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『アルストラーナ伝奇』  作者: リアトト
『聖地エルサ・ルーメン』帝国歴322年
57/140

『鬼神狂乱』

五十万の大軍を擁しながら、グラッデェ帝国の皇帝ベグ・バールは、アンチアルマの城壁を前にして苛立ちを募らせていた。

「……補給部隊がまた全滅だと? どこのどいつの仕業だ!」

天幕に響き渡る皇帝の怒号に、前線の将たちは一様に平伏した。

原因は、突如として戦場に現れた聖ゲンドラス教国軍、そして彼らが「東の砦」を拠点に展開した神速の遊撃戦にあった。本来そこは天然の岩山を崩しただけの空地だったはずが、彼らは一夜にして強固な砦を文字通り『建設』してしまったのだ。

一万騎の聖教国軍は、枢機卿ヴォルフラムが秘裏に募った教団の志願兵五百と合流。そのうち三千五百が東砦の守備に就き、残る七千の精鋭が、グラッデェの本拠地ガザルカガンドから送られる糧食や軍需物資の輸送隊を、網の目の如き機動力で次々に血祭りにあげていた。

胃袋を掴まれた五十万の軍勢は、動くこともできぬ巨大な大蛇と化しつつあった。

「おのれ、聖ゲンドラスの白鼠どもめ……!」

ベグ・バールは卓上の地図を叩き割らんばかりに睨みつけた。

「状況を打破するには、あの忌々しい東砦を根こそぎ叩き潰すほかない。全軍に告ぐ! 標的をアンチアルマから東砦へ変更せよ。蟻の這い出る隙間も残さず、踏み潰せ!」

アルストラーナの巨獣が、その重い鎌首を西へと向けた。


◇

東砦の防壁に立つルシアの瞳に、地平線を埋め尽くす黒い津波が反射していた。

「来たわね、ベグ・バール。頭に血の上った覇王の息子らしい、大雑把な進軍だこと」

ルシアは不敵に微笑み、背後の将兵たちを振り返った。その隣には、静かに錫杖を構えるヴィオ、丸盾を握るビー・スー、そしてローブを羽織ったココロギが控えている。

「ルシア様、敵の先鋒が間もなくこの砦の射程に入ります」

ビー・スーの報告に、ルシアは短く頷いた。

「全軍、死力を尽くして防戦しなさい。ただし――『予定の時刻』が来たら、未練なくここを捨てるわよ」

「御意」


◇

ビー・スーの低く引き締まった声が応じた。彼の瞳には、ルシアの壮大な計略を完遂せしめんとする冷徹な意思が宿っていた。

突撃の咆哮とともに、グラッデェの猛攻が開始された。数の暴力が東砦の石壁へと叩きつけられる。三千五百の聖騎士たちは、降り注ぐ矢の雨を盾で凌ぎ、狭い胸壁から執拗にクロスボウを放って敵を削り続けた。

しかし、相手は五十万。波状攻撃は途切れることなく、砦の防壁は徐々に悲鳴を上げ始める。

その激戦の火の手を、アンチアルマの東門から望遠鏡で捉えていた男がいた。

アルストラーナ帝国軍の総大将、 セレスティア親王イリアードである。

「……ルシアが、東砦が囲まれている!!」

冷静沈着を以て知られる『軍神』の顔が、恐怖と焦燥に歪んだ。東砦を死守せんとする聖教国軍の防戦は凄まじいものだったが、衆寡敵せず、砦の各所から黒煙が上がり始めている。

「全軍に通達! 南のヴェロニカ砦五万、東のフェルゼンヴァルデン砦五万、そして本隊十万――総勢二十万、今すぐ出撃せよ!」

「か、閣下!? 敵の誘い込み作戦はどうされるのですか!」

副官が悲鳴のような声を上げるが、イリアードは聞く耳を持たなかった。

「うるさい! 娘を見殺しにできるか! 敵の背後を突き、グラッデェを挟み撃ちにする! 遅れる者は軍法会議にかけるぞ!」

「娘様ですか?どちらに!?」

怒りで目を曇らせた軍神は、なりふり構わず剣を抜き、自ら先頭に立って城門を飛び出した。


◇

東砦の攻防は苛烈を極めていた。

門が破られ、アルストラーナの兵が雪崩れ込んでくる。守備隊三千五百は善戦した。誰もが命を捨てて戦っているように見えた。

だが、火の手が本丸に達したその瞬間、ルシアはヴィオとビー・スーに目配せをした。

「潮時よ。みんな、 退却の準備はいい?」

「いつでも」と、ビー・スーが丸盾を背負い直す。


次の瞬間、激しい爆発と共に東砦は炎に包まれ、崩落した。グラッデェの兵たちは勝利の鬨の声を上げた。聖ゲンドラス教国軍は全滅し、あの忌々しい少女も炎の中に消えた――誰もがそう確信した。

