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『アルストラーナ伝記』  作者: リアトト
『聖地エルサ・ルーメン』帝国歴322年
67/142

『籠の中の鳥であっても』


皇帝執務室での対談から数日後。白亜宮の回廊は、来る祝宴の準備に追われる給仕や官吏たちで行き交い、かつてない華やかさに包まれていた。

しかし、帝都ラーナの賑わいとは裏腹に、親王家の仮住まいとなっている離宮の一室には、重々しい静寂が漂っていた。

「……急すぎる転変ですね、父上」

部屋の窓辺に立ち、白亜宮の壮麗な庭園を見下ろしながら、リアムがぽつりと呟いた。その手に握られているのは、先ほど皇帝より下賜されたばかりの、重厚な装飾が施された聖剣アウレリウスであった。

「皇帝陛下――兄上の狙いは明確だ」

ソファに腰を下ろしたイリアードは、静かに茶を口に含みながら言った。

「グラッデェの五十万を破り、ベグ・バールを捕らえた我がセレスティア家の威望は、今や絶頂にある。武功はあまりに大きすぎれば、時に皇床を脅かす刃ともなるのだ。私を大元帥として帝都に留め置き、お前を皇女殿下の夫として縛り付ける……すべては、我が家を皇室の完全な傘下に収めるための手立てだな。だが逆に言えば、それこそが我が家をさらなる策謀から守る手段でもある」

離れた本領に留まっていれば、必ずや「セレスティア家が謀反を企てている」と皇帝の耳に吹き込む者が現れるのだ。

「……わかっていらっしゃったのですか。ルミナリアを望まれたのは、ルシアへの恩賞ですね?」

リアムが振り返ると、イリアードは薄く微笑んだ。

「それもある。ルシアの母・セシリアを、せめて故郷の温暖なルミナリアで穏やかに暮らさせたいというのは本心だ。だが、我らが帝都に移れば、本領セレスティアの治世は信頼できる家臣に委ねざるを得んからな」

「セレスティア……」

リアムは聖剣の柄を握る手の手応えを確かめた。

その時、重厚な扉がノックされ、親王家の老侍従が入室してきた。

「失礼いたします、イリアード様、リアム様。……皇女シルヴィア殿下より、リアム様にお会いしたいとのご要望が届いております。白亜宮の後庭にて、お待ちとのことにございます」

父子は密事の終わりを告げるように、静かに視線を交わした。

「行きなさい、リアム」

イリアードは頷いた。

「お前の婚姻は、もはや一人の男の好き嫌いで決められるものではない。だが、これから生涯を共にするお方だ。しっかりと見定めてくるといい」

「……はい、父上」

リアムは深々と一礼し、部屋を後にした。

白亜宮の後庭は、色とりどりのかぐわしい花々が咲き誇る美しい温室となっていた。ガラス張りの天井から降り注ぐ陽光の中に、ひとりの少女が佇んでいる。

繊細な刺繍が施されたドレスを身に纏い、輝く金髪をなびかせた少女――皇帝アラリックの第6皇女、シルヴィア・フォン・アルストラーナであった。

「初めまして、セレスティアの若き英雄殿」

リアムが近づき、膝をつこうとすると、シルヴィアは可憐な声でそれを制した。

「お立ちなさい、リアム卿。ここでは固苦しい礼儀は無用です。……わたくしたちは、近いうちに夫婦になるのですから」

リアムが顔を上げると、そこには想像していたような気高き皇女の表情ではなく、どこか冷徹とも言える澄んだ瞳で見つめる少女の姿があった。

「父上より伺いましたわ。アンチアルマでのあなたの武功……そして、わたくしたちの結納の儀のことを」

「……は。身に余る光栄にございます、シルヴィア殿下」

「光栄、ですか?」

シルヴィアは小さく首を傾げ、可笑しそうにクスリと笑った。

「本心からそうお思いかしら? あなたは、この婚姻によって帝都という籠の中に飼われることになるのですよ? 英雄と持て囃されながら、その実、自由を奪われた鳥となることを、あなたは本当に喜んでいるのですか?」

その言葉はあまりにも鋭く、リアムの核心を突いていた。十六歳の少年に向けるには、あまりに政治的で容赦のない一撃であった。

しかし、リアムの瞳から光が消えることはなかった。彼はゆっくりと立ち上がると、シルヴィアの正面に立ち、真っ直ぐにその目を見つめ返した。

「――籠の中の鳥であっても、羽を研ぐことはできます」

「……なっ」

予想外の返答に、シルヴィアは一瞬息をのんだ。

「私は皇帝陛下の女婿として、この中央で力を尽くします。たとえそれが監視の目の下であっても、我がセレスティア家が帝国の柱石であることに変わりはありません。殿下……私はこの運命を嘆くつもりも、皇帝陛下を恨むつもりもございません」

