『去りゆく巫女と秘められし恋』
帝国の権勢を象徴する巨城「白亜宮」。その最深部、限られた重臣すら足を踏み入れることを躊躇う一画に、皇帝の執務室はある。
壮麗な大理石のアーチを描く天井のはるか高所からは、無数のカットクリスタルが光を繊細に砕く巨大なシャンデリアが吊り下げられていた。しかし、昼の残り香が漂うこの時間、灯るのは窓から訪れる静かな自然光のみである。
南側に穿たれたアーチ状の特大窓からは、白亜の壁面を優美に切り取るように、斜陽が長い光の帯となって射し込んでいた。精巧な鉄細工で彩られた窓枠と、そこに嵌め込まれた薄いステンドグラスの縁が、床の絨毯に深紅と金色の可憐な影を落としている。
大きな円卓を囲むのは、皇后リゼリアと皇太子リアム、そして貴妃セシリア。その傍らでは、『真理の光教団』の巫女ココロギが、乳児用の寝台で眠るシェルランテをそっとあやしていた。
「————陛下」
静寂を割り、リアムが静かに声を掛けた。黒檀のデスクに肘をつき、羊皮紙の報告書に視線を落としていた皇帝は、緩やかに顔を上げた。窓から差し込む陽光が、その肩に羽織られた濃紺のヴェルヴェットの外套と、そこに散りばめられた銀糸の刺繍を煌めかせた。
「アシュウェストを統べる4家……ガルド、ヴェルネ、メッシーナ、バルザック。そのいずれも、アシュウェストが水没した古都市の上に建てられたという事実以外、何も掴めておらぬと?」
リアムは皇帝イリアードの命を受け、アシュウェストとアルヴェリアの地へ赴いていたのだった。先刻アルヴェリアにてココロギが遭遇した『三つ目の黒山羊』と天信教の残党による怪異な儀式、そして謎の男アルカディアスについて調査を進めていたのである。
「母上は何と仰っていた」
「皇太后様は、秘密結社の『黒山羊』やアルカディアスは、我がリヴィエールの端くれに過ぎぬと。異能の力も足りず、一族としての恩恵も得られぬ腹いせに暗躍しているのだろう……と切り捨てておられました。街の成り立ちについても、水没した事実は知っているものの『アシュロンの水害』としてしか語り継がれていないとのことです」
「そうか。ならば……その者共の中にも、歪みながら異能を振るう者がおるのだな」
「はい。決して無関係とは言い切れません。……それと、今ひとつ興味深い事柄を口にしておられました。彼らは『紫炎石』なるものを人工的に生み出し、用いていると。それが強力な結界や憑依を可能にしており、その精錬法は厳重に秘匿されているようです」
ここで、これまで沈黙を保っていた皇后リゼリアが静かに言葉を挟んだ。
「その『紫炎石』とやらを、先に注視すべきでしょうね。……そのような異能の模造品を野放しにされては、我が一族の絶対的な優位が揺らぎかねません」
「うむ、確かにな。……よし、状況は理解した。ココロギ、下がってよいぞ」
「かしこまりました。失礼いたします」
ココロギは粛々と深々と礼を捧げ、静かに部屋を辞していった。皇帝は息を吐き、息子の顔を見つめた。
「長旅、苦労だったなリアム。それに昨日の市中での騒動……戻って早々、首尾よく収めてくれたこと感謝する。今日はもうゆっくり休むが良い。下がってよいぞ」
「はッ。失礼いたします」
リアムは立ち上がると、どこか急ぐような素振りで辞世の礼を述べ、急ぎ足で部屋をあとにした。
しばしの沈黙が、重厚な執務室を包み込む。
静寂を最初に破ったのは、皇后リゼリアだった。
「あの子……ココロギの後を追うように出て行きましたわね」
『ひさしぶりに再会した幼い娘のシェルランテが、目と鼻の先で眠っているというのに』——そこまでは口にせず、リゼリアはふっと微笑を浮かべた。
「お戯れを。気のせいではございませんか?」
セシリアが首を傾げ、悪戯っぽく微笑む。 だが、リゼリアもまたリヴィエールの血を引く者。とりわけ精神への干渉や感情の機微を読み取る術には長けていた。
「いいえ。あの子は……ココロギのことが好きなのですわ」
その呟きを耳にした皇帝は、思わず声を荒らげた。
「何だと!? リアムにはすでにしかるべき皇太子妃がいるのだぞ! けしからん!」
セシリアはそんな夫を、意味ありげな視線で見つめ返した。『ご自分だって、最初から妻が二人いたではありませんか』とでも言いたげな、無言の眼差しである。これには流石の皇帝も、バツの悪そうな顔をして押し黙るしかなかった。
「男子の世継ぎは確かに必要ですが……ココロギは神に仕える身。還俗させて嫁がせるわけにはまいりませんわ。何より、教団にとってかけがえのない大切な聖女なのですから」
セシリアもまた、リアムの眼差しや声の調子から、ココロギへのひそやかな情愛を感じ取っていた。しかし、手放しで応援できない切実な理由があった。
彼女は部屋の隅、柔らかな陽光が落ちる乳児用の寝台へ視線を向けた。 そこに横たわる生後三ヶ月の幼子——シェルランテの、無垢な寝顔。セシリアは心の中で、『シェルランテ、あなたはどう思う?』と問いかけたのだ。
その静かな念を感じ取ったリゼリアは、優雅に立ち上がると、ゆっくりとシェルランテの元へと歩み寄った。
「……何だ? シェルランテがどうかしたのか?」
妻二人の間で交わされる無言の対話が理解できず、取り残された皇帝は困惑したように声を上げた。
「……そろそろ、この子を春宮へ連れて帰りますわ。母親が待ちわびておりましょうから」
リゼリアとセシリアは寄り添うように並び、静かに一礼すると、困惑を深める皇帝を置き去りにして執務室をあとにした。




