手を伸ばすと、彼はかすかに身を引いた。
その小さな動きが、胸に深く刺さった。
彼は私を知らない。
私たちが出会ったことも、恋をしたことも、手を取り合って家を捨てたことも、何も覚えていない。
後から呼んだ医師は、疲れた顔で首を横に振った。
「命があっただけでも奇跡です。記憶については、しばらく様子を見るほかありませんな。頭を打った衝撃だけでなく、強い心の負荷で特定の記憶が閉ざされることもある。ご本人を責めてはなりません」
特定の記憶。
それが、私と過ごした日々なのだと、すぐにわかった。
アベルの記憶は、私と出会う前で止まっていた。
彼はまだ子爵家の次男で、実家にいて、私など知らない。
駆け落ちも、この街での暮らしも、私に贈ってくれた安物の指輪も、二人で分け合った硬いパンの記憶も、全部失われていた。
彼の目に映る私は、ただの薄汚れた女だ。
髪は乱れ、服は継ぎはぎだらけ。
頬はこけ、指は荒れ、貴族令嬢だった頃の面影など残っていない。
この姿で「私はあなたの恋人です」と言ったところで、信じてもらえるはずがない。
信じてもらえないだけなら、まだいい。
彼に恐怖されるのが怖かった。
正気ではない女だと思われるのが怖かった。
何より、私と出会ったせいで家を捨て、苦労し、命まで失いかけた彼に、もう一度同じ苦しみを背負わせるのが怖かった。
なら、せめて。
彼が帰れる場所へ、帰してあげなければ。
私は爪が掌に食い込むほど拳を握り、笑った。
「申し訳ありません。私はエラと申します」
恋人の名ではなく、使用人として名乗ろう。
「アベル様がこの街に滞在される間、身の回りのお世話を仰せつかっておりました。お怪我をされて、少し記憶が混乱されているのだと思います」
「使用人……」
アベルは眉を寄せた。
疑われている。
当然だ。嘘をつくことなど、私は上手ではない。
けれど彼は、やがて小さく息を吐いた。
「そうか。すまない。目が覚めたばかりで、きつい言い方をした」
「いいえ。お気になさらないでください」
「看病してくれていたのか」
「はい」
「……ありがとう、エラ」
名前を呼ばれた。
恋人としてではない。ただの使用人として。
それでも、胸の奥が熱くなった。私は深く頭を下げ、涙が落ちないように唇を噛んだ。
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