『数百の神秘』
白亜宮の後宮
水鏡宮を抜け出してきた皇女シンシアにとって、『四つ葉堂』という場所は、宮殿の冷たい大理石の回廊とはまったく違う、温もりと安らぎに満ちた隠れ家だった。
午後の柔らかな陽光が、四つ葉堂の窓ガラスを透過して、木板の床に黄金色のまだらを落としている。部屋の隅では、白い毛並みのうさぎが小さな鼻をヒクヒクと動かしながら、置かれた牧草をのんびりと咀嚼していた。
「皇女殿下。いらっしゃいませ。今日もいいお天気ですね」
奥から姿を現したのは、いつもと変わらぬ完璧で美しい巫女装束をまとったココロギだった。
その所作はどこまでも優雅で、おっとりとした雰囲気を纏いながらも、身なりに対するこだわりは一分の隙もない。ココロギは微笑みながら、湯気の立つハーブティーをそっと木のテーブルに置いた。
「ココロギ……お邪魔します」
シンシアは少し緊張を解きほぐすように、自分のスカートの裾をぎゅっと握りしめながら椅子に腰掛けた。十三歳という年齢以上に幼さの残るその横顔には、どこか影がある。昨年の元旦に起きたあの忌まわしい事件――目の前で人が血を流して倒れ、自身も空中に放り投げられた恐怖の記憶は、今でも彼女の夜の眠りを脅かしていた。だからこそ、こうして誰とも違う穏やかな空気を纏うココロギと過ごす時間だけが、心の均衡を保つ唯一の手段だった。
「うさぎさん、今日も元気ですね」
「ええ、とても食いしん坊ですよ。殿下が来てくれると、なんだかうれしそうにしています」
ココロギが優しく微笑みながらうさぎの頭をなでると、シンシアも少しだけ口元を緩め、テーブルの端に置かれたカゴから乾燥した草の葉を取り出して、そっとうさぎの口元に差し出した。モキュモキュと小さな口を動かしてそれを食べる愛らしい姿に、シンシアの胸の緊張が少しずつほどけていく。「……ねえ、ココロギ。私、最近またあの本を読んでいたの」
シンシアが懐から取り出したのは、表紙の擦り切れた一冊の聖書だった。それは『真理の光教団』の聖典であり、彼女が毎日のように読み込み、大半の聖句を暗記してしまっているものだった。彼女はこの教団の教えや、そこに記された祈りの言葉に深く心を惹かれていた。
「『真理の光教団』の聖書ですね。シンシア様は本当に熱心に読まれています。この教えの中には、きっと心の救いになる言葉がたくさんあるのですね」
「うん……この本を開いていると、不思議と心が静かになるの。人間って、どうしてこんなに悩んでばかりいるんだろうって、いつも思うの。お兄様も、お父様も、お母様も、みんなそれぞれの立場で何かを抱えていて……もちろん、私だって……」
シンシアは言葉を濁した。自分がリヴィエールー族の血を引いているにもかかわらず、一族に宿るはずの異能の兆しが一切ないこと。ただの「普通の女の子」であること。そして、皇女という立場でありながら、宮廷見習いとして放り込まれた後宮で、家族との距離感に戸惑い続けていること。誰にも言えなかったそんな胸の内を、不思議とココロギの前では少しだけ吐き出したくなる。
ココロギは静かにうなずき、ハーブティーのカップを両手で包み込みながら、遠い目をした。
「人々の悩みがきれいに消え去った世界があればいいのに――私も、巫女になったばかりの頃は本気でそう祈っていました。でも、長い時間を過ごすうちに、少しずつ気づいてきたんです。人は、悩みが消えないからこそ、誰かを求め、祈り、手を取り合おうとする生き物なのだって……悩みがゼロになることは、きっとないのかもしれません」
「悩みが消えない、動物……」
「はい。私自身、異能の力を使えば、世の中の欲しいものなど何でも簡単に手に入れることができます。でも、人に何かをねだられたとき、それを断らなければならないときには、どうしても嘘をつかなくてはならないこともあって……それがとても苦しいのです。何でもできるはずの巫女なのに、自分の心ひとつ上手に操れないのですから、おかしなものですね」
ココロギがふと見せた苦笑いに、シンシアはハッとした。いつも完璧で、絶対的な神秘の力を備えているように見えるココロギにも、人間らしい葛藤や、隠された重荷があるのだと知ったからだ。
「ココロギも……悩んでいるの?」
「ええ、少しだけ。でも、こうしてシンシア様がお茶を飲みに来てくださって、他愛のないお話を交わしているだけで、その重荷はすっと軽くなる気がします」
ココロギはそう言うと、袖口から一枚の美しい紙片を取り出した。それは周囲に神聖な光を湛えた、手作りの『神秘札』だった。
「これ、今日のぶんです。どうぞ、殿下」
「あ……ありがとう、ココロギ」
