『歪んだ富と欲望の都』
アシュウェストの地に降り立ったココロギを真っ先に出迎えたのは、鼻腔を突く大運河の潮気と、水面にひしめき合う無数の運搬船の軋みだった。そして、この街の動脈たる大河アシュロンが運んでくる、肌を刺すような冷ややかな川風が、ココロギの淡い栗色の髪の毛を靡かせた。
この街には、天を仰ぐような大聖堂は存在しない。
神の権威が届かぬこの地において、信仰に代わる絶対の正義とは「富」そのものだった。表向きは皇帝の直轄地という厳格な顔を持っていながら、その実、街の血肉を支配しているのは裏社会に君臨する「五大商人」たち。彼らが定めた独自の暗黙ルールこそが、この街の真の法律であった。
その五大商人のうち、ココロギ自身の実家筋である「リヴィエール商会」を除いた、残る四つの巨大商会。彼らがひた隠しにする秘密を暴くため、ココロギは身分を隠し、それぞれの館へと足を踏み入れる決意を固めていた。
「久しぶりだな、ココロギ。急に呼び出すもんだから、何事かと思って驚いたよ」
愛用する丸盾を器用に背中へと回し、短い髪を無造作に整えながら、一人の青年が歩み寄ってくる。男の名はビー・スー。はるか東のディヌイヤ・ラーナ公国において、『真理の光教団』の司教を務める人物だった。
「ごめんなさい、ビー・スーさん。どうしても、私一人では不安で……」
「はは、まともに召喚術が使えるようになっただけでも大進歩じゃないか。それにしても帰りは大丈夫かい? ここから俺のランテルまでは数千キロも彼方だ。ちゃんと俺を元の場所に帰してくれよ?」
ディヌイヤ王国生まれの青年は、南国らしい快活な笑みを浮かべて肩をすくめた。
その言葉に、ココロギはむっと頬を膨らませて顔を赤くした。
「だ、だ、だ、大丈夫ですよ! 私だっていつまでも子供じゃないんですから、少しは成長したところを見せてあげます!」
勢いよく反論したものの、その語尾は心なしか震えていた。彼女の胸に去来するのは、これまでに積み上げてきた「星の数ほどもある失敗」の苦い記憶だったからだ。一抹の不安を隠しきれない彼女の様子を見て、ビー・スーは苦笑しながらも、その視線を優しく和らげた。
「よし、日没までまだ少し時間がある。人気のない船着き場の外れへ移動しよう。そこでゆっくり、今回の事情と作戦を聞かせてもらうよ」
二人は引き返していく波の音に背を向け、静まり返った影へと歩みを進めた。
◇
闇がアシュウェストの街を包み込む頃、二人の影は音もなく動き出した。
フード付きの深いローブを頭から被り、その素顔は容易に窺い知ることはできない。ただ、夜の闇の中でも、彼らのローブの右腕、左胸、そして背中に施された『六棘の霜華』の緻密な刺繍だけが、静かにその存在を主張していた。大陸中で神出鬼没する義賊の紋章である。ルシア亡き後はセシリアとココロギが用いて活動している。
最初に二人が狙いを定めたのは、この街で最も古い歴史を誇る穀物商、ガルド家の広大な館だった。
忍び込んだ先は、冷気と静寂が支配する地下倉庫。だが、その場所に一歩足を踏み入れた瞬間、ココロギは肌にまとわりつく奇妙な不快感を覚えた。
(……おかしい。湿気が強すぎるわ)
穀物を保管する倉庫としては、この異様な湿度は致命的というほかない。それにもかかわらず、ガルド家は頑なにこの地下空間を使い続けている。そこには必ず理由があるはずだった。
ココロギは周囲を警戒しながら、ひっそりと壁面に埋め込まれた古い石積みに手を触れた。集中を高めると、彼女の指先から淡い異能の力が灯り、石の記憶が脳裏へと流れ込んでくる。
(これは……ただの穀物庫じゃない。大昔に造られた、巨大な『防波堤』の跡……?)
