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『六棘の錫杖』

バルザック家の立ち入り禁止区域、月明かりすら届かない旧第5ドック。

水底に沈めた神秘札の光が、ゆらゆらと巨大な十字架――沈められた大聖堂の尖塔を浮かび上がらせたその瞬間、背後の濃密な闇が、鋭く、冷たく、凝縮した。

「――六棘の霜華。本物か?ずいぶんと鼻が利くようだ」

カチリ、と硬質な金属音が静寂を噛み切る。

ココロギが息を詰め、ゆっくりと振り返ると、そこには漆黒の法衣をまとった男が立っていた。男の胸元には、不気味に歪んだ「三つの目を持つ黒山羊」の銀の紋章が鈍く光っている。

ビー・スーがすぐさま丸盾と短錫杖を構えた。ココロギも六棘の長錫杖を握りなおす。

「……黒山羊結社?」

ココロギの口から、警戒を孕んだ声が漏れた。

黒山羊結社。それは帝国の影で暗躍する狂信的な秘密組織だ。噂だけが独り歩きし実在しないものというのが、一般的な見解であった。なぜ造船商の、それもこんな打ち捨てられたドックに彼らがいるのか。

「驚いたな。リヴィエール家の最高傑作たる異能の者が、このような薄汚れた港の底を覗き込んでいるとは。だが、そこまでだ、ココロギ・サイリュン」

なぜココロギの正体がわかったのか?そのような疑問を持つ余裕すらない。

男が歪な形の剣を構える。その刃には、ドロリとした紫色の不気味な光――異能を強制的に封じる、あるいは命を吸い上げる呪詛がまとわりついていた。ココロギはとっさに空を見上げた。

あの時と同じように紫のオーロラは出現していない。つまりココロギの力を完全に封じる結界は張られていない。

夜の帳に包まれたドックは完全な密室だ。大声を上げても、バルザック家の私兵か、あるいは結社の息がかかった者に握り潰されるだろう。

「あなたたちは……ここで何をしているのですか? この水底に眠るものが何なのか、知っているのですね」

「知る必要のないことだ。お前はただ、ここで『水難事故』に遭えばいい」

男が地を蹴った。容赦のない、鋭い一突きがココロギの喉元へと肉薄する。

ビー・スーの丸盾がそれを阻害した。いや。ココロギの瞬間跳躍が二人の位置を変えたのだ。

ココロギは男の背後から六棘の錫杖を振り下ろした。

「えいッ!!」

力が弱いがココロギの攻撃は当たった。錫杖の棘は鋭く、とにかく当たれば生身の身体ならば必ず怪我はする優秀な武器であった。

「おのれーッ!」

男は振り向きざまにココロギを狙って剣を振り抜いたが、しかし、彼女は消えまたしても男の剣は空を切った。

男の後頭部をビー・スーの短錫杖が狙う。

頭蓋骨にダメージを与える鈍い衝突音と、錫杖の金環の金属音が交差する。

「ぐはっ」

側面に移動していたココロギは長柄の遠心力をフルに活用し、端を両手で持ちつつフル横凪した。

「やーッ!」

男の剣を弾き飛ばし、ビー・スーが繰り出した丸盾の衝撃で、その身体を容赦なく背後の石壁へと叩きつけた。

「ぐはっ……!? なんだ、この強さは……! 化け物だ……!」

壁に激突した男が、口から血を吐きながら驚愕に目を見開く。

しかし、力を放出したココロギ自身も、その反動で激しい眩暈に襲われ、膝をついた。呼吸が荒くなり、視界がちかちかと明滅する。

(だめ……、援軍が来たら……。終わりにしないと制御できなくなる……!)

