『リヴィエールの血』
アンチアルマの戦場は、七十万もの蠢く人影で溢れかえり、混沌の坩堝と化していた。地上に落ちた飴玉へ群がる蟻の大軍――もしこの惨状を上空から見下ろす者がいたならば、まさにそう例えたことだろう。
「ココロギっ!」
ルシアは馬に鞭をあて、激動の戦場を疾走した。騎馬民族として名高いグラッデェの兵たちすら追いつくこと叶わず、走りながら射かける矢も、その凄まじい速度の前には空を切るばかりであった。あたかもチーターのごとき脚力で駆け抜けるその馬の名が『セバスチャン』という、どこか抜け落ちたような名であることを、敵であるアルストラーナ帝国の将兵が知る由もない。
ルシアは馬上から長柄の錫杖を凛と構え、迷いなく敵の群れへと突き進む。すぐさま左右を固めるようにヴィオとビー・スーが追いついた。遥か東から侵攻してきたグラッデェの兵たちは、初めて目にする『四つ葉のクローバー』の紋章に戦慄した。歯が立たない。圧倒的すぎる強さだった。仲間たちが次々と討ち倒されていく。
その刹那。背後から激しい車輪の響きと、悲鳴のような少女の絶叫が聞こえてきた。
「きゃー! やめてー! あっち行って! ルシアさまぁー!」 「ココロギ!」
ルシアたちはすんでのところで道を空けて馬車を通過させると、視線を取り交わし、そのまま馬車へと並走・追従した。かくして、ココロギの救出は見事に果たされたのである。
◇
陣形すら整えられぬまま暴走馬車に乱入されたグラッデェ軍は、思わぬ乱戦に巻き込まれ、指揮系統は完全に瓦解していた。対するアルストラーナ軍は、アンチアルマ、ヴェロニカ砦、フェルゼンヴァルデン砦の各所から秩序立って出撃しているため、敵軍に比べれば遥かに統率が取れていた。
とはいえ、それは名ばかりの乱戦に過ぎない。そこには知的な戦術など微塵もなく、あたかも日頃の鬱憤をぶつけ合う愚連隊の競り合いか、「お前、いい物持ってるじゃないか」と言わんばかりのカツアゲめいた荒々しい光景すらあちこちで散見された。
やがて、西の砦から陣形を完璧に整えた聖ゲンドラス教国の歩兵三千が整然と押し出し、乱戦の波を押し返し始めた頃、辺りは黄昏に包まれた。これを引き揚げの合図とする暗黙の了解のもと、戦いはお開きとなり、静寂を取り戻していった。
◇
東の砦では、無事に帰還を果たしたルシアが、保護された少女を甲斐甲斐しく介抱していた。
少女の名は『ココロギ・サイリュン』。『真理の光教団』の教祖であり、聖ゲンドラス教国教皇ゲンドラス・サイリュンの実子である。ゲンドラスの本名は燕国の名で崔厳さいごんといったため、同国風に名付けるならば、この娘は『崔心木』となる。
『真理の光教団』の教義において『心木』とは、世界――あるいは宇宙――の中心にそびえ立ち、すべての生命の魂をつなぎ止める世界樹を指す。生きとし生けるものの命の源であり、同時に「心(感情や意志)そのものを巡らせる大樹だ。天と地、現世と冥界を結ぶ軸であり、季節の巡りや人の心の調和はこの心木の脈動によって保たれていると信じられている。ゆえに心木が枯れ、傷つくことがあれば、世界中の人々の心は荒廃し、混沌が訪れると伝承されていた。
これほど大層な名を戴く娘ではあったが、実のところは花の都ルミナリアにて、ゲンドラスが信者の女性に産ませてしまった子であった。ルミナリアはルシアの母セシリアの故郷であり、ルミナリア・リヴィエール家の本拠地でもある。そのためココロギの母親もまた、リヴィエール家の遠戚にあたる人物であった。
単なる隠し子であれば、ルシアからゲンドラスへの厳しい折檻だけで済んだ話であったろう。しかし、ココロギにもまたリヴィエール一族特有の異能が発現してしまったため、放置するわけにもいかなかった。ルシアは母セシリアの実家であるリヴィエール家で彼女たち母子を保護し、聖ゲンドラス教国が建国されて以降は、聖都クリスタルヘイムへと移り住まわせていたのである。
ココロギがどこか母セシリアや元侍女のエミーナ、そしてルシアと雰囲気を同じくしているのは、彼女たちの体に等しく流れる『リヴィエールの血』という共通点ゆえの賜物であった。ルシアはココロギを抱きしめていた。そして思った。ヴィオ。ビー・スー。そして、ココロギ。大切な人、守るべき人が徐々に増えて来ていたのであった。




