『転生姫の聖書と計画書』
ルミナリアがなぜ、これほどまでに花と文化、そして芸術に溢れているのか。それは帝国建国から三百年を過ぎてなお、ただの一度も戦火に見舞われたことがない土地だからである。ここに存在するのは、平和と繁栄、そして咲き誇る百合の花々。
だが、これはあくまで表向きの虚構に過ぎない。 その実態は、富む者と貧しき者の格差が明確に隔てられたまま、流動性も交わりもなく三百年もの歳月が過ぎ去ってきたに過ぎないのだ。
裕福な者がさらに富を膨らませていくのが経済の原理であり、相対的に取り残された者たちはどこまでも貧しくなり続けていく。この街の繁栄を無邪気に謳い、賞賛する者がいるとするならば、それは見るべき現実から目を背けている『知的を装った愚鈍さ』と言わざるを得ない。
ルミナリアの西の外れ、美麗なエレスティアル山の麓に佇む城は、いまやこの世のものとは思えぬほど豪華絢爛な大聖堂へと変貌を遂げていた。
その日の朝、セシリアが目覚めると、枕元に二冊の分厚い本が置かれていた。 手に取ってみれば、それらは『真理の光教団』の聖書と『予定、計画書』であった。表紙にはまるで幼い犬猫の肉球のように、ルシアの小さな手形がポンと押されている。
セシリアは跳ね起きるようにして出かける支度を始めた。エミーナとロゼッタもその異様な気迫に気おされ、遅れをとるまいと慌てふためいて身支度を整える。 ただ一人、崔厳はすべてを悟っているかのように冷静沈着であった。あるいは、すでに己の役割になりきっているのかもしれない。なぜなら彼は本日より、『真理の光教団』の教祖『ゲンドラス・サイリュン』となったのだから。彼もまた、胸元に二冊の本を携えていた。
用意させた二台の馬車に、セシリアたちは手分けして乗り込んだ。ルシアはエミーナの腕に抱かれている。セシリアは大聖堂へ到着するまでに、この二冊の手書きの本を読み終えるつもりであった。
そして彼女は、アクアパレスにいるリゼリアへと『念』を送った。 それは相談というよりも、純粋な情報の共有でしかない。なぜなら、ルシアの描いたこの計画は、あまりにも完璧に見えたからだ。
(……けれど、リゼリア姉様ならこれを読んでなんと答えるかしら?)
セシリアは静かに目を閉じ、最も心を許し、常に寄り添い合ってきたリゼリアからの返答を待った。
◇
アクアパレスの静謐な執務室。窓から差し込む柔らかな光の中、リゼリアはセシリアから送られてきた『念』の波動を正確に受け取り、脳裏に展開された『真理の光教団』の聖書と『予定、計画書』の全容を静かに反芻していた。
生後わずか四ヶ月の幼子ルシアが仕掛けた、あまりにも緻密で容赦のない計画。 ルミナリアが三百年かけて覆い隠してきた「平和と繁栄」という名の虚構——固定化された貧富の格差、見捨てられ沈殿していった貧困層の失望と怨嗟。その暗部に完璧に合致する「救い」の教義を提示し、信仰という名の巨大なエネルギーと資金を一気に回収する新興宗教の立ち上げ。しかもその教祖として据えたのは、常に沈黙を守り、冷徹なまでに忠実な男・崔厳ゲンドラス・サイリュンである。
すべてを読み終えたリゼリアの唇から、小さな溜息とともに、可笑しさと慄然りつぜんが入り混じった笑みがこぼれ落ちた。 リゼリアはセシリアへ向け、知的な瞳に深い思索の光を宿しながら、静かに『念』の返答を紡ぎ出した。
「……相変わらず、あの子のなさることは容赦がありませんね、セシリア」
脳裏に直接響くリゼリアの落ち着いた声に、揺れる馬車の中で本をめくっていたセシリアはふっと息をのんだ。
「三百年もの間、戦火を知らず、表面上の美しさと芸術で塗りたくられたルミナリア。富める者がさらに富み、虐げられた貧者が思考すら奪われて沈んでいく構造……それを見過ごす『知的を装った愚鈍さ』を、あの子が一瞬で見抜いてみせたというわけですか」
リゼリアの声には、ルシアの恐るべき洞察力に対する深い感嘆が込められていた。
「この計画の恐ろしいところは、完璧な『需要と供給』が成り立っている点です。光が強ければ強いほど、影は濃くなる。ルミナリアが誇る美しい百合の花の陰で、誰からも見向きもされなかった人々にとって、豪華絢爛な大聖堂と『真理の光』は、この世で唯一の救済に見えるでしょう。彼らにとって、それは偽りではなく『真実』となるのです」
一呼吸置き、リゼリアはアクアパレスの窓の外、遠く広がる帝国の情勢を見つめるように言葉を続けた。
「崔厳を教祖『ゲンドラス・サイリュン』に据えたのも見事というほかありません。彼のあの揺るぎない沈黙と圧倒的な存在感は、民衆をひれ伏させる『神聖な威厳』として完璧に機能します。彼自身がすでにその気になっているというのも、実に可笑しく、そして頼もしいかぎりです」
そして、リゼリアの声のトーンが少しだけ低く、真摯なものへと変わる。
「セシリア。あなたが『相談ではなく情報の共有』だと断じた通り、この計画に隙はありません。経済戦争で得た資本、ニルニラ家の城という大聖堂、虐げられた民衆の信仰心、そしてそれらを裏から統制するリヴィエール一族の力……これらが組み合わさった時、ルミナリアの停滞した三百年は終わりを告げ、帝国の裏の権力構造は完全に塗り替えられます」
最後に、リゼリアはくすりと可笑しそうに、けれど母親であるセシリアの心に寄り添うように語りかけた。
「あえて私から付け加える答えがあるとするならば……『おめでとう、そしてご愁傷様』でしょうか。生後四ヶ月にして、都市の歪みを利用し宗教と裏の経済圏を立ち上げる我が子を持ったお母様の苦労は、察するに余りあります。けれど、覚悟を決めなさい、セシリア。あの小さなルシアちゃんが描く未来の盤上に、もはや逃げ場はありません。
……ふふ、私もアクアパレスから、この『真理の光』がどれほど鮮やかにルミナリアの虚構を焼き払うのか、高みの見物を決め込むといたしましょう。どうか、教祖様によろしくお伝えくださいね」
念の通信が静かに切れると、セシリアは膝の上の『予定、計画書』に視線を落とし、深く溜息をついた。 隣の馬車でエミーナの腕に抱かれ、すやすやと愛らしい寝顔を見せている娘と、胸元に聖書を抱えて凛と佇む「教祖ゲンドラス」の姿を思い浮かべながら、セシリアは「本当に、覚悟を決めるしかなさそうね」と、心の中で呟くのだった。




