『黒百合の刺繍』
「皇帝陛下! 全軍撤退の合図を! 左翼、左翼の十万勢が完全に瓦解いたしました!」
グラッデェ帝国軍本陣の大天幕。狼狽した将校たちの悲鳴が交錯する中、皇帝ベグ・バールは血走った眼で卓上の地図を睨みつけていた。
あり得ぬことだった。我が軍は五十万。対する敵は、籠城戦に固執するはずの二十万に過ぎない。しかも東砦を陥落させ、敵陣営の一翼たる聖ゲンドラス教国軍三千五百を全滅させた直後なのだ。勝敗は決していたはずだった。
だが、地平線の彼方から押し寄せてきたのは、陣形も戦略もすべてをかなぐり捨てた「二十万の狂鬼」の群れであった。
その最先鋒を突っ走るのは、全身を敵味方の返り血で朱に染めたアルストラーナ帝国軍の総大将イリアード。愛娘を失ったという絶望と、燃え盛る殺意に突き動かされた「軍神」の一撃は、グラッデェ重装騎兵を馬ごと一刀両断にし、本陣を死守せんとする重装歩兵の肉の壁を、文字通り紙の如く切り裂いて進んでくる。
「くそっ、何故だ……何故あれほどの男が、これほど無茶で愚かしい突撃を仕掛けてくるのだ!?」
ベグ・バールが怒りのままに咆哮したその瞬間、本陣の天幕が巨大な刃によって十文字に引き裂かれた。突風と共に、血の臭気が大天幕の中へと流れ込む。
「ベグ・バール……ッ!」
血塗れの鎧を纏い、凄惨なまでの闘気を放つイリアードがそこに立っていた。左右を固めていた皇帝親衛隊はすでに全滅。彼が握る大刀の先から滴る赤黒い血が、乾いた大地に点々と小さな血だまりを作っていく。
「狂人め! 我が父エスゲイの仇を討つ前に、貴様から切り刻んでくれる!」
ベグ・バールは三日月刀を抜き放ち、狂気のごとき速度でイリアードへと踊りかかった。グラッデェ皇帝が誇る無双の武勇が、絶望に身を投じた鬼神の刃と激突する。
ズシャァリン――!
鼓膜を突き刺すような、複雑かつ甲高い金属音が戦場に響き渡った。同時に、ベグ・バールの愛刀たる三日月刀が虚空を舞い、遥か彼方へと弾け飛んで行った。
「……ルシア!?」
イリアードとベグ・バール。二人の刃の間に、鈍い光を放つ錫杖を振り抜いた一人の少女――ルシアが立ちはだかっていた。
「お父様! ルシア!!」
「リアム、遅いわよ!」
ルシアは、引き裂かれた天幕の隙間から滑り込んできたリアムを、振り返りもせず一喝した。そして、一瞬の隙も与えずベグ・バールへと錫杖を突き出す。
ベグ・バールが驚愕のあまり体を仰け反らせた瞬間、その鼻先で静止した錫杖が猛烈な勢いで回転を始めた。先端に嵌められた四つの金環が、遠心力によって激しく鳴り響きながら広がる。
「四つ葉の……クローバー……?」
ベグ・バールが、まるで金縛りに遭ったかのようにその光景へ見惚れた、その一瞬。
ルシアは容赦なく踏み込み、鋭い踏み込みと共に左手の掌底をその胸へと叩き込んだ。
「なっ――!?」
衝撃波が走り、ベグ・バールは胸を強打されて大きく吹き飛び、地面へと無様に転がった。大陸の半分を支配するはずの覇者が、今は力なく、声も出せずに身悶えている。
「リアム、こいつを縛り上げて!」
ルシアは、セレスティアの紋章である『黒百合』の刺繍が施された頑丈な帯をリアムに手渡した。
◇
「グラッデェ皇帝ベグ・バール、捕縛したぞオオオッ!」
「セレスティアの若様が皇帝ベグ・バールを捕縛したぞ!!」
リアムの声に応じるように、オーレリア兵たちの地鳴りのような喚声が地平線を揺らした。総大将を失った五十万の巨獣は、頭部を破壊されたかのように完全に崩壊した。パニックに陥ったグラッデェの兵たちは、我先にと東の故郷へ向けて敗走を開始した。
「お父様。私のために、あんなに無茶をしてくださったのですね? ルシア、とっても嬉しいです」
先ほどまでの凛々しい姿から一転し、ルシアは父イリアードの胸に飛び込んで抱擁した。
「私は……私は、お前が死んだと思って……どれほど、どれほど絶望したか……!」
涙を浮かべ、言葉を詰まらせる父親に、ルシアは悪戯っぽく微笑むと、その泥と血に汚れた頬にそっと口づけをした。
「誰か来るから、もう行くね! 大好きなお父様。愛しているよ!」
親泣かせの愛娘は、茶目っ気たっぷりにウインクをしてみせると、次の瞬間には、まるで陽炎のようにその場から姿を消してしまった。
その瞬間、オーレリアの『軍神』を包んでいた猛烈な怒りと殺意は、霧散するように一瞬で蒸発してしまった。
「う……うむ。まあ、お前が無事なら……それで良いのだ、うん……」
急に相好を崩し、鼻の下を伸ばしかけたイリアードの後ろから、「親王閣下!!」と叫びながら副官や将校たちが血相を変えて集まってきた。
その時、彼らはまだ気づいていなかった。
満身創痍だったはずのイリアードの身体から、無数の傷も、流れ出ていた血も、いつの間にかすべて消え去っていたことに。
ルシアが去り際に放った異能の癒やしが、戦場の鬼神を瞬時にして元の父親へと戻していたのであった。