だが、それは「虚」であった。

崩れ落ちる炎のカーテンの裏側、地下へと続く隠し通路の暗闇を、ルシアたちは音もなく駆け抜けていた。

「見事な逃げっぷりでしたね。ルシア様」

ビー・スーの言葉に、ルシアは走りながら不敵に笑った。

「当然でしょう? 誰が本当にあんな場所で玉砕するもんですか。ベグ・バールも、そして……お父様も、綺麗に引っかかってくれたわね」

ルシアの真の目的は、この平原での籠城戦などではなかった。

敵の全神経がアンチアルマと東砦に集中し、全軍が前線に傾避した今、グラッデェの背後は完全に「空っぽ」なのだ。

「目指すはグラッデェの本拠地ガザルカガンド。敵の本陣を根こそぎ奪い去ってあげるわ」

炎上する東砦を背に、ルシア率いる本隊は、夜陰に乗じて遥か東へと疾走を開始した。


◇

「ルシアーーーーッ!!」

引き裂かれた喉から放たれたのは、人間のそれとは思えぬ獣の咆哮だった。

イリアードの視界は、娘を呑み込んだ東砦の火炎と同じ、悍ましい紅一色に染まっていた。脳髄を灼くのは、底なしの絶望と、それを瞬時に燃料へと変えた純度百パーセントの殺意。帝国の『軍神』と呼ばれた男の姿は、今や一兵卒をも戦慄させる『鬼神』の狂気へと反転していた。

「引くな! 押し包め! 敵の総大将は正気を失っているぞ!」

グラッデェの将軍がすかさず激を飛ばし、鉄盾を並べた重装歩兵の壁でイリアードを阻もうとする。

だが、その守りはあまりにも無力だった。

「邪魔だァァァッ!!」

愛馬の腹を血が滲むほどに蹴り、突撃したイリアードは、大刀を一閃させた。凄まじい踏み込みから放たれた一撃は、最前列の鉄盾を紙細工のように叩き割り、その背後にいた兵の甲冑ごと肉体を斜めに両断する。

噴き上がる鮮血の霧をまともに浴びながら、イリアードの突撃は微塵も減速しない。

「化物め、突き殺せ!」

左右から突き出された十数本の長槍。これまでのイリアードであれば、冷静に見切り、最小限の動きで受け流していただろう。しかし、今の彼は違う。

「おおおおおッ!」

迫る槍衾やりぶすまに対し、彼は避けるどころか自ら肉薄し、左腕でその数本を強引に抱え込んだ。肉が裂け、血が滴るのも構わず、力任せに槍兵たちを引き寄せる。体勢を崩した敵の首筋へ、電閃の如き逆袈裟の斬撃が容赦なく叩き込まれた。

一瞬にして三つの首級が宙を舞う。

返り血で白髪を赤黒く染め上げ、血涙を流すかのように目を見開いたイリアードの姿は、まさに地獄の阿修羅そのものであった。

「ひ、悲鳴を上げるな! 囲め! 囲んで数を頼みに圧殺しろ!」

騎馬民族グラッデェの精鋭たちが、三日月刀を掲げて左右から馬を寄せ、イリアードを完全に包囲する。

しかし、その包囲網が完成するより早く、イリアードの狂気に呼応したアルストラーナ軍二十万の精鋭が地平線を埋め尽くしていた。

「閣下に続け! 狂い死ね! 敵を一人残らず肉片に変えるのだ!」

総大将の常軌を逸した戦い振りに、アルストラーナの兵たちの恐怖心は完全に麻痺していた。彼らは防衛戦の緻密な陣形を投げ打ち、ただイリアードが開けた血の風穴へと狂ったように雪崩れ込む。

