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Ephemeral note~夢を見る世界  作者: 瑞月風花
夏休み編

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16/50

長い休みも短い休みも、全部あなたのもの……2


 今日は補習が長引いてしまった。空はまだ明るいが、東の空には儚い月が既に見えているし、その傍に控える木星が視認出来るまでには更けてきている。いろ葉は大きなため息をついてたすきのカバンを抱え直す。

 生物担当の阿久津はとりあえず熱血で、どうしても赤点生徒を帰したがらないのだ。本日の犠牲者は五人もいた。最後は一問一答形式でなんとか全員が下校。おかげで、いつもよりも一時間ほど遅れての帰宅になってしまった。午後七時。玄関でシッポを振ってお出迎えをしたワカバがにこにこ笑っていた。


「おかえりっ」


 そう、ワカバは最近「おかえり」という言葉を嬉しそうにいろ葉に掛けてくる。もしかしたら、これも初めて覚えた言葉なのだろうか。そんなことすら思えそうなくらいにワカバは嬉しそうに「おかえり」といろ葉に声を掛ける。そして、ワカバに出迎えられたいろ葉は今、ワカバが作ったというオムライスを頬張っているところである。

 しかし、食べにくい。いろ葉はじっとりとその視線を見上げた。ワカバはその視線を気にとめることなく、真っ直ぐにいろ葉を見つめ返してくる。


 この場合、互いに悪気はないのだろう。ワカバにしてもいろ葉にしても。


 ただ、いろ葉は思うのだ。食べている姿を見られていいのは、小さい頃だけ。その姿に微笑まれるなんて、……食いしん坊みたいじゃないかと。

 さらに不幸なのは、その視線をそらしてくれそうないろ葉の母が入浴中だったことだろう。仕方がないので、いろ葉はワカバに尋ねる。


「どうしたの?」


そう尋ねるとワカバはにっこり笑う。

 最近のワカバがちゃんと留守番をしていないことをいろ葉は承知している。まさか、また変なことでも起こしてたのだろうかと、ここ最近に起きたあり得ない事実を脳裏に並べていた。


「ううん。食べ終わったらでいい」


あぁ、そう言えば、食べている時は色々訊かないでって言ったかもしれない。いろ葉はワカバが来てからの三週間を振り返った。


「うん……」


何日か前、ワカバのつまらない質問に答えながら食べていたら、遅刻しそうになったことがあったのを思い出したのだ。そして、ワカバは素直に出来ている。


「ワカバ、オムライス上手に作るようになったよね」


居心地の悪さから、いろ葉は自分から無理矢理に言葉を発した。その後の言葉は用意していない。仕方なく、オムライスの山をスプーンで崩して口に運んだ。味付けやらはもちろん母がしているのだが、ワカバは器用に卵を巻く。


「うん」


全く嬉しそうだ。とりあえず、ワカバはいろ葉の食べ終わりをひたすらに待っているのだろう。不思議な沈黙の中、またケチャップライスを口に運ぶ。美味しいのだけれど、いつもならもう半分くらい食べてもいいかな?と思えるのだけど、胃が早々に満腹であると訴えてくる。あぁ、阿久津がいれば注意しそう。「いいですか。胃は何も感じません。脳が食欲も管理しているんですよ」


 ワカバの嬉しそうな顔を見ていると、この食欲不振はワカバにもたらされたものだ、とは口には出来なくなる。むしろ、阿久津のせいだとすら思えてくる。きっとそっちの方が真実に近い。多分大人しく一日を過ごしていたはずのワカバを責める方が間違っている。

