『翡翠宮の残響』
後宮の最奥――。
静謐なる翡翠宮ひすいきゅうに、春の美が絢爛と咲き誇る季節が訪れていた。
池の畔ほとりに目をやれば、長く伸びた柳の枝が、芽吹いたばかりの淡い緑の糸を垂らしている。うららかな春風がそよぐたび、水面には柳の揺らめく影が優しく刻まれた。どこからか舞い散った柳絮りゅうじょ――白い綿毛が、雪のように水面を漂い、幻想的な光景を紡ぎ出している。
白漆喰の壁に映る若葉の陰影、そしてその障壁の向こうから顔を覗かせるのは、鮮烈な桃色を帯びた海棠かいどうの花であった。うつむき加減に咲く高貴な花弁には、朝露が真珠の如くきらめいている。
ツツジや海棠の甘い香りが、古い木造建築の醸し出す微かな墨と漆の匂いに混ざり合い、鼻腔をくすぐる。遥か遠方からは、春を寿ことほぐ鳥たちのさえずりが、古筝こそうの調べのように賑々しく響き渡っていた。
その白壁に囲まれた静寂を破り、かすかに弦の震える音が鼓膜を震わせる。
板間に据えられた一台の古琴こきん。漆黒の器体に刻まれた縦横の断紋だんもんは、この楽器が経てきた悠久の刻ときを無言のままに物語っていた。
お香の煙がゆったりと立ち上る中、演者がそっと弦に指をかける。古琴の音色は、深く内省的な空間を周囲に紡ぎ出していった。
弾き手が指を弦に滑らせるたび、擦れる音が「シャア……」と、まるで春の夜の密やかな雨の音のように響く。その音は、池の畔で揺れる柳の糸、そして花々が放つ濃密な香りと呼応するように、庭園の隅々へと染み渡っていく。遠くで鳴く鳥の声さえも、この古琴の旋律の一部であるかのように調和していた。
一音一音が空間に放たれるたび、太湖石の影は深さを増し、白い壁に映る海棠の揺らめきはより鮮やかに引き立てられていく。
やがて弦の震えは、どこか湿り気を帯びた、切ない響きへと変貌を遂げた。
古琴を操るその主は、貴妃セシリア。
豪奢な刺繍が施された袖の隙間から、白魚のような細い指先がのぞき、張り詰められた弦の上を哀切に這う。薬指で優しく弦を押し込む「吟ぎん」の技法が、まるで咽び泣くような微細な顫動ビブラートを空間に響かせた。
セシリアの視線は手元の弦に注がれていたが、彼女の胸中を去来するのは、若くしてこの世を去った最愛の娘の姿であった。
『お母様、ごめんなさい。ルシアはお母様を独り占めしたくて――』
愛らしく微笑んでいた幼き日の告解。その温もりも、鈴を転がすような笑い声も、今はもうどこにもない。柳の綿毛が風に舞い、池の水面に静かに消えていく様が、あまりにも儚かった娘の命の灯火と重なり、セシリアの胸を強く締め付ける。
彼女が爪弾く曲は、古くから伝わる惜春の調べ。しかし、今の彼女が奏でる一音一音は、亡き娘への鎮魂歌レクイエムそのものであった。
側に控える二人の侍女は微動だにせず、その音色に聞き入っている。呼吸をすることさえ忘れたかのように佇み、ただ静かに涙をためて、主の背中と庭園に響き渡る切ない旋律を見守っていた。
演奏の最中も、セシリアの脳裏には惑いの思考が繰り返される。
――ルシアは母親の愛情を独り占めしたいがために、異能の力を用いて弟や妹が生まれるのを阻止した。
――ココロギは、もしルシアが居なければ生まれてこなかったはずの娘だ。
――そのココロギに想いを寄せたリアムが、女官エレノアに手を出し、結果としてココロギに合わせる顔を失った。
これらはすべて、単なる偶然なのであろうか。
哀切極まる旋律が、まさに最高潮に達しようとしたその時。
回廊の奥から響いた規則正しい靴音が、張り詰めた空気をわずかに揺らした。
現れたのは、皇后の居館である「水鏡宮すいきょうきゅう」の女官であった。彼女は古琴の音が途切れるのを待つように一礼し、厳かにその口を開いた。
「貴妃セシリア様。皇后陛下より、お言伝ことづてを預かってまいりました」
セシリアの指が、弦の上でぴたりと止まる。余韻の音が、四月の湿った空気の中にじわりと溶けて消えていった。亡き娘の幻影から引き戻されたセシリアは、いつもの冷徹なまでに気品ある表情を取り戻し、静かに女官を見据えた。
佇んでいた二人の侍女も緊張の面持ちで姿勢を正す。水鏡宮からの伝言――それは、この庭園の平穏を揺るがす、宮中の新たな政変の兆しであるやもしれなかった。
水鏡宮の女官は、澄んだ声を響かせながらも、どこか困惑の色を滲ませて頭を下げた。
「現在、東宮とうぐうにおわす皇太子妃殿下が、ある奇妙な『探し物』について皇后陛下にご相談をされております。陛下は、宮中でもっとも聡明で、数々の珍しい花々に詳しい貴妃様であれば、その行方に心当たりがあるのではないかとお考えなのです」
セシリアは古琴に置いた指を静かに引き、冷徹な視線を女官へ向けた。皇太子妃が探しているというその品の名を、女官は厳かに並べ立てる。
「一つ、『寒さ故に咲く花』」
「一つ、『白紅百合』」
「一つ、『四つ葉の錫杖しゃくじょう』」
傍らに控える二人の侍女が、思わず顔を見合わせて戸惑いの吐息を漏らす。しかし、セシリアの心の中では、それらの言葉が亡き娘の面影とともに、ある明確な「唯一の真実」へと繋がった。
セシリアは静かに命を下す。
「ベルトトに伝えてください。お探し物が何かわかりましたので、四つ葉堂に寄ってから、水鏡宮に伺います、と」
「はい。かしこまりました」
女官が退がると、セシリアはもう一人の侍女を呼んだ。
「アルル」
「はい、貴妃様」
「お前は先に行って、ココロギに『ルシアの錫杖を春宮に渡すため、今から取りに行く』と伝えておくれ」
「御意にございます、貴妃様」
セシリアは立ち上がると、愛用の古琴を箱へとゆっくり片付け、静かに動き出した。




