『美しすぎる老貴婦人』
アシュウェストの4つの商会から得た手がかり――かつてこの地を襲った大洪水の記憶、隠された水路、そして水底に沈められた旧大聖堂の遺物。すべての線が、対岸の広大な土地、アルヴェリアの湿地跡へと繋がっていた。
かつてミカエルが蓋をした禁忌の地。そこは今、天信教の狂信者たちと黒山羊結社の手によって、数百年前の「大水没」を再現するための巨大な儀式場へと変貌を遂げていた。
夜空を覆う不気味な紫色の暗雲の下、泥濘ぬかるみの至る所に配置された巨大な魔方陣が、禍々しい光を放ちながら大運河とアシュロン川の霊水を吸い上げている。その中心に立つのは、あの初老の黒幕、アルカディアスだ。
「満ちよ、原始の水よ。欺瞞の都を押し流し、真なる神の器をここに開かん」
アルカディアスの朗々とした声が響き渡る。地鳴りのような轟音と共に、大運河の水位が異常な速さで上昇し、堤防を越えてアシュウェストの街へと溢れ出そうとしていた。
「そこまでです、アルカディアス!」
泥を跳ね上げながら、ココロギとビー・スーは湿地跡の最奥へと躍り出た。
「ほう、本当にここまで来るとはね。だが、すでに水門は開かれた。君たちリヴィエールの薄汚れた血の力ごときで、この大濁流を止められると思っているのかね?」
アルカディアスが冷酷に手を掲げると、周囲の泥濘から、黒い泥をまとった異形の大蛇たちが次々と這い出し、ココロギたちへ牙を剥いた。
「ビー・スー様。儀式の魔方陣を壊してください! アルカディアスは私が止めます!」
ココロギの叫びを合図に、アルヴェリアの湿地跡は一瞬にして激しい戦場へと化した。ビー・スーの錫杖が異形を切り裂き、魔方陣の破壊を試みる。しかし、結社の放つ禁忌の呪詛は凄まじく、戦況は一進一退の混戦へと陥っていく。
ココロギは、激しい濁流が渦巻く中心――アルカディアスの元へと突き進んだ。
「君に何ができる? 己の力すら自在に扱えぬ、未完成の巫女よ」
アルカディアスが放った黒い影の衝撃波が、容赦なくココロギを襲う。
ココロギは障壁を目の前に展開したが、激しい衝撃が彼女の身体を打ち付け、足元の泥へと膝をつかせる。
(痛い……、でも、ここで私が退いたら、アシュウェストも、白亜宮も、みんな水底に沈んでしまう……!)
脳裏に浮かぶのは、四つ葉堂の緑の絨毯。のんびりと遊ぶうさぎたち。仕事をサボって笑い合っていた女官たちの、何気ない日常の光景だった。あの温かな場所を、こんな冷たい濁流に飲み込ませるわけにはいかない。
「私は……、もう逃げません!」
ココロギが強く胸に誓ったその瞬間、「リヴィエール直系の真の異能」が、ついに現れた。
これまでの制御不能な暴走ではない。彼女の意志に応えるように、全身から澄み切った黄金の光が溢れ出す。ココロギの身体をまばゆい光の壁が包み込み、アルカディアスの黒い呪詛を完全に掻き消した。
「何……!? 異能の出力を完全に掌握したというのか……!」
初めてアルカディアスの顔に驚愕の色が走る。
「ここは誰の庭かわかっているのかしら?」
現れたのは恐ろしく美しい老貴婦人であった。胸に抱いている赤子はなんと皇女シェルランテである。
「私を忘れるとはあなたも年老いたわね?アルカディアス」
現れたアルヴェリアの主。アルストラーナ帝国第15代皇帝イリアードの母親。皇太后フレデリカ・リヴィエールと皇太子リアムの娘。皇女シェルランテ・フォン・アルストラーナの力が、湿地帯のすべての「水」へと干渉を始める。
天信教の儀式によって逆巻いていた大濁流が、彼女達の祈りによって、一瞬にしてその勢いを失っていく。それどころか、渦巻く水流は巨大な光の激流へと姿を変え、アルカディアスが築き上げた中心の魔方陣へと殺到した。
「バカな……! 数百年の封印を、押し戻すというのか……!」
ドガァァァン!!
眩い光の水柱がアルヴェリアの夜空へと突き抜け、不気味な紫の暗雲を跡形もなく吹き飛ばした。
中心にあった巨大な儀式場は木微塵に砕け散り、魔方陣の光は完全に失われた。
光の霧が晴れ渡った湿地跡には、ただ、静かに満ちる透明な水と、雲の切れ間から差し込む美しい月明かりだけが残されていた。
アルカディアスの姿は、砕け散った儀式場のどこにもなかった。結社の残党と共に、間一髪で闇へと逃げ延びたのだろう。しかし、彼らが目論んだ「大水没」の陰謀は、ここに完全に潰えたのだ。
「すごっ……すぎるわ……」
すべての力を使い果たしたココロギは、ゆっくりと その場に崩れ落ちそうになった。しかし、それを支えたのは、駆けつけたフレデリカの温かい手だった。
遠く対岸からは、水害の危機を脱したアシュウェストの街の灯りが、変わらぬ輝きを放ってこちらを照らしている。
ココロギは、フレデリカとシェルランテを見つめながら、静かに息を吐いた。黒山羊結社との戦いは、まだ始まったばかりかもしれない。けれど、彼女の胸には、大一番の危機を脱した確かな安堵を感じていたのであった。