 それでもやっと最後の一口を呑み込んだいろ葉は、ワカバに向き合った。


「それで、どうしたの?」

「うん、あのね」


ワカバが急に海を見たいと言い出した。いろ葉にはその理由がよく分からなかった。しかし、ワカバは真面目な表情でいろ葉に伝えた。


 海は青くて、すべての生き物を生みだした偉大なるものだから。


「あのね、いろ葉のお父さんがね」


あぁ、今日はみんな珍しくそろって晩ご飯を食べたのね。じゃあ、そんなに変わったことは起きていないはずだ。


 満足感ではなく飽満感しかない胃袋を撫でながらいろ葉は少し安堵していた。

 しかし、さて、明日の試験勉強をしようと息まいて帰ってきたのに、このままだと時間が足りなくなってしまう。しかし、適当にあしらって納得できなければ、ワカバは今のように明日の朝まででもいろ葉の部屋の扉の前で突っ立っているのだろう。ワカバはそんな女の子だ。しつこいというか、馬鹿というか。それとも真っ直ぐというべきか。聞く耳になったいろ葉の状態を見て、ワカバがテーブルに乗り出さんばかりに話し出した。


「いろ葉のその板にも海あるんだよね?」


ワカバの視線の先にあるのは、いろ葉のスマホである。


「海は……ないよ」

「そうなの? 『お父さん』のにはあったよ。もう少し大きい板だったけど」

「お父さんが?」


あぁ、あの人、海が好きだから待ち受けにしていたかもしれない。そして、ワカバがそれ何?と執拗に迫って見せてもらうまでは想像に容易い。『知らないことはすぐに尋ねなさい。みんな親切に教えてくれるから』がワカバの信条らしい。素敵な信条をお持ちだと、からかいたくなるが、素敵だと褒められてワカバはきっと勝手に喜ぶのだ。


 明るい馬鹿は嫌われない。いろ葉はワカバを見てそう思う。そして、ワカバはこんなに何にも出来ないいろ葉が伝えることに対しても、嬉しがる。

 ワカバにならいろ葉だって役に立っているのかもしれない。鬱陶しいことこの上ないのだけれど、……見つめたワカバの瞳はキラキラと輝いている。


「お父さんのはタブレット。私のはスマートフォン。スマホって呼ぶことが多いけど」


そう言いながら、父が帰ってきていたことにもいろ葉は驚いていた。見やった壁時計は八時。そして、夏休みだから早かったのか、と納得した。特別講習の合格点に達さなかったいろ葉には夏休みなんて存在しなかったから、忘れていた。


「……じゃあ、そのスマホじゃ見れないの?」


至極残念という表情を見せたワカバにいろ葉はそれ以上「本物の海なんてないに決まっているでしょう?」とは言えなかった。それに、いろ葉だって分かっている。ワカバが本当の海を意味して見せて欲しいと言っていないことくらい。


「ううん。小さいけれど検索すれば見れるよ。小さくてお父さんのほど感動しないかもしれないけど……」


ワカバの好奇心は可愛らしいもの。人を詮索するものでもないし、陥れようと集める情報でもない。


 海、画像と打ち込み、虫眼鏡マークを押す。

 小さい海がたくさん現れる。碧い海だ。沖縄やハワイ、タイ、インドネシア。きっと南の島がほとんどなのだろう。緑とも呼ばれる透き通ったきれいな海。こんな海なら行きたいかもしれない。


「これでいい?」


それなのに、ワカバは首を横にした。珍しいこともある。ワカバはいつも提供したものに対して不服を言ったことがなかったのだから。そのワカバの行動にいろ葉は少なからずの驚きと寂しさ、そして、不安を感じてしまう。厄介事ばかりのワカバのくせに。その不安がいろ葉の怒りにも似た何かを煽ろうとする。しかし、その怒りにいろ葉が気づく前、ワカバが言葉を発した。


「もっと深い青。すべてを育み、光も音も飲み込んでしまうような深い色の海。いろ葉にあげたお守り色の海。それが見たいの。できる?」


あの時々なぜか熱くなる小石の色だと思った。それなら、コバルトブルーという感じの色だろう。どんな言葉を入れればサクッとそれに当てはまるのかを考えて、ワカバの言葉そのままを入れてみることにする。


「じゃあ、言葉を増やしてみるね」


その様子をのぞき込まれながら、『海』『画像』の前に『深い色』を足してみる。打って変わって深海から空を見上げたような海が現れる。沈むような青だ。ワカバの言ったとおり、光も音も飲み込んでいる。それなのに、その中で光も音も生きているような。閉じ込められた光が溢れ出ようとするような。さっきとは違う。

 碧い海は光そのものだった。しかし、こっちは闇なのかもしれない。


「これでいい?」


のぞき込んだワカバの顔にいろ葉は息を呑んだ。


 どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの?