東砦の勝利に湧き、完全に油断していたグラッデェ軍の側面は、この二十万の「狂戦士」たちの突撃を受け、文字通り豆腐のように崩れていった。

「な、何なんだ、こいつらは……! 正気じゃない!」

グラッデェの騎兵が恐怖に顔を歪め、手綱を引こうとした瞬間、その視界に馬ごと跳躍するイリアードの姿が映った。

「失せろ」

低く地を這うような呪詛と共に振り下ろされた大刀が、騎兵を馬もろとも脳天から真っ二つに叩き斬る。

飛び散る肉片と内臓の雨の中、イリアードの瞳はなおも、遥か後方に佇む皇帝ベグ・バールの本陣だけを凝視していた。

「ベグ・バール……お前の首で、ルシアの墓標を飾ってやる……!」

一歩進むごとに、グラッデェ兵の骸むくろが築かれていく。数を頼みにしか戦えぬ五十万の巨獣は、たった一人の父親の絶望が呼び覚ました暴風に、ただ蹂躙されるがまま引き裂かれていくのだった。

登場人物一覧表

イリアード

アルストラーナ帝国軍の総大将であり、セレスティア親王。「軍神」と称される冷徹かつ無双の武勇を持つ指揮官。アラリック皇帝の腹違いの弟。愛娘ルシアを溺愛しており、彼女の危機には理性を失い「鬼神」と化して突撃する一面を持つ。のちに「大元帥」に就任。

ルシア(ルシア・フォン・セレスティア / 巫女ルナ)

セレスティア親王家の令嬢であり、イリアードの愛娘。『真理の光教団』の巫女「ルナ」としての顔を持ち、『聖ゲンドラス教国』の聖騎士団長を極秘裏に務める。空間や物質を操作・修復・回復させる強力な「異能」と稀代の軍略を操り、裏から大陸の歴史を動かす。

ベグ・バール

騎馬民族グラッデェ帝国の皇帝。前大王エスゲイ・バールの息子。父の復讐のため50万の大軍を率いてアルストラーナへ侵攻するが、ルシアに敗れて捕縛される。

エスゲイ・バール

グラッデェ帝国の偉大なる大王。ベグ・バールの父。前年5月に『六棘の霜華』によって暗殺された。

ジル・オテ(旧名:ジルグード)

元オテゲン皇国第4王子。11年前に燕国を占拠するもルシアに打ち砕かれ捕縛された。その後改心(ルシアにより半ば強制的に改心)させられ、聖ゲンドラス教国の司教を務める。過去には放浪の吟遊詩人・剣士としてブランガ・オデュヌと共に名を馳せた。

ヴィオ

ルシアの側選であり忠実な侍女。黒髪のショートカットに紫の瞳を持つ少女。背中に長柄の錫杖を背負い、細剣を用いた鋭く美しい剣舞もこなす。

ビー・スー

ディヌイヤ王国のボロ国王から特別な協力者として譲り受けられた青年。丸盾を背負い、冷静沈着な判断力でルシアの護衛や参謀的役割を果たす。

ヴォルフラム

『真理の光教団』アンチアルマ大聖堂の枢機卿。重厚な法衣を纏い、教団の志願兵を率いてルシアたちと合流・共闘する冷徹な知識人。

ココロギ(ココロギ・サイリュン / 崔心木)

『真理の光教団』の教祖であり、聖ゲンドラス教国教皇ゲンドラス・サイリュン(崔厳)の実子。リヴィエール一族の血を引く。空間跳躍(瞬間移動)や護符生成の異能を持つが、極度のパニックや生理現象で暴走・誤作動させることが多い気弱で優しい少女。

アラリック

アルストラーナ帝国の皇帝。イリアードの腹違いの兄。弟イリアードを非常に好いており、彼を近く(帝都)に留め置くために「大元帥」の職を新設・授与した。

リアム・フォン・セレスティア

イリアードの息子でルシアの兄。16歳で初陣を飾り、混戦を切り裂いてグラッデェ皇帝ベグ・バールを捕縛(実際は気絶したベグを縛り上げた雑用)した武功により、最年少将軍に就任し聖剣アウレリウスを賜る。

セシリア

イリアードの側室であり、ルシアの母。花の都ルミナリアの出身。「植物や緑を一瞬で爆発的に生い茂らせる」異能を持ち、市内に「神託の聖母」として光と緑の奇蹟をもたらす。