リアムの力強い言葉と、一切の揺らぎがない眼差しに、シルヴィアの頬が微かに赤らんだ。高慢で、政治の道具として己の婚姻を受け入れていたはずの皇女の胸に、小さな波紋が広がる。

「……ふん、口だけは達者なようですね」

シルヴィアはそっぽを向いたが、その声から先ほどまでの冷たさは消えていた。

「いいでしょう。わたくしの夫となる男が、ただの猪武者ではないと分かっただけでも収穫でしたわ。……祝宴の日を楽しみにしています、リアム卿」

そう言い残すと、皇女はスカートの裾を翻して去っていった。

その背中を見送りながら、リアムは静かに吐息をついた。

父の大元帥就任と帝都移住、そして皇女との婚姻――。 華やかな大勝利の裏で蠢く政争と野心の渦の中、若者はゆっくりと歩みを進め空を見上げた。


登場人物一覧表

イリアード

アルストラーナ帝国軍の総大将であり、セレスティア親王。「軍神」と称される冷徹かつ無双の武勇を持つ指揮官。アラリック皇帝の腹違いの弟。愛娘ルシアを溺愛しており、彼女の危機には理性を失い「鬼神」と化して突撃する一面を持つ。のちに「大元帥」に就任。

ルシア(ルシア・フォン・セレスティア / 巫女ルナ)

セレスティア親王家の令嬢であり、イリアードの愛娘。『真理の光教団』の巫女「ルナ」としての顔を持ち、『聖ゲンドラス教国』の聖騎士団長を極秘裏に務める。空間や物質を操作・修復・回復させる強力な「異能」と稀代の軍略を操り、裏から大陸の歴史を動かす。

ベグ・バール

騎馬民族グラッデェ帝国の皇帝。前大王エスゲイ・バールの息子。父の復讐のため50万の大軍を率いてアルストラーナへ侵攻するが、ルシアに敗れて捕縛される。

エスゲイ・バール

グラッデェ帝国の偉大なる大王。ベグ・バールの父。前年5月に『六棘の霜華』によって暗殺された。

ジル・オテ(旧名:ジルグード)

元オテゲン皇国第4王子。11年前に燕国を占拠するもルシアに打ち砕かれ捕縛された。その後改心(ルシアにより半ば強制的に改心)させられ、聖ゲンドラス教国の司教を務める。過去には放浪の吟遊詩人・剣士としてブランガ・オデュヌと共に名を馳せた。

ヴィオ

ルシアの側選であり忠実な侍女。黒髪のショートカットに紫の瞳を持つ少女。背中に長柄の錫杖を背負い、細剣を用いた鋭く美しい剣舞もこなす。

ビー・スー

ディヌイヤ王国のボロ国王から特別な協力者として譲り受けられた青年。丸盾を背負い、冷静沈着な判断力でルシアの護衛や参謀的役割を果たす。

ヴォルフラム

『真理の光教団』アンチアルマ大聖堂の枢機卿。重厚な法衣を纏い、教団の志願兵を率いてルシアたちと合流・共闘する冷徹な知識人。

ココロギ(ココロギ・サイリュン / 崔心木)

『真理の光教団』の教祖であり、聖ゲンドラス教国教皇ゲンドラス・サイリュン(崔厳)の実子。リヴィエール一族の血を引く。空間跳躍(瞬間移動)や護符生成の異能を持つが、極度のパニックや生理現象で暴走・誤作動させることが多い気弱で優しい少女。

アラリック

アルストラーナ帝国の皇帝。イリアードの腹違いの兄。弟イリアードを非常に好いており、彼を近く(帝都)に留め置くために「大元帥」の職を新設・授与した。

リアム・フォン・セレスティア

イリアードの息子でルシアの兄。16歳で初陣を飾り、混戦を切り裂いてグラッデェ皇帝ベグ・バールを捕縛(実際は気絶したベグを縛り上げた雑用)した武功により、最年少将軍に就任し聖剣アウレリウスを賜る。

セシリア

イリアードの側室であり、ルシアの母。花の都ルミナリアの出身。「植物や緑を一瞬で爆発的に生い茂らせる」異能を持ち、市内に「神託の聖母」として光と緑の奇蹟をもたらす。