それは、かつてこの街を未曾有の水害から守っていた、あるいは「何か」を冷たい水の底へ堰き止めていた古い巨大建造物の真上だった。ガルド家の館は、その歴史を覆い隠すように建てられていたのだ。
次なる標的は、花の都ルミナリアや港湾都市フローラブルグとの交易を一手に担う貴金属商、ヴェルネ家の館。
ここは厳重な警備兵が目を光らせており、鼠一匹潜り込む隙もない。しかし、ココロギの空間跳躍の異能の前には、どれほど堅牢な鉄壁も意味をなさなかった。
軽い浮遊感と共に、二人の視界は一瞬で切り替わる。
辿り着いたのは、館の最深部に位置する重厚な金庫室。周囲には、息を呑むほどきらびやかな宝石や、うず高く積まれた金銀財宝が鈍い光を放っていた。だが、ココロギの目は、それらの富には一瞥もくれず、部屋の最奥にある不自然な空間へと釘付けになった。
そこには、「漆喰で完全に塗りつぶされた扉」があった。
ココロギが意識を集中して透視の力を重ねると、漆喰の奥に刻まれた禍々しい「忌み文字」が浮かび上がってくる。背筋が凍るような不吉な気配。相当な年月、誰の目にも触れぬよう厳重に封印されてきたことが見て取れた。
さらに彼女が鼻をそっと動かすと、塗りつぶされた僅かな隙間から、かすかに奇妙な匂いが漂ってくることに気づく。それは、ひどく「干からびた海の藻」の、生臭い名残だった。
(この扉の向こう……かつて海や大河へと繋がっていた、秘密の水路だわ)
富の象徴である金庫室の裏に隠された、水の通り道。一体、この街は何を隠そうとしているのか。
三つ目に訪れたのは、最高級の絹や豪奢な織物を扱うメッシーナ家。
格式高い広間に潜入したココロギの目に飛び込んできたのは、一族の家宝として厳重に掲げられた古い織物だった。一見すると、それは彼らの富の源泉である大河アシュロンの、美しく雄大な流れを描いた見事なタペストリーに思える。
しかし、ココロギがその刺繍の糸筋を、一本ずつじっと目で追っていくと、脳内に走る違和感が次第に確信へと変わっていく。
(川の流れにしては、不自然に波が逆巻いている。……いいえ、これは風景画じゃない。地図だわ)
それはただの美しい川の景色などではなかった。かつてアシュウェストとアルヴェリアの全土が、一つの巨大な「湖」であった頃の、失われた古の水脈図。メッシーナ家は、現在の地図からは消し去られた広大な水底の地形を、織物の柄という形で、一族の者だけに密かに伝え続けていたのだ。
防波堤、隠された水路、そして水底の地図。
点と点がつながり、不穏な輪郭を結び始めていた。
最後に残ったのは、街の裏社会や密輸組織とも深く繋がっていると噂される、最大手の造船商バルザック家。
事の重大さを察したココロギとビー・スーは、深く息を吐いて意を決し、完全に夜の帳が降りた不気味な港へと忍び込んだ。
目指すは、バルザック家が厳重に指定する立ち入り禁止区域「旧第5ドック」。
そこは、なぜか今では全く使われておらず、水門が固く閉ざされたままになっていた。循環を失った水はどす黒く腐り、鼻を突く悪臭と共に淀んだ水面を広げている。
気配を極限まで消しながら、そっと水際へと近づいたココロギは、手元で小さく指を編んだ。彼女の魔力が結晶化し、淡く発光する神秘札が紡ぎ出される。それを、冷たい水底へとそっと沈めた。
ゆらゆらと、揺らめきながら沈んでいく淡い光。それが濁った水の底を照らし出した瞬間、二人は息を呑んだ。
光が映し出したのは、新造船の頑強な船底などではなかった。
――それは、遥か数百年も昔に沈没したと思われる、巨大で、厳かな「大聖堂の尖塔」の影だった。
(アシュウェストに大聖堂がないんじゃない……。街の誕生の前に、最初の聖堂はここに『沈められた』んだわ……!)
歴史から抹消された信仰の象徴。
五大商人が隠し続けてきた都の狂気と真実に辿り着き、二人が驚愕に目を見開いて顔を見合わせた、その時だった。
――カチリ。
背後の容赦のない暗闇から、金属が擦れ合う冷徹な音が響いた。
それは、彼らの背後で静かに、しかし確実に抜かれた「剣」の音であった。