シルヴィア・フォン・アルストラーナ

アルストラーナ帝国第6皇女。アラリック皇帝の娘。冷徹で政治的な洞察力を持つ美少女。政略結婚としてリアムに嫁ぐ。

カルヴァル

天信教の総主教。聖地エルサ・ルーメンの大教導司教座聖堂『マジェストゥウーズ』に鎮座し、歴史を裏から操ってきたが、ルシアたちの前に屈服し権力を剥奪される。

ベルトト

ルシアたちの手配や巡行の運営を完璧にこなす手腕を持つ人物。祝宴では小堤を叩いて宴を盛り上げた。

ボロ・ディヌイヤ

南海の大国ディヌイヤ王国の国王。ルシアの要請に応じ、山脈を越えてグラッデェ本国南部を急襲・協力する。

ゲンドラス・サイリュン(崔厳)

聖ゲンドラス教国の教皇であり、ココロギの実父。

リゼリア

イリアードの正妻(親王妃)。リアムの結婚を温かく祝福する。

バザル

ガザルカガンド会戦におけるグラッデェ軍の最高幹部。大斧を振るう巨漢の猛将だが、ルシアに一撃で討ち取られる。

ルネッタ

イリアードの側室でセシリアの妹。後宮の「徳妃」。

シンシア

ルシアの妹。後宮で徳妃ルネッタの侍女を務める。

用語集一覧表

アルストラーナ帝国

大陸西部に位置する歴史ある古国。かつて全土を支配した「偉大なるラーナ人の国」。文武に長けた帝国だが、歴史の陰で天信教に主権を奪われていた。

グラッデェ帝国

50万の圧倒的な騎馬軍勢を誇る東方の大帝国。騎馬民族中心の国家で、他国を服属・奴隷化していた。本拠地はガザルカガンド。

聖ゲンドラス教国

『日の出る国』と称される東の島国。四つ葉のクローバーを紋章とし、洗練された純白の軍服と長柄の錫杖を携えた「聖騎士団」を擁する。

真理の光教団

ルシアが巫女「ルナ」として担ぎ上げ、のちに天信教に代わって国教となる新たな宗教勢力。

天信教

聖地エルサ・ルーメンを拠点とし、千年にわたり「授冠の儀式」を通じて王権の上に君臨してきた歴史ある旧宗教。都合の悪い歴史(王権と異能の真の起源)を抹消・隠蔽していた。

アンチアルマ

アルストラーナ帝国の東方防衛拠点である古都。堅牢な石造りの城壁を持ち、周囲の「ヴェロニカ砦」「フェルゼンヴァルデン砦」と共にグラッデェ50万の大軍を迎え撃った。

枡形(ますがた)

城門の奥に作られた半円形の構造を持つトラップ空間。突入した敵を鉄格子で閉じ込め、頭上から沸騰した油や火、矢を浴びせて全滅させる。

ガザルカガンド

騎馬民族グラッデェの本拠地。ルシア率いる聖騎士団の裏をかく作戦により焼き払われ、陥落した。

ガザルカガンド会戦

敗走したグラッデェ軍30万に対し、ルシアが解放を宣言して味方に引き入れた従属国兵15万+聖騎士団7千(計15万7千)が激突した決戦。グラッデェ帝国が完全に滅亡する契機となった。

エルサ・ルーメン

天信教の聖地であり「聖天の約束地」。中央には5本の尖塔を持つ巨大な「大教導司教座聖堂マジェストゥウーズ」が聳え立つ。のちにルシアによって「エルサ・ルーメン共和評議会」が設立され、民の街へと改変された。

四つ葉のクローバー

聖ゲンドラス教国および聖騎士団の象徴たる紋章。希望と神聖の象徴。

リヴィエールの血 / 異能

ルシアやココロギ、セシリアらに受け継がれる特別な血統と秘められた超自然的な力(空間操作、物質修復、植物の生長促進、瞬間移動など)。天信教が隠蔽してきた「王権の真の起源」にも深く関わっている。

心木(さいしんぎ)

『真理の光教団』の教義において、世界や宇宙の中心に立ち全生命の魂と心をつなぎ止める世界樹・大樹。

コミュシュルツ川

赤狼山脈の南を東西に流れる大河。ルシアたち聖騎士団とヴォルフラム率いる志願兵が合流した作戦上の要衝。

ディヌイヤ王国

南海の大国。ボロ国王が治めており、アルストラーナやルシアと同盟・協力関係にある。

セバスチャン

ルシアが騎乗する、チーターのごとき驚異的な脚力を持つ愛馬。

聖剣アウレリウス

皇帝直属の伝説的な武具であり、真の英雄にしか与えられない権威の象徴。リアムに授与された。

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