「そこまでにしてもらおう、結社の狗いぬめ」

暗闇から現れたのは、このアシュウェストの調査を進める中で、最も警戒すべき「別の影」だった。

激しい眩暈めまいに耐えながらココロギは視線を上げた。

闇の向こうから歩み出てきたのは、仕立ての良い漆黒の外套を羽織った、一人の初老の男性だった。

白髪を綺麗に整え、一見するとどこか高潔な学者か、あるいは引退した高官のような穏やかな風貌をしている。しかし、その双眸そうぼうだけは、底知れない冷徹さと、すべてを見透かすような狂気を孕んだ輝きを放っていた。

「見事な暴走だ、ココロギ・サイリュン。リヴィエールの血が秘める干渉能力……やはり、私の見立てに狂いはなかった」

その男が静かに言葉を発した瞬間、先ほどまでココロギに刃を向けていた結社の男が、血を吐きながらも這いつくばり、恐怖に震えながら頭こうべを垂れた。

「ア、アルカディアス様……! 申し訳ありません、この小娘がまさかこれほどの力を――」

「下がっていなさい。君の役目はもう終わった」

アルカディアスと呼ばれた初老の男は、一瞥もくれずにそう言い放った。その冷酷な一言だけで、結社の構成員がどれほど彼を恐れているかが手に取るようにわかる。

彼こそが、帝国の影で暗躍する『黒山羊結社』の頂点に立つ中心人物であり、同時に、近年大陸全土に不穏な影を落としている『天信教』の真の黒幕であった。

「あなたが……この糸を引いているのですか? 結社を動かし、天信教を使って、この世界の過去を貪ろうとしている……」

ココロギは肩で息をしながら、錫杖を握りしめ直した。

アルカディアスはふっと贅沢な笑みを浮かべ、水没した大聖堂の尖塔が眠るドックの水面を見つめた。

「貪る、とは人聞きが悪い。私はただ、歴史の正しい収穫を行おうとしているだけだよ。アシュウェスト、そして対岸のアルヴェリア……。数百年前、ミカエルが無理やり『蓋』をしたこの地の真実を、元の姿に戻すだけだ」

「蓋……?ミカエル……?」

「そうだ。この街の5大商人は、かつて大洪水によって沈んだ旧大聖堂の遺利を貪り、その上に築かれた。ガルド家の防波堤も、ヴェルネ家の隠し水路も、メッシーナ家の水脈図も……すべては、この底に眠る『原始の力』を世から隠し通すための欺瞞に過ぎない」

アルカディアスが一歩、足を進める。その瞬間、彼の足元からどす黒い粘着質な影が広がり、ドックの海水をジワジワと侵食していった。それはココロギの持つ聖なる異能とは対極にある、禍々しい禁忌の力だった。

「ココロギ。セシリアも、そしてルシアも、その血の宿命に囚われながら真実に近づきすぎた。ルシアがルミナリア郊外のセレスティア大聖堂を選んだのも、この『水底の都』の封印を維持するためだ。だが、それももう限界を迎える」

「ルシア様が……?」

「天信教の信徒たちは、すでにこの地で最後の儀式の準備を進めている。間もなく、この大運河とアシュロン川の交差点は、再び数百年前の『大水没』を引き起こすだろう。すべてを洗い流し、真の神を呼び降ろすためにね」

アルカディアスはそう言うと、満足そうに目を細めてココロギを見下ろした。今ここで彼女の命を奪うことも容易なはずだが、彼はあえてそうしなかった。

「君のその未完成な異能が、これから訪れる濁流の中でどう抗うか、見物させてもらうよ。せいぜい、その小さな四つ葉堂の殻に閉じこもって、嵐が過ぎ去るのを祈るがいい」

彼が外套を翻した瞬間、ドック一帯を濃密な黒い霧が包み込んだ。

ココロギが咄嗟に顔を覆い、霧が晴れた時には――アルカディアスも、負傷した結社の構成員も、影も形もなく消え去っていた。

静寂を取り戻した旧第5ドックには、ただ、冷たい夜風と、不穏に波打つ水の音だけが残されていた。

ココロギは立ち上がり、アルヴェリアがある東の空を見つめる。そこにはすでに、天信教の暗雲が立ち込め始めているように見えた。

(急がなきゃ……。アシュウェストの商会たちが隠してきた秘密を繋ぎ合わせて、アルヴェリアへ行かないと、本当に全てが飲み込まれてしまう……!)

ココロギは得体の知れない渦中に身を投じる決意を固めるのだった。

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