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仮病だと知っていましたよ、殿下。あなたを愛していた頃から。今は愛していないので、失礼します  作者: ヲワ・おわり


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第70話 ここに、ずっといてほしい

 翌朝、薬草庫での仕事を始めた。


 朝の空気はよく冷えていた。窓から山の稜線が見えた。雲はなかった。辺境の青空だった。冬が近い空は澄んでいて、遠くまで見える。この空を、エルナは好きになっていた。辺境に来た時には思っていなかったことだ。


 棚の確認から始めた。昨日整理した分がきれいに並んでいる。今日はフリスが昼前に来る。一緒に冬向けの薬草の最終確認をする予定だった。それまでの時間で、帳面の整理をする。観察日誌の今月分をまとめる。いつもの朝だった。でも今朝は、少し違った。昨夜ライナルトが「明日、改めて来る」と言って出ていった。その「明日」が今朝だった。


 帳面を開いて書き始めた。今月の患者数、薬草の使用量、フリスとの診察の記録。それぞれを整理しながら書いていくと、この二ヶ月半の動きが見えてくる。来た時は何も整っていなかった。今は、体制がある。記録がある。信頼がある。来た時のエルナと、今のエルナは、全部が違う。


 書きながら、エルナは少し窓の外を見た。青い空が続いていた。昨日の手紙のことを、少し思った。「そうですか」で終わった手紙だ。クロードが爵位を外れた。テレーズが消えた。二年前のエルナには大きなことだったかもしれない。でも今日の帳面には、そのことは書かない。帳面には今日の辺境のことを書く。それだけだ。王都からの知らせより、今日この薬草庫で手が触れた薬草の方が、エルナには現実だった。書くべきことは、ここにある。


 棚の方を確認していると、薬草庫の扉が開いた。


「エルナ」


 ライナルトだった。昨夜「少し、いいか」と言って入ってきて、しばらく薬草庫に立ったまま何かを考えた後、「……明日、改めて来る」と言って出ていった。その「明日」が今日だった。


「はい、辺境伯」エルナは振り返った。


 ライナルトが薬草庫に入ってきた。扉を閉めた。エルナの方に向いた。今日も書類は持っていなかった。窓からの朝の光がライナルトの横顔に当たっていた。辺境の光だ。


 少し、間があった。


 エルナは待った。この人は言葉を選ぶのに時間がかかることがある。うまく言えない、と言うこともある。それがわかるほど、エルナはこの二ヶ月半でこの人を見てきた。だから待てた。急がなくていい。この人が言葉を見つけるまで待てる。待てる、と今のエルナは知っている。それも、辺境に来て覚えたことだ。


「……ここに」ライナルトが言った。


 エルナはライナルトを見た。


「ずっと、いてほしい」


 薬草庫が静かになった。窓の外で風が少し動いた音がした。それだけだった。


 エルナは、その言葉を受け取った。昨夜の「少し、いいか」は、この言葉のためだったのだとわかった。この人が一日置いたのは、言葉を整えるためだったのだとわかった。「ずっと」——この人が時間の言葉を使う場面を、エルナは見たことがなかった。「今日」は言う。「明日」も言う。「いつか」も言った。でも「ずっと」は、今日が初めてだった。


 「ずっと」は長い言葉だ。今日より遠い。明日より遠い。この冬を越えた先まで続く言葉だ。その言葉を、この人が使った。慎重に言葉を選ぶ人が、その言葉を使った。「ずっと」——いつか言えると言っていた。昨日「明日、改めて来る」と言った。今日「ずっといてほしい」と言った。「いつか」が今日になった。


 かつての婚約者は、エルナを必要としなかった。「いてくれてよかった」とは、言わなかった。「ずっとそばにいてほしい」とも、言わなかった。必要とされていると思っていたのは、エルナの思い込みだった。あの二年間は、そういうものだった。


 この人は——言った。「ずっといてほしい」と。


「はい」


 エルナは答えた。それだけだった。でも「はい」の中に、全部あった。辺境に来てよかった。記録をつけてよかった。疫病の前兆に動いてよかった。フリスと一緒に仕事をしてよかった。「いてくれてよかった」と言われてよかった。「ここに来てよかった」と返せてよかった。そして今日、「ずっといてほしい」と言われた。「はい」と言えた。


 それで全部だった。これ以上の言葉は、今は要らない。「はい」と言えた。それで十分だ。確認が取れた、と、今のエルナは思った。二ヶ月半かけて、確認が取れた。急がなくてよかった。正確に確認できた。


 ライナルトが少し、表情が動いた。昨日とは違う顔だった。固かったものが、完全に溶けた顔だった。何かが確定した顔だった。


「……ありがとう」とライナルトが言った。


「いいえ」エルナは答えた。「こちらこそ。ありがとうございます」


 少しの間、二人は薬草庫にいた。外の光が続いていた。青い空だった。辺境の冬前の、澄んだ朝の空だ。


 ライナルトが「仕事に戻る」と言った。「はい」とエルナは答えた。ライナルトが出ていった。扉が静かに、でも確かに閉まった。


 エルナは薬草庫に残った。棚の薬草が並んでいた。帳面が開いたままだった。書きかけの記録が続いている。フリスが来るまで、まだ時間がある。今日の仕事は続く。明日も仕事がある。この薬草庫で、この辺境で、仕事をし続ける。「ずっと」という言葉が、今日から現実になった。


 辺境は、遠い。でも今は、ここが一番近い場所だ。



——完——

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