『知りたいことはすぐに尋ねなさい。きっと親切に教えてくれるから』


 いろ葉はワカバの信条に倣えなかった。きっと海がいろ葉の言葉まで飲み込んでしまったのだろう。


「ありがとう。いろ葉はやっぱりすごいね」

「ううん、全然。すごく綺麗」


沈黙の後に発したいろ葉の言葉にワカバははにかむようにしてにっこり笑った。


 同じ馬鹿だとしても、きっといろ葉には太刀打ちできない。だけど、どうしてだろう。いろ葉はワカバの願いを一つ叶えてあげたいと思ったのだ。


「お父さんにお願いしてみる。もしかしたら、海に連れて行ってくれるかもしれない」

「海に行くの?」


ワカバの目が猫みたいにまん丸くなったので、いろ葉は思わず微笑みを唇に乗せてしまった。そして、すぐにしまったと思い、その笑顔を否定した。


「うん。あ、でもあんまり期待しないでね。お父さんももうすぐ授業が始まって忙しいが口癖になる時期だから」

「うん。あ、でも、わたしまだ自転車にちゃんと乗れてないけど、大丈夫?」


さも一大事を伝えたワカバ。それにせっかく真剣な表情を浮かべていたいろ葉が吹き出した。


「大丈夫。自転車で行ける距離じゃないから、それは心配しなくても大丈夫。だけど、だから記憶はいじらないでよ。お父さんも忙しいんだから」


そう言って壁時計を見ると、すでに九時を過ぎていた。いろ葉の不安が蘇る。繰り返しだ。不安が怒りへとつながる。そして、ワカバは悪くないのにどうしてそんなこと思ってしまったのだろうという自己嫌悪。


「ごめん、ワカバ、明日テストなんだ」


実際に言葉に出してみると『テスト』という言葉が重みを増していくようだった。まるで、滝行の滝の水量に押しつぶされてしまいそうにさえ思える。誰がテストだけが人生じゃないなんてこと言い出したのだろう。今のいろ葉にとって、そのテストは人生を左右するかもしれない重大事項だ。


 きっと、その言葉は間違っているのだ。そのテストされる人生から逃れるためにもテストに合格しなければならないのだから。


「いろ葉?」


一人で階段を上がってきていたと思っていたのだが、ワカバも付いてきていたようだ。


「本当にごめん。今日はもう入ってこないでね」


いろ葉はテストなんてされたことないだろう気楽なワカバをそのままにし、自室の扉を閉めた。ワカバにだと素直に自分の言葉を言ってしまう。それを言ってしまってから後悔する。入ってこないでなんて、ワカバを傷つけてしまったのではないだろうか。でも、入ってきて欲しくないのは事実だし。弁明を心の中で始め、その弁明する自分への自己嫌悪へとつながっていく。

 

 しかし、弁明しようと、後悔しようと、ワカバはいろ葉の言葉を全部知った上で、今も付き合ってくれているのだということにいろ葉はどこかで気付いている。

 付きまとわれるのも、厄介事を持ち込んでくることも正直いうと鬱陶しくて仕方がないが、人付き合いに対して色々と不器用ないろ葉にとって、ワカバはなくてはならない者になってきているのだろう。

いろ葉の意識はまだそこまで向かわないが、自然と、頑張らなければ、と思えた。


「おやすみ、いろ葉」


追い出されたはずなのに、扉の向こうから浮き足立ったワカバの声が聞こえてきた。


 明日、合格すれば一週間ほどの夏休みが取れるかもしれない。少しくらい無理してでも家族旅行のようなものにも行けるかもしれない。明日の朝、母に言って、そして夜になったら父に話し出そう。


 頑張るからね。絶対に合格するから。


 なんとなく通じていそうなワカバにいろ葉は心の中で呟いた。



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