『ガザルカガンド会戦』
帝国歴322年五月の後半。
大陸中央に広がる大草原には、狂おしいほどの初夏の風が吹き抜けていた。しかし、その風が運んでくるのは草の青生臭さではなく、鼻を突く焦げ臭さと、満ち満ちた死の気配だった。
かつて騎馬民族グラッデェの本拠地として栄華を誇った街、ガザルカガンド。その近郊の地平は、いまや黒煙を上げる廃墟と化していた。
そこへ、足を引きずるようにして辿り着いたのは、三十万の巨大な軍勢である。彼らはアルストラーナ
帝国領のアンチアルマ近郊にてアルストラーナ軍に完敗し、命からがら逃げ延びてきた敗残兵たちだった。
グラッデェ人十五万、そして彼らに従属させられていた諸国十五万からなる混成軍。故郷へ戻れば再起できる――そのかすかな希望は、目の前に広がるガザルカガンドの無惨な瓦礫の山によって、無慈悲に打ち砕かれた。
「まさか……我らのガザルカガンドが、燃えてしまったというのか……!」
グラッデェの戦士たちが絶望の声を上げる。
彼らの前に立ちはだかったのは、わずか七千騎。聖ゲンドラス教国が誇る聖騎士団であった。
圧倒的な数の差。しかし、聖騎士団の放つ威圧感は三十万の軍勢を気圧していた。彼らはアンチアルマの戦いで
グラッデェ帝国軍と交戦した際、全滅を装って東へと転進。敵の裏をかいて本拠地を叩くという壮大な戦略を完璧に遂行してみせたのだ。大陸中央のガザルカガンドを焼き払った稀代の軍略。それを率いるのが、軍の先頭に立つ美しい少女であった。
『真理の光教団』の巫女『ルナ』――その本名をルシア・フォン・セレスティアという。
白銀の鎧に身を包んだルシアは、愛馬を進め、三十万の敗残兵たちを見据えた。彼女の視線が向けられたのは、グラッデェの戦士たちではない。その背後で、怯え、疲れ果てている十五万の諸国民の兵士たちだった。
ルシアは声を張り上げた。その透き通った声は、不思議と戦場全体へ、そして兵士たちの耳の奥へと染み渡っていった。
「諸国の民よ、聞きなさい! あなたがたを縛り付けていたグラッデェの帝政は崩壊した! 首都ガザルカガンドは我らが焼き尽くし、新たな平和の夜明けを迎えたのです!」
ざわめきが、地鳴りのように兵士達の間に広がっていく。
「グラッデェによる支配の鎖は、今この瞬間を以て断ち切られた! あなたがたはもう、誰かのために命を散らす奴隷ではない! あなたがたは、自由なのです!」
「な、何だと……? 故郷が、解放されたというのか……?」
諸国の兵士たちの目に、またたく間に生気が戻っていく。にわかには信じがたい奇跡。しかし、目の前で燃え盛るグラッデェの本拠地が、何よりもその言葉の真実性を物語っていた。
「虚言に惑わされるな! 奴隷ども、武器を取れ! 敵を揉み潰せ!」
グラッデェの指揮官が激昂し、鞭を振るおうとした。
だが、それよりも早くルシアの叱咤が響く。
「誇りある諸国の戦士たちよ! 自由のために、我らと共に戦いなさい! 過去の支配をここで完全に葬り去るのです!」
「おおおおお!」
一人の兵士が叫び、グラッデェの戦士へ向けて刃を向けた。それを皮切りに、十五万の兵士たちが一斉に反旗を翻す。
「自由だ! 俺たちはもう自由なんだ!」
「グラッデェを倒せ!」
地響きのような怒号とともに、十五万の混成軍は、そのまま聖騎士団の側へと寝返った。瞬時にして戦況は逆転する。七千の聖騎士団と十五万のラーナ人、合わせて十五万七千の軍勢が、孤立した十五万のグラッデェ騎馬民族へと牙を剥いた。
「全軍、突撃! この地に、真の光を!」
ルシアが錫杖を掲げ、白銀の騎馬隊が風となって駆け出す。それに続くは、自由をその手に掴み取ろうとする諸国の大軍勢。
迎え撃つグラッデェの騎馬民族もまた、本拠地を焼かれた怒りと意地をかけ、死に物狂いで突撃してくる。
激突の瞬間、大草原は文字通り血と鉄の嵐に包まれた。かつてない規模の、そしてこれが最後となるであろう「ガザルカガンド会戦」の火蓋が、いま切って落とされた。
