『水鏡宮の百合と牡丹』
水鏡宮の眼前に広がる広大な庭園は、色彩と生命力に満ち溢れていた。
庭の中央で圧倒的な存在感を放つのは、大輪の牡丹である。「姚黄ようこう」や「魏紫ぎし」といった最高級の品種が幾重にも花弁を広げ、競うように咲き誇る。白玉はくぎょくの欄干に沿ってしつらえられた牡丹の園は、まるで紅や紫の雲が地上に降りてきたかのような絢爛さであった。
微風が吹くたび、宮のすぐ裏手に広がる池の水面が、うららかな春の日差しを浴びてきらきらと眩しく煌めく。
格式高い朱塗りの柱と、精緻な透かし彫りが施された格子戸。回廊を歩むたび、床の敷瓦からひんやりとした気配が足の裏に伝わってきた。空気には、宮廷御用の高価な龍脳りゅうのうと麝香じゃこうが混ざり合い、甘く、どこか冷徹な香りが満ち満ちている。
「これより先は、音を立てませぬよう」
引率する老宦官が、低く鋭い声で一同を制した。
帳とばりが静かに左右へ引かれる。
現れた広間の床には、献上されたという極彩色の絨毯が敷き詰められていた。壁には、名うての画師えしの手による見事な牡丹の障壁画が広がり、金泥の縁取りが燭台の灯を反射して怪しくきらめいている。
その部屋の中央、白玉で飾られた見事な胡床こしょうに、彼女は座していた。
帝国の後宮最高権力者たる皇后―――リゼリア。
その姿は、一幅の絵画よりもなお鮮烈だった。髪は高く結い上げられ、金や翡翠の歩揺ほようが、彼女のわずかな身じろぎに合わせてチリンと繊細な音を立てる。身にまとっているのは、細やかな刺繍が施された幾重もの紗しゃの衣だ。仕立ての良い大袖の裾が、まるで大輪の蓮の花が開いたかのように床へ広がっていた。
彼女の額には、流行の「花鈿」と呼ばれる梅の花を模した飾りが貼られている。
しかし、何よりも圧倒されるのはその双眸であった。優美に微笑んでいるようでありながら、その瞳の奥には、重責を担う者だけが持つ、凍てつくような冷徹さが潜んでいた。
水鏡宮の張り詰めた空気の中に、もう一つの気配があった。
皇后の胡床の少し斜め後ろ、控えめな位置に座しているのは、若き皇太子妃シルヴィアである。
彼女はうつむきがちに、手元で細やかな刺繍が施された扇をいじっていた。皇宮で生まれ育った彼女の衣の仕立てこそ一級品であるが、その佇まいは、日々の重圧に困惑しているようにも見える。皇后の絶対的な威厳の影で、息を潜めるようにして座す姿は、まだ咲ききらぬ清楚な百合のようでもあった。
にわかに回廊から華やかな衣擦れの音と、軽やかな足音が近づいてきた。
「お待たせいたしました、皇后様」
帳を払って現れたのは、貴妃セシリアであった。
背後では、四つ葉堂の巫女ココロギが、幼い皇女シェルランテを腕に抱きかかえている。
皇太子妃は慌てて立ち上がり、愛する一人娘を引き取った。
◇
貴妃セシリアは、皇后から直々に頼まれていたという、三つの条件を満たす『ルシアが愛用した錫杖』を、捧げ持つようにして携えていた。
その条件とは、『寒さ故に咲く花』『白紅百合』『四つ葉の錫杖しゃくじょう』。
錫杖は、見事な錦の布で作られた袋に収まっており、そこには白紅の百合の刺繍が施されている。
「頼んでいたものはこれですか。苦労をかけましたね」
皇后の、鈴の鳴るような、しかし冷徹な声が響く。
貴妃は艶然とした笑みを浮かべ、恭しく一礼してその錫杖を差し出した。
「まだ生後四ヶ月の幼子が、このような物を所望するとは……」
溜息交じりに、皇后の目線が一瞬だけ皇女シェルランテに向けられた。
皇太子妃シルヴィアは視線を伏せつつ、一礼する。
「これはルシアが生前に愛用しておりました錫杖でございます。遺品として四つ葉堂に収めておりました」
セシリアは微笑みながら、錦の袋からその錫杖を取り出した。
それは片腕の長さほどの短錫杖で、全体に精巧な彫金がなされていた。宝物と言っても差し支えないほどの、神聖な輝きを放っている。
