『ゆりかごの宰相』
重厚なオーク材の扉の向こう、帝国の中枢たる皇帝執務室には、およそ一国の最高決定機関には似つかわしくない品がひとつ、鎮座している。部屋の隅、陽光が柔らかく差し込む窓辺に置かれた、華やかな刺繍のシルク布で飾られた小さな木製の寝台――乳児用のベビーベッドである。 今やそれは、気休めの家具でも一時的な避難場所でもなく、この部屋の立派な「常設品」となっていた。
「おお、シェルランテ! 今日も来てくれたか!」
先ほどまで厳格な面持ちで積まれた書類に目を通していたはずの皇帝イリアードは、空間がゆらりと歪んだ瞬間、羽ペンを放り出して立ち上がった。音もなく空間を切り裂き、寝台のやわらかなクッションの上に「ぽん」と現れたのは、生後わずか五か月の皇孫女シェルランテである。 その小さな両腕で抱えるようにして持ち込んだのは、二本の竹筒だ。一本は水、もう一本はお弁当代わりのヤギの乳である。
皇帝は一瞬でだらしなく頬をゆるめ、威厳などどこへやら、ふにゃりと崩れた笑顔で寝台へと駆け寄った。レースの産着に包まれたシェルランテは、小さくあくびをひとつ噛み殺すと、そのままぷいと横を向き、すやすやと寝息を立て始めた。
しかし、この幼き皇孫女がただの愛くるしい赤子ではないことを、皇帝以外はおおよその者が知っていた。
「陛下、本日の財務省からの決算報告および、東部街道の補修予算に関する裁可書でございます」
入室してきた高官が、緊張で声を震わせながら書類を皇帝の机に広げた。皇帝は目尻を下げたまま「うむ」と頷き、報告に耳を傾ける。シェルランテは寝台の中で目を閉じたまま、微動だにしない。まるで深く眠りこくっているかのようだった。 だが、官僚が「なお、資材価格の高騰に伴い、予算は当初の1.5倍を見込んでおり……」と説明を口にした瞬間だった。
「ふぇ……ふぇぇぇえん! わあぁぁぁん!」
静寂を切り裂くようなシェルランテの激しい泣き声が執務室に響き渡った。同時に、小さな手足がバタバタと暴れ出し、寝台の掛け布団を元気いっぱいに蹴飛ばす。
「な、なんということだ! シェルランテがこれほど怒るとは!」
皇帝は顔色を変え、すぐさま書類を机に叩きつけた。報告を行っていた高官の顔から一瞬で血の気が引いていく。シェルランテは、遥か遠方の真実を見通す「千里眼」の異能を持っている。彼女はただ眠っているのではない。耳に入るすべての報告と、千里眼で捉えた現地の真実とを照らし合わせ、不義や不正を鋭く見抜いているのだ。
「き、貴様……シェルランテを泣かすとは何事だ! まさか横領してるのではあるまいな!?」 「ひ、ひぃぃっ! ご、誤解でございます陛下! 決してそのような差額を懐に入れようなどと――」 「衛兵を呼べ! この者を直ちに詰問せよ!」
皇帝の怒号とともに高官が引き立てられていくと、嘘のようにシェルランテの泣き声が止んだ。ふぅ、と満足げに小さな吐息をつき、再び穏やかな寝息に戻る。彼女の千里眼から逃れられる横領、虚偽、不祥事は存在しない。いまや帝国官僚にとって、皇帝の問い詰める声よりも「皇孫女の泣き声」こそが最も恐ろしい断罪の鉄槌であった。
◇
その一部始終を、部屋の壁際に佇むひとりの女性が冷ややかな視線で眺めていた。貴妃セシリアである。 高貴さを物語る洗練された優美なドレスを身に纏い、隙のない美貌を誇る彼女だったが、そのアイスブルーの瞳には一筋の冷ややかな光が宿っていた。 (……正気とは思えませんわね) 高官が泣き叫びながら連行されていく様子を、セシリアは眉ひとつ動かさずに見送る。一国の国政が、まだ言葉すら解さぬ赤ん坊の「泣き声」ひとつで左右されているのだ。どれほど驚異的な異能を持っていようとも、所詮は幼子。そんな存在にうつつを抜かし、威厳を投げ打って破顔する皇帝の姿は、貴妃たる彼女の目には滑稽以外の何物でもなかった。 だが、セシリアは扇子を静かに口元に添えると、その冷徹な内心を美しい微笑みの下に隠し、ただ黙して成り行きを見守ることにした。
◇
嵐が去り、執務室に再び静けさが戻った頃、皇帝の机の上で不思議な現象が起き始めた。 広げられたままの白紙の羊皮紙の上、何もなかった空間からじわじわと、まるで炙り絵のように濃い墨の文字が浮かび上がり始めたのだ。
「おお……『指示書』か」
皇帝は息をひそめてその紙を見つめた。文字は、幼子が初めて筆を握って一生懸命に書いたような、大きめで丸っこい拙い筆跡である。ところどころひらがなのような揺れさえ混じるその文字だが、そこに綴られている内容は恐ろしいほどに明晰で高度なものだった。
『とうぶかいどう・いらない・こみゅしゅるつの・すいうんで・まかなえる・あまったお金で・となりの村に・すいろ・つくるべき。来年の・税収・ふえる』
帝都から東へ伸びる大河コミュシュルツは、東部街道と完全に動線が並行している。水運ルートは若干遠回りになるものの、船を増やすだけで物流効率は大幅に上がるのだ。当然、街道補修よりも予算ははるかに抑えられる。 流通ルートの抜本的見直しと、近隣農村への水利事業による中長期的な税収増の提案――。一国の老練な宰相や百戦錬磨の政治家すら凌駕する、先見性と実利に満ちた完璧な国家戦略が、そこには極めて簡潔に示されていた。
浮かび上がる文字が最後に達すると、紙の右下に、朱色に染まった小さな手形が「ポン」と押されたような丸い印影が鮮やかに浮かび上がった。シェルランテの承認を示す、何より確かな御璽であった。
「完璧だ……完璧すぎる施策だ、シェルランテ!」
皇帝はその紙を両手で大切に掲げると、感極まった様子で寝台へと歩み寄った。寝台の中では、天下を揺るがす大改革を指先ひとつで示して見せた当の本人が、小さな拳を口元に添えて「すやすや」と可愛らしい寝顔を晒している。
「我が孫ながら、なんと頼もしい宰相か……いや、天才政治家か!」
皇帝は我が孫のプニプニとした頬を優しく撫でまわし、目尻を下げてデロデロに甘やかした。どれほど国政の英知を発揮しようとも、彼女はまだ生後五か月の愛くるしい赤ん坊なのだ。
貴妃セシリアは、無邪気な寝顔を見せる赤ん坊と、それにデロデロに目尻を下げる皇帝をいま一度冷ややかな目で見やると、足音もなく執務室をあとにした。
明日もまた、シェルランテは空間を飛び越えてこの執務室へと「出勤」してくるだろう。そしてその小さな寝台から、帝国の平和と繁栄を、深い眠りとともに護り続けるのであった。




