『光の帯と歓喜』
ふと、ココロギは周囲の景色が薄暗く沈み込んでいくような強烈な違和感を覚えた。うららかな春の陽光が急速に失われていく――胸を突く不吉な胸騒ぎに駆られ、彼女は思わず空を見上げた。
視界に飛び込んできた光景に目を張り、顔色を一変させたココロギは、瞬時にセシリアの袖を強く掴んだ。
「貴妃様、見てください……! 空が……!」
先ほどまで雲ひとつなかったはずの蒼穹が、いつの間にか不気味な薄紫色の膜に覆い尽くされていた。
ココロギの背筋に冷や汗が吹き出す。全身を駆け巡る激しい危機感。だが――気付いた時には、すべてが遅すぎた。
それは以前、味わった絶望そのもの――リヴィエール一族の異能を完全に封じ込める『結界』であった。
(「そんな……異能が練り上がらない……!? 空間が……縛られている……!」)
まさに万事休す。膨れ上がる不安は恐怖へと変わり、そして完璧な残酷さをもって的中した。歓声を上げていた市民になりすましていた暗殺者たちが、突如として牙を剥き、仕込み刃や剣を抜いて一斉に一行へ躍りかかったのである!
「聖母を討て! 天信教の敵を滅ぼせ!」
悲鳴と怒号が石畳の広場に乱れ飛ぶ。セシリアは咄嗟に長柄の豪華な錫杖を振り払い、襲い来る刃を激しい火花とともに弾き返した。しかし、ココロギの眼前にも、殺意に満ちた刺客の白刃が迫る!
普段であれば異能を用い、一瞬で空間を跳んでかわす局面だ。しかし結界の呪縛によって身体は重く縛られ、転移の術は微動だにしない。
(「あ……だめ……!」)
ココロギは半ば観念し、ギュッと目を閉じて肩をすぼめた。迫り来る死の刃――そう覚悟した、瞬間。
――ギィンッッ!!!
鼓膜を裂くような重厚な金属音が響き渡った。恐る恐るココロギが目を開けると、目の前では武器を弾き飛ばされた刺客が、驚愕と恐怖に顔を歪ませて腰を抜かしていた。
さらに直後、重厚な丸盾が風を切って飛来し、怯える刺客の胸板を直撃! 刺客の巨体を容赦なく後方へと吹き飛ばした。
「……ふーむ。どうにも、使いにくいな」
のんきな声が上空から降ってくる。遥か大陸の東、エルサ・ルーメンの地にいるはずの男――枢機卿ヴォルフラムが、手にした長柄の錫杖をまじまじと見つめながら首を傾げていた。
「枢機卿! 棒切れみたいに振り回してどうします! 両手でしっかりと構えてみたらどうなんです!?」
鮮やかに丸盾を投擲し刺客を突き飛ばした司教ビー・スーが振り返り、白い歯を見せて快活に笑い飛ばす。
「おお、こうか! こう持てばよいのだな!」
若き日は旅の吟遊詩人であり、同時に腕利きの剣士でもあった粋な枢機卿ヴォルフラム。彼は渡された慣れぬ錫杖を、要領を得たとばかりに豪快に振り回し、迫り来る刺客の群れを次々と薙ぎ払っていった。
◇
「ヴ、ヴォルフラム様……!? それにビー・スー様まで……なぜここに!?」
奇跡のような救援に、ココロギは腰を抜かしかけたまま目を丸くした。東方を守護しているはずの英傑たちが、いま帝都オクタヴィアの石畳の上に立っている。
「ははは! セシリア様が『神託の聖母』として行進されると聞き、駆けつけぬわけにいきましょうか!」
ビー・スーは豪快に笑いながら、地面に突き刺さっていた丸盾を流れるような動作で引き抜いた。そのまま旋風のごとく身を翻し、背後からセシリアへ襲いかかろうとしていた暗殺者の剣を真っ向から受け止める。重厚な打撃音が広場に響き、刺客の腕を一撃で叩き折った。
「それに……ふっ、シェルランテ様から『帝都に妙な陰りがある』と手紙をいただきましてね。嫌な予感がして飛んできて正解でしたよ」
「まったく……この錫杖はどうもしっくり来ん。やはり剣の方が性に合っているのだがな」
ヴォルフラムは軽口を叩きつつも、両手で固く握り直した錫杖を頭上で一閃させた。風を切り裂く重厚な一撃が刺客の胸板を捉え、凄まじい音とともに吹き飛ばす。かつて剣士として鳴らした身体さばきは、武器が聖なる錫杖であろうと変わらぬ鋭さを見せていた。
◇
だが、不気味な紫煙の結界は依然として上空を覆い尽くし、空気そのものを重く押し潰している。
「ぐっ……刺客の数が多すぎる……! 市民に紛れていた者たちだけではない、路地裏からも続々と湧き出してくるぞ!」
先導を務めていた聖騎士たちが盾を並べ、恐怖に狂乱する市民たちを庇いながら防陣を組む。しかし、天信教の残党や利害を同じくする暗殺者たちの攻勢は衰えない。何より、異能を封じられたココロギたちは強力な遠距離攻撃や範囲術式を展開できずにいた。
