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『揺籠と龍神の怒り』

皇帝付きの宮女であるエレノアは、ひどく落胆した足取りで皇帝の執務室を後にした。そのすれ違いに、貴妃セシリアが回廊を歩いてやって来た。彼女は俯いてすごすごと退出していくエレノアの背中を、冷ややかな、しかしどこか含みのある目でじっと追いかけた。

執務室のドアを軽く二度ノックし、返事を待たずに声を掛けてから入室した彼女が、真っ先に浮かべたのは底意地の悪そうなニヤリとした笑みであった。

「……相変わらずね」

執務室の光景は、外聞もあっては見られないほどにだらしないものだった。国家の最高権力者であるはずの皇帝イリアードが、玉座でも机でもなく、ふかふかの絨毯の上にどっかりと胡座をかき、生後2ヶ月の孫娘をあやしているのだ。政務など完全にほったらかしである。

「あー、よしよし。なんと可愛いのだ、シェルランテ。お前のその小さな手がわしの指を握るだけで、世界中の宝が色褪せて見えるぞ……」

デレデレと崩れ切った顔で、直視するのもはばかられるほどの親バカ、いや祖父バカぶりを晒す中年男。しかし、当の孫娘であるシェルランテは、何がそんなに面白いのか、ケラケラと澄んだ鈴を転がすような笑い声をあげて喜んでいる。可愛い盛りの赤子を囲んで和やかなのは結構だが、母親である皇太子妃はここ連日気を揉み通しでやつれ果てているというのに、この祖父はどうだ。若い母親のもとに一刻も早く可愛い赤子を返してやらねばならない。そして何より、仕事もせずに孫の頬をつついて遊んでいるだけの皇帝の尻を叩いて、山積みの公務を片付けさせなければ――その使命感を胸に、セシリアは足音高く歩み寄った。


◇「これでは、いくら色仕掛けを試みたところで、あのエレノアも手も足も出ないわけね。……まったく、陛下のお戯れにもほどがありますわ」

セシリアのあきれ返った独り言を聞きつけ、イリアードは不機嫌そうに顔を上げた。

「なんだ、セシリアか。邪魔をするな、今わしはシェルランテと心を通わせているところなのだ」

しかし、孫娘と自分とは唯一無二の、誰にも邪魔できない魂の絆で結ばれていると本気で錯覚していた皇帝の腕を、セシリアは躊躇なくするりと交わし、鮮やかな手並みで見事にシェルランテを抱き上げた。ほんの数瞬前まで皇帝の腕の中にいた赤子は、ふわりと宙を浮遊するような心地よさのまま、すっぽりとセシリアの温かい腕の中に着地した。

「ああっ、わしのシェルランテがっ!」

慌てて手を伸ばすイリアードに対し、セシリアは「どうだ、これが大人の手際というものです」とばかりに、どこか尊大な、勝ち誇った表情で見やった。

「お返しいただきますわ。母親であるシルヴィア様がどんな思いで心配なさっているか、少しはお考えになったことがありますの?」

「ぬう……。泥棒まがいの真似をしに来たのか、貴様は?」

イリアードは負け犬の遠吠えと、まるで狂犬病にでもかかったかのような苛立ちの入り混じった情けない顔で、強烈な捨て台詞を吐き散らした。

だが、セシリアは微塵も物怖じしなかった。なにせ、この男とはもう三十年もの長きにわたって同じ一緒に過ごしているのだ。あしらいなど手慣れたものだった。

「いいえ、滅相もございません。オーレリアのため、全国民のため、そして全領土の平穏を思って参ったのですよ、陛下」

セシリアは優雅に微笑みながら、腕の中ですやすやと安心した息を立て始めた赤子の頬を優しく撫でた。


◇「どうぞ、たまった政務に精を出してくださいませ。シェルランテは、私が責任を持って、心配でたまらない母親の元へ送り届けますゆえ」

イリアードはぐうの音も出ないといった様子で、苦々しい表情のまま側室を睨みつけた。しかしその心の底では、どこか安堵している自分もいた。

ここ一年ほど、彼女たちは深い悲しみに包まれていた。愛娘のルシアと妹のルネッタを相次いで失い、貴妃セシリアは故郷のルミナリアへ帰りたいと涙ながらに懇願し続けていたのだ。皇后リゼリアと共に帝都に留まるよう説得し、引き留めてはみたものの、イリアード自身にとっても胸を引き裂かれるような苦しみの続く一年だった。

だが――このシェルランテという小さな命が生まれたことによって、閉ざされていた皇家にもようやく明るい光が差し込み始めたのもまた事実だった。


◇

セシリアが赤子を連れて去った静けさもつかの間、執務室の重厚な扉が慌ただしく叩かれた。

返事を待つこともなく飛び込んできたのは、司徒であるマグナス・クレインであった。その傍らには、尚書令の息子であるハリス・クレインが冷や汗を拭いながら付き従っている。

マグナス・クレインは、イリアードにとって極めて重要な臣下のひとりだった。年齢こそかなりの高齢に達しているが、文官としては最高位である三公の座にふさわしい圧倒的な知性と経験を買われ、セレスティアの地からわざわざ帝都へと戻ってもらった人物である。その息子ハリスもまた、父を支えるべくセレスティアから中央へ招聘した俊英だった。

そんな老臣親子が、いまや血相をかいて執務室に駆け込んできたのだ。ただ事ではない。

「陛下! 一大事でございます!」

「どうした、マグナス。そんなに慌てて、心臓に悪いぞ」

「前日、アルヴェリア領内で発生した『あの怪現象』についてでございます!」


◇マグナスが声を荒らげたのは、昨日本地で起きた不可解な出来事についてだった。領民の間では、「龍神の怒りに触れた結果、巨大な竜巻がアシュロンの水を吸い上げたのだ」という噂がまことしやかに囁かれ、大パニックに陥っているという。しかし、その件の真相はといえば、すでに皇帝の耳にも母フレデリカと巫女ココロギからの密書によって届いており、実質的には解決済みの問題であった。

イリアードが内心で「まったく、民というのは大げさに騒ぐものだ」と苦笑いしていると、マグナスが震える声でさらに信じがたい事実を口にした。

「信じられませぬ……! あろうことか、現場には皇太后様――フレデリカ様がご参加あそばされていたというではありませんか!」

「……ふむ」

「一体どのようにして龍の気配渦巻く現場に……? いったい我が国の皇室はどうなっておるのか、老骨には理解が追いつきませぬ!」

イリアードは深く溜息をつき、自らの手を見つめた。自分自身の中に脈々と流れるリヴィエールの血を自覚してはいたものの、こうして赤子の代からその奇跡の一端を見せつけられては、一族が持つ血脈の不思議さ、そしてその底知れぬ奥深さに、皇帝である彼自身すらも深い困惑と畏怖を覚えずにはいられなかったのであった。

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