『霜華の女王と四つ葉の巫女』
後宮の片隅に佇む礼拝堂——通称『四つ葉堂』の庭に、巡る春が訪れていた。春の深まりとともに小さな命たちが芽吹き、堂の周りを取り囲む兎たちにも、待ち望まれた新たな命が誕生していた。
かつて青々と深く生い茂り、緑の絨毯のようであったクローバー畑は、すっかり育ち盛りとなった兎たちに食い荒らされ、所々に痛々しく茶色い土の穴が覗いている。見かねた巫女のココロギは、やむなく敷地の一部を開墾して小さな菜園を造り、兎たちの興味と関心をそちらへ逸らそうと、日々工夫と世話に大忙しであった。
そんな賑やかな庭の片隅で、澄み渡るような硬質で上品な金属音が、シャラーン、シャラララーンと心地よく響き渡る。その可憐な響きに重なるようにして弾けたのは、愛くるしい乳児の鈴を転がすような笑い声だった。
生後四ヶ月を迎えた皇女シェルランテは、ココロギの手によって整えられた豪華な寝台の上で、機嫌よくあやされ満足げな笑みを浮かべている。ココロギが振るっているのは、今は亡きルシアの錫杖であった。振るうたびに涼やかな音色を立てるその宝杖に、シェルランテは目を輝かせ、小さな手を伸ばして喜んでいた。
祭壇の奥深くに大切に納められていたこの錫杖は、亡きルシアの生誕月である4月から、その面影を偲ぶべく皆の目に触れる場所へ安置されていたものだ。そろそろ期間が過ぎ、再び祭壇の奥へと収め直そうとしていた矢先のことであった。
「シェルランテ様がどれほどお喜びになられても、これはルシア様の大切なご形見。あまりふざけて遊ぶものではございませんね」
ココロギは優しく諭すように語りかけると、セシリアの手による錦織の袋へ丁寧に錫杖を納めた。白紅蓮花の美しい刺繍が施された、見事な巾着である。黒百合はセレスティア親王家の威厳を、そして白と紅の色彩はルシアの紋章を象徴していた。
宝杖をしまわれたことで、案の定シェルランテは少しばかり不機嫌そうに小さな眉をひそめはじめた。
そんな幼子をあやしながら、ココロギの胸にふと、ある思いつきが浮かんだ。それは自身が最も得意とし、日常的に行っている業でありながら——不思議なことに、このシェルランテには一度も贈ったことがないものであった。
もちろん、生後わずか四ヶ月の幼子が言葉を発してそれをねだるはずもない。けれど、ココロギは微笑みを浮かべて手を合わせた。
「はい。ではシェルランテ様、このココロギが心を込めて、特別に神秘札をお作りいたしましょうね」
そっと重ね合わせた両手の中に、いつもと変わらぬ感覚——新たな神秘札が静かに誕生する独特の手応えがあった。出来上がった一枚の札を、ココロギが覗き込んだその瞬間、彼女は息を呑み、驚愕に目を見張った。
◇
札の表面には、幼い少女が可憐な笑みを浮かべ、上に向けて開いた小さな手をかざしている図が描かれていた。その向かい側では、若い女性が柔らかく微笑み、呼応するように手をかざしている。
幼い少女の衣服には『六棘の霜華』の紋章が刻まれ、若い女性の衣服には『四つ葉』の紋章が描かれていた。
そして、その下部に綴られた文面は——『霜華の女王。復活せし事を四つ葉の巫女に知らせるべし。新たな歴史を刻まん』
——霜華の女王。それは紛れもなく、ルシアその人を指している。
そして、四つ葉の巫女とは……他でもない、自分自身のことであるはずだった。
ココロギが呆然と立ち尽くす前で、シェルランテは嬉しそうに声をあげて笑い、開いた小さな右手をそっと差し出してきた。溢れ出る涙で視界を濡らしながら、ココロギもまた神秘札の絵柄と同じように、震える手をかざした。
二人の掌と掌の間に、眩いばかりの温かな光が満ちてゆく。かざした手からは、まるで真夏の太陽を思わせる温もりが伝わってきた。それと同時に、シェルランテの幼い身を通して、静かな念がココロギの心へと直接流れ込んできた。
——それは、忘れもしないルシアの声であった。
(黙っていてごめんね。ずっと、ココロギの側にいるよ)
ココロギもまた、込み上げる強い感情を込めて、念で言葉を返した。
(お帰りなさいませ……霜華の姫様)
◇
「あのー! すみませーん! 四つ葉様、いらっしゃいますかー!?」
突如として背後から大きな声が響き渡り、感極まっていたココロギは悲鳴をあげんばかりに深く驚いた。全身を硬直させて軽く痙攣すると、跳躍するようにして勢いよく反転した。
「は、はいっ! おります! ココロギです!」
顔中は溢れた涙でぐしゃぐしゃになり、鼻水まで垂らしたままの状態である。とてもではないが人に見せられるような姿ではなかったが、やってきた真面目な様子の女官は、こちらの惨状には触れず、己の主から託された伝言を真顔で告げた。
「あ、あの! 私、水明宮のアルルと申します。貴妃様からのご伝言を預かって参りました。『ルシアの錫杖を春宮にお渡しするため、今から取りに向かう』と、四つ葉様へお伝えするようにと……」
かたわらでは、シェルランテがご機嫌な様子でくつくつと笑っている。
——事の真相を悟り、ココロギは密かに息を吐いた。
幼いシェルランテ(ルシア)が母親である皇太子妃に手紙を書き、その意図を図りかねて困惑した皇太子妃シルヴィアが、水鏡宮にいる皇后リゼリアのもとへ相談に赴いたのだろう。そしてリゼリアが貴妃セシリアへと相談を持ちかけ、こうしてココロギのもとへと連絡が巡ってきたのだ。
遠回しな形ではあるが、これによって関係者全員へ「ルシアの復活」が暗に示されたことになる。単に錫杖が必要なだけであれば、ココロギに直接そう伝えれば済む話なのだから。
シェルランテという幼子の姿を借りて立ち振る舞っているのは、きっと実の母親であるシルヴィアへの気遣いゆえなのだろう——ココロギは幼い皇女の柔らかな頬を見つめながら、温かな確信とともに静かに頷くのだった。