「できない……っ! 異能さえ動けば……!」
ココロギは唇を噛み締め、必死に指先へ意識を集中させた。しかし体内の脈動は紫の結界に押さえ込まれ、火花ひとつ散らすことができない。
悔しさに歯噛みするココロギがセシリアを見上げると、その瞳には静かながらも絶対の怒りの炎が宿っていた。セシリアは静かに一歩を踏み出すと、背筋を真っ直ぐに伸ばし、純白のドレスの裾を風にたなびかせた。
そして、手にした錫杖を石畳の上に力強く突き立てた。
―― カァン……!! ――
澄み渡る金石の音が広場全体に響き渡った。
セシリアは白絹の宝冠を戴く頭を高く掲げ、凛とした声を張り上げる。その声には帝国の貴妃として、そして『神託の聖母』として民を導く、絶対なる誇りと威厳が満ちていた。
「帝都ラーナの民よ! 恐れることなかれ! いかに闇が包み込もうとも、真理の光が消え去ることはありません!」
その言葉は、恐怖に身を縮めていた市民たちの心へまっすぐに届いた。
「あ……聖母様……!」 「そうだ……! 私たちには聖母様がついている!」
セシリアの佇まいから解き放たれる圧倒的な光輝と気品に、人々の胸に途方もない勇気が芽生える。市民たちは互いに手を取り合い、刺客たちの妨害を跳ね返すようにして聖騎士たちの防陣の後方へと避難し始めた。大混乱に陥っていた人波が、劇的に秩序を取り戻していく。
「なに……!? 結界の中で、なぜこれほどの精神の圧を……!?」
刺客のひとりが狼狽の声をあげた。セシリアが見せたのは異能の力ではない。長年の苦難と深い慈愛によって培われた、人間としての「魂の格」そのものであった。
◇
セシリアが迫り来る新たな刺客を迎え撃つべく、錫杖を天高く掲げたその時――。
錫杖が目も眩むほどの眩い光を放ち、舞い上がった光の帯が天空を覆う紫の膜を力強く貫いた。
―― パリンッッ!!!
硬質なガラスが割れるような美しい音が響き、不気味な膜は瞬く間にひび割れ、輝く光の粒子となって雲散霧消していった。温かな春の陽光が、再び帝都ラーナの石畳へ燦々と降り注ぐ。
「――結界が解けた……っ!」
呪縛が消滅した瞬間、ココロギの体内にみなぎる異能が爆発的に解き放たれた。
ココロギは錫杖から小気味よい金環の音を鳴らしながら躍り出た。まるで舞を踊るように、時に舞踏のごとくしなやかに、時に鋭く刺客たちを次々と仕留めていく。しかしそれは彼女自身の意思ではなく、大いなる何者かの力が彼女を操り人形のように動かしているのだった。
だが群衆の目には、セシリアとココロギが紡ぐその戦いこそがまさに『天上の神闘』であり『降り立った戦女神』そのものに映った。この神話の一場面のような情景は、のちに『真理の光教団』の威光を広め、民衆を改宗させる上で絶大な役割を果たすことになる。
大聖堂手前の広場で騒動が持ち上がると同時に、皇太子リアムが親衛隊を率いて駆けつけた。二百近くに及んだ刺客のうち、五十が倒され、二十が捕縛された。残る暗殺者たちは潮時と悟り、群衆に紛れて散っていった。
「う……うおおおおおっ! 聖母様万歳! 聖騎士様万歳!!」
地鳴りのような手拍子と大歓声が沸き起こる。市民たちは感涙にむせびながら、セシリアとココロギ、そして駆けつけた英雄たちに惜しみない賛辞を送った。
「ココロギ殿! 無事ですか!?」
真っ先に駆け寄ってきたのは皇太子リアムだった。
それと同時に、セシリアはすっと背を向けると、ヴォルフラムとビー・スーを引き連れてそそくさと大聖堂の奥へと消えていった。
実は『真理の光教団』としての行列行進自体は皇帝の許しを得ていたものの、セシリア自身が行列に加わり、まして『神託の聖母』として先頭を練り歩く許可までは得ていなかったのだ。リアムに正体がバレては非常に都合が悪かったのである。
「皇太子殿下! 助けていただきありがとうございます」 「無事で良かった。実はシェルランテから『ココロギ殿が危険だから、兵を率いて急行せよ』と文が届いたのだ」 「シェルランテ様から!?」 「そうだ」
ココロギは確信した。あの結界を打ち破った光の帯も、自分を繰り糸で引くように戦わせた人知を超えた力も、すべてシェルランテによるものだったのだと。
そして春宮の静けさの中、赤子の寝台でシェルランテが満足そうに微笑んでいる姿が、ココロギの脳裏に鮮やかに浮かんでいた――。