シルヴィア・フォン・アルストラーナ

アルストラーナ帝国第6皇女。アラリック皇帝の娘。冷徹で政治的な洞察力を持つ美少女。政略結婚としてリアムに嫁ぐ。

カルヴァル

天信教の総主教。聖地エルサ・ルーメンの大教導司教座聖堂『マジェストゥウーズ』に鎮座し、歴史を裏から操ってきたが、ルシアたちの前に屈服し権力を剥奪される。

ベルトト

ルシアたちの手配や巡行の運営を完璧にこなす手腕を持つ人物。祝宴では小堤を叩いて宴を盛り上げた。

ボロ・ディヌイヤ

南海の大国ディヌイヤ王国の国王。ルシアの要請に応じ、山脈を越えてグラッデェ本国南部を急襲・協力する。

ゲンドラス・サイリュン(崔厳)

聖ゲンドラス教国の教皇であり、ココロギの実父。

リゼリア

イリアードの正妻(親王妃)。リアムの結婚を温かく祝福する。

バザル

ガザルカガンド会戦におけるグラッデェ軍の最高幹部。大斧を振るう巨漢の猛将だが、ルシアに一撃で討ち取られる。

ルネッタ

イリアードの側室でセシリアの妹。後宮の「徳妃」。

シンシア

ルシアの妹。後宮で徳妃ルネッタの侍女を務める。

用語集一覧表

アルストラーナ帝国

大陸西部に位置する歴史ある古国。かつて全土を支配した「偉大なるラーナ人の国」。文武に長けた帝国だが、歴史の陰で天信教に主権を奪われていた。

グラッデェ帝国

50万の圧倒的な騎馬軍勢を誇る東方の大帝国。騎馬民族中心の国家で、他国を服属・奴隷化していた。本拠地はガザルカガンド。

聖ゲンドラス教国

『日の出る国』と称される東の島国。四つ葉のクローバーを紋章とし、洗練された純白の軍服と長柄の錫杖を携えた「聖騎士団」を擁する。

真理の光教団

ルシアが巫女「ルナ」として担ぎ上げ、のちに天信教に代わって国教となる新たな宗教勢力。

天信教

聖地エルサ・ルーメンを拠点とし、千年にわたり「授冠の儀式」を通じて王権の上に君臨してきた歴史ある旧宗教。都合の悪い歴史(王権と異能の真の起源)を抹消・隠蔽していた。

アンチアルマ

アルストラーナ帝国の東方防衛拠点である古都。堅牢な石造りの城壁を持ち、周囲の「ヴェロニカ砦」「フェルゼンヴァルデン砦」と共にグラッデェ50万の大軍を迎え撃った。

枡形(ますがた)

城門の奥に作られた半円形の構造を持つトラップ空間。突入した敵を鉄格子で閉じ込め、頭上から沸騰した油や火、矢を浴びせて全滅させる。

ガザルカガンド

騎馬民族グラッデェの本拠地。ルシア率いる聖騎士団の裏をかく作戦により焼き払われ、陥落した。

ガザルカガンド会戦

敗走したグラッデェ軍30万に対し、ルシアが解放を宣言して味方に引き入れた従属国兵15万+聖騎士団7千(計15万7千)が激突した決戦。グラッデェ帝国が完全に滅亡する契機となった。

エルサ・ルーメン

天信教の聖地であり「聖天の約束地」。中央には5本の尖塔を持つ巨大な「大教導司教座聖堂マジェストゥウーズ」が聳え立つ。のちにルシアによって「エルサ・ルーメン共和評議会」が設立され、民の街へと改変された。

四つ葉のクローバー

聖ゲンドラス教国および聖騎士団の象徴たる紋章。希望と神聖の象徴。

リヴィエールの血 / 異能

ルシアやココロギ、セシリアらに受け継がれる特別な血統と秘められた超自然的な力(空間操作、物質修復、植物の生長促進、瞬間移動など)。天信教が隠蔽してきた「王権の真の起源」にも深く関わっている。

心木(さいしんぎ)

『真理の光教団』の教義において、世界や宇宙の中心に立ち全生命の魂と心をつなぎ止める世界樹・大樹。

コミュシュルツ川

赤狼山脈の南を東西に流れる大河。ルシアたち聖騎士団とヴォルフラム率いる志願兵が合流した作戦上の要衝。

ディヌイヤ王国

南海の大国。ボロ国王が治めており、アルストラーナやルシアと同盟・協力関係にある。

セバスチャン

ルシアが騎乗する、チーターのごとき驚異的な脚力を持つ愛馬。

聖剣アウレリウス

皇帝直属の伝説的な武具であり、真の英雄にしか与えられない権威の象徴。リアムに授与された。

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