ガザルカガンドの焼け跡を背景に、両軍は真正面から激突した。
「裏切り者どもが! 飼い犬の分際で牙を剥くか!」
グラッデェの猛将が叫び、大長刀を振り回して寝返った兵士たちをなぎ倒していく。しかし、いまや自由の身となった兵士たちの士気は、かつて奴隷として戦わされていた頃の比ではなかった。
「黙れ! 俺たちはもうお前たちの犬じゃない!」
数人がかりで猛将を取り囲み、槍を突き立てて引きずり下ろす。数分前まで同じ陣営だった者たちが、いまや互いの肉を裂き合う凄惨な乱戦へと突入していた。
戦況は混沌を極めていたが、ルシア率いる七千の聖騎士団の動きは極めて冷徹、かつ迅速だった。
「焦る必要はありません。諸国の民が前線を支えている間に、我らは敵の『首』を狩ります」
白銀の鎧に身を包んだルシアは、戦場全体を俯瞰していた。グラッデェ軍は背後の本拠地を焼かれ、退路がない。
さらに半数の兵士に寝返られたことで、精神的な動揺は隠せなかった。だが、彼らは大陸最強と謳われた騎馬民族である。個々の戦闘力と、追い詰められた獣が見せる凶暴さは凄まじいものがあった。
「聖騎士団、楔形くさびがた陣形! 我に続け!」
ルシアが愛馬の手綱を強く引き、錫杖を天に掲げると、七千の鉄流が一塊の巨大な刃となってグラッデェ軍の中央へと突き進んだ。
聖騎士団の突撃力は凄まじく、グラッデェの堅牢な騎馬の壁を次々と押し破っていく。ルシアの狙いはただ一つ。この敗残軍を統率するグラッデェの総大将の首だった。
「小娘が……調子に乗るな!」
ルシアの前に、一際巨大な体躯を持つグラッデェの最高幹部が立ちはだかる。漆黒の毛並みを持つ巨馬に跨り、血に染まった巨大な斧を構えていた。
「我が名はバザル! グラッデェの誇りを汚した罪、その命で償え!」
猛烈な勢いで迫るバザル。その斧が一閃されれば、並の騎士なら馬ごと両断されるであろう質量と速度だった。
しかし、ルシアの瞳に恐れはなかった。彼女は『真理の光教団』の巫女。その身に宿すのは、戦場を支配する冷徹なまでの先見の明である。
「あなたの誇りは、すでにガザルカガンドの炎と共に灰となりました」
ルシアは真っ直ぐに突撃すると見せかけ、激突の直前で馬の歩度を急変させた。バザルの大斧が空を切る。その一瞬の隙を見逃さず、ルシアはすれ違いざまに錫杖を振るった。
鋭い金属音が響き、バザルの首筋から鮮血が噴き出す。巨漢が落馬し、地響きを立てて草原に転がった。
「バザル様が討たれたぞ!」
「そんな、まさか……!」
周囲のグラッデェ兵に一気に動揺が走る。そこへ、勢いづいた反乱兵の大軍が怒涛の如く押し寄せた。
「総崩れだ! 引け! 引け!」
指揮系統を失ったグラッデェ軍は、ついに統制を失い、散り散りになって逃げ惑い始めた。しかし、彼らが逃げるべき背後のガザルカガンドは、いまだ黒煙を上げる地獄の廃墟である。
五月の乾いた風が、戦場に静寂を連れてくる頃には、勝敗は完全に決していた。
大草原に転がるのは、数え切れないほどのグラッデェ兵の骸。かつて大陸中央を恐怖で支配した騎馬民族グラッデェは、この日、完全にその歴史に幕を下ろしたのである。
戦いが終わり、血の臭いが立ち込める戦場に、沈みゆく夕日が赤い光を投げかけていた。
ルシアは錫杖の血を拭い、腰に収めると、息を荒くする諸国の兵士たちを見渡した。彼らは一様に疲れ果てていたが、その表情には、長年の支配から解放された確かな喜びと、自らの手で自由を勝ち取ったという誇りが満ちていた。
「勝った……俺たちは、勝ったんだ……!」
一人が呟いた言葉が、やがて地鳴りのような大歓声へと変わっていく。
「ルナ様万歳! 聖騎士団万歳!」
「我らにに自由を!」
歓呼の声に包まれる中、ルシアは静かに微笑み、しかしその視線はすでに遠く西の空、生きる希望を見つけた兵士達を激励していた。
ガザルカガンド会戦――それは、多くの人達にとって一つの支配の終わりであった。