シンシアは両手で大切にそれを受け取った。受け取った神秘札は、これで三枚目を優に超え、すでに三百枚以上にもなっていた。彼女の部屋の引き出しには、ココロギからもらったお守りが大切にしまわれている。それらに特別な呪術的な意味があるわけではないが、ココロギの純粋な祈りと優しさが込められたその札は、シンシアにとって何よりも心強い心の支えだった。
「私ね、いつかココロギみたいな、人の為に力を使える立派な巫女になりたいの。宮殿のきらびやかなお化粧や権力闘争なんて本当は怖くて、ただこういう場所で、静かに祈りを捧げて生きていけたらって……」
「殿下は、そのままで十分すぎるほど素敵ですよ。異能がなくても、人の痛みに寄り添い、誰かのために心を痛めることのできるその優しさこそが、何よりも尊い力です」
ココロギのまっすぐな瞳に見つめられ、シンシアは少し恥ずかしそうに頬を赤らめた。自分が誰かに肯定されたという事実が、凍りついていた心の奥底をじんわりと温めていく。
窓の外では、夕暮れの茜色がゆっくりと空を染め始めようとしていた。居宮に戻る時間が近づいていることを知らせる鐘の音が、天井の塔から響いてくる。
「……そろそろ、戻らなくちゃ」
名残惜しそうに呟くシンシアに、ココロギは優しく微笑んでうなずいた。「ええ。でも、いつでもまたいらしてくださいね。この四つ葉堂の扉は、いつだってシンシア様のために開いていますから」
シンシアは立ち上がり、ポケットの中の三百枚数枚目の神秘札をそっと指先で確かめた。少しだけ背筋を伸ばし、彼女は四つ葉堂の扉を開けて外の世界へと踏み出す。足取りは、先ほどよりもわず、かに軽くなっていた。
◯四つ葉堂
帝都オクタヴィアの後宮にある『真理の光教団』の小さな聖堂。妃嬪や女官、宦官の為の礼拝堂であるが、皇帝イリアードが娘ルシアの鎮魂の意味も込めて後宮に作った。特別な正式名がなく、『真理の光教団』の印である四つ葉のクローバーを塔に掲げている為、自然に四つ葉堂と後宮の者は呼ぶようになった。敷地にはクローバーば絨毯のように植えられて、うさぎが数匹放飼いにされている。時刻を知らせる鐘は機械仕掛けで透き通る様な硬質な音を響かせる。音楽も箪笥の様な大きなオルゴールが四つあり、必要に応じて鳴らされる。巫女はココロギ1人であり、奥のスペースはココロギの居住スペースとなっている。
◯ココロギ・サイリュン
『真理の光教団』の教祖であり、聖ゲンドラス教国の教皇ゲンドラス・サイリュンの娘である。母親はリヴィエールの血筋でルミナリアで生まれたが、異能の力を発現した為にセシリアの実家であるルミナリア・リヴィエールにて母子共に保護されて育った。その経緯からルシアの侍女をしていたが、ルシア亡き後は教皇の娘という事もあり、宮女となっては自由が効かない為に、セシリアが皇帝イリアードに後宮に聖堂を作り、ココロギを専属の巫女とする事を提案した。そんな経緯からココロギは宮殿の外と中を自由に行き来出来る特殊な身分の人物となった。16歳。性格は穏やかで天然である。心優しい人物である為に巫女は天職であると本人も思っている。異能の力の為に欲しい物は何でも手に入るが物欲は薄く、質素清貧が基本であるが巫女としての身なり服装だけはこだわりがある。(だらしない、汚い人に人の魂の救済は与えれないとの持論で)四つ葉堂の穏やかな雰囲気はその主の人となりを表している。ルシアを失った理由を探る事とルシアの行っていた義賊『六棘の霜華』の活動も行っている。
◯シンシア
皇女13歳。皇帝イリアードと皇后リゼリアの娘。
皇太子リアムの妹。ルシアの異母妹。
10歳の時に宮廷のしきたりを学ぶ目的で、当時の徳妃ルネッタの侍女として、また第4皇子イスファの婚約者として後宮に入った。元々の性格が大人しい人物であり、リヴィエールの娘でありながら、異能の力が無い為にどこか負い目を感じている。
更に10歳で両親と離れて生活した事と昨年の事件のショックもあり、両親とも他人とも接触が苦手でぎこちない。
唯一、四つ葉堂に毎日のように通い、ココロギと会うのだけは楽しみにしている。『真理の光教団』は異母姉ルシアが作った物であり、その聖書もルシアが書いた物である事をシンシアは知らないまま、聖書を熟読している。
◯神秘札
遥が東のエルサ・ルーメンにて『真理の光教団』の改宗者を増やす目的でルシアが考案した物。異能の力によって、札を与えられる人の今必要な考え方、行いが絵と共に描かれている。同じ物は一つもない為に無限のタロットカード+メッセージカードの様な物。
◯護符
こちらもココロギがその場で作る札。病気が治るが老化によるシミ、シワは取れないのだが、宮女はこぞって密かに顔に擦りつけたりしている。
◯六棘の霜華
寒気の際にガラスに出来た霜の模様をルシアが見て採用した。
『寒さの中でこそ咲く花』の意味である。
この紋章を用いて義賊的な活動と何者でもない隠密活動に用いていた。ルシア亡き後はココロギが引き継ぎ、使用している。