かつてルシアは、この錫杖を剣のように片手で扱っていたのであった。幾多の戦いに使用されたと思われるが、刃傷はきずは一つもない。
セシリアはまず、『六棘の霜華』の紋章が刻まれた箇所を皇后と皇太子妃に示した。
「これは『六棘の霜華』という紋にございます。寒気にまみれた際、ガラスに浮かび上がる花のような結晶――『寒さ故に咲く花』とは、これを意味いたします。人の悲哀を喜びや幸せに変える象徴として、ルシアは用いていたようです」
セシリアは先ほどまで錫杖を覆っていた錦の布を広げた。
「そして『白紅百合』。こちらは皇后様もご存じの通り、我が娘ルシアの紋にございます」
そう言うと、セシリアは錫杖を持ち直し、一歩下がった。
ゆっくりと錫杖を床に対して平行に構えると、軸を中心に素早く半回転させる。
錫杖は小気味良い金属音を鳴らし、先端の四つの金環が揃って花開いた。
「これが、『四つ葉の錫杖』の意味にございます」
寝ていたはずのシェルランテが、それを見て喜びの声を上げた。
◇
セシリアはシェルランテを抱く皇太子妃に歩み寄った。
「皇女様が成長なさるまでは、このように玩具おもちゃとして用いればよろしいかと思いますわ」
そう言いながら、錫杖を複雑に揺り動かし、シャン、シャン、シャリン、シャリン、とリズミカルに音を鳴らす。それに合わせるように皇女シェルランテが喜ぶ笑い声が、水鏡宮に仄かな温かさを与えた。
皇太子妃の表情は次第に和らぎ、彼女は意を決してココロギに問いかけた。
「私は、四つ葉堂の巫女殿にお願いがあったのです」
ココロギは急に名指しされ、驚いて目を丸くした。
「はい、何でございましょう、皇太子妃様」
「皆があなたの『神秘札』なるものをもらって、喜んでいます。実は私も一度、そなたの神秘札を授かりたいと思っていたのです」
皇后と貴妃は目を合わせて微笑み、皇太子妃は恥ずかしさからか頬を赤らめて身を縮こまらせた。
「はい! 喜んで! このココロギ、真心込めて皇太子妃殿下にお作りいたしますね」
ココロギが意識を集中させている一瞬の間に、セシリアが皇后リゼリアに一枚の神秘札を見せた。そこには『霜華の女王。復活せし事を四つ葉の巫女に知らせるべし、新たな歴史を刻まん』と記されている。それを目にしたリゼリアは驚き、セシリアを見返した。
「皇太子妃様! できました。これが殿下の神秘札です」
シルヴィアは喜びと緊張の笑みを浮かべながら、ゆっくりと札を裏返し、そこに描かれたものを見て息を呑んだ。
皇后が手を伸ばし、その神秘札を差し出すよう促す。札には母体と体内の赤子の図が描かれており、文面には『世継ぎを宿りし今、心身共に備えよ』としるされていた。
先月、皇太子の不始末――女官を側室に迎えた件――によって、シルヴィアは夫に対して心を冷めさせていた。だが、彼女は将来の皇后である。どうしても皇子を産んで後継者にしたいと願っていた。褥しとねはもう二度と共にしたくないが、息子は欲しいというジレンマに葛藤していたのである。
それが、この札によって一気に解決したのだ。
「これはまさしく本当か? 本当なのだな?」
興奮して詰め寄る皇太子妃に、セシリアは内心で困惑していた。神秘札で失敗したことはないが、自分は預言者ではない。だが、目の前で抱かれているシェルランテが愛らしく笑うのを見て、確信を持って言い切った。
「間違いございません、皇太子妃様。ただ、侍医様がご判断できる時期までは、どうか静かにお待ちくださいますようお願い申し上げます」
「わかった。礼を言う、私は嬉しい。何かそなたに褒美を遣わそう」
実は、妊娠したのはココロギの異能の成果ではない。ココロギは欲しい食べ物やお菓子なら何でも手に入れられる異能の持ち主だが、人の心だけは手に入らないのだ。
「お心遣い、ありがとうございます。実は礼拝堂のクローバー畑が荒れて困っています。よろしければ庭のお手入れに人手をお貸し頂ければ嬉しいかと思います」
ココロギは快活に伝えると、深々とお辞儀をした。




