『グラッデェの侵攻』
帝国歴322年春。
騎馬民族グラッデェ帝国の軍勢50万が、18年ぶりにアルストラーナ帝国へ侵攻を開始した。 事の発端は前年5月。彼らの偉大なる大王エスゲイ・バールが『六棘の霜華』によって暗殺されたことにある。「アルストラーナに来い。アンチアルマで相手をしてやる」という挑発を受け、皇帝ベグ・バールが黙っているはずもなかった。
「望むのなら蹂躙してやろう」
大陸の覇者は今なおグラッデェにある。恐れるものなど何もない。抑えきれぬ復讐心を満載し、ベグ・バールは満を持してこの春、大軍を送り込んできたのであった。
アンチアルマの堅牢な石造りの城壁の上。 アルストラーナ帝国軍の総大将、セレスティア親王イリアードは東の地平線を見つめていた。その眼光は恐ろしいほどに研ぎ澄まされている。 視線の先、地平線の彼方から現れたのは、まるで大地そのものが蠢いているかのような錯覚を抱かせる「黒い帯」だった。それは瞬く間に広がり、緑の草原を黒く塗りつぶしていく。 18年前と、まったく同じ光景であった。
「……来たか」
待ち侘びていた安堵の色彩を声に滲ませ、イリアードは呟いた。鞘に収まったままの剣を杖代わりに石畳へ突き立て、体を預けるように立っている。 50万――それこそが、父エスゲイの復讐のためにベグ・バールが動員したグラッデェ全軍の圧倒的兵力だった。数里先からでも足の裏に伝わる地響き。巻き上がる土煙は天を覆い、太陽の光さえ遮る薄黒い霧と化していた。
対するアンチアルマの防衛陣形は10万。南のヴェロニカ砦に5万、西のフェルゼンヴァルデン砦に5万の、総勢20万。東にあった天然の岩山を模した砦は、あえて破壊して放棄していた。敵の50万をアンチアルマ周囲の広大な平野部へ引き込み、包囲したほうが作戦を展開しやすい――それが陣営の出した結論だった。住民たちは、18年前にフェルゼンヴァルデンの西に建設された避難村へと再び避難を終えている。
「閣下、本当にこの十万で……あの化け物どもの津波を受け止めるおつもりですか?」
副官の悲痛な問いに、イリアードはふっと薄い笑みを浮かべた。その双眸に恐怖の色は微塵もない。 「アンチアルマの城壁で受け止め、敵を包囲する。貴公らが立案した作戦ではないか。自信を持ちたまえ。どれほどの軍勢であろうと、この堅牢な石壁と狭い街道を前にすれば機動力は削がれる。五十万が一度にこの城門へ押し寄せることなど不可能なのだ」
イリアードは腰の剣に手をかけ、城壁の下に展開する自軍の兵士たちを見下ろした。
「我らの役目は、敵を受け止めてその足足を止めさせることだ。覇王を失った奴らは頭に血が上っている。怒りは目を曇らせるもの。勝機は、まさにその曇りの中にこそある」
◇
「グラッデェの勇士たちよ、続け! 一番に城壁へたどり着いた者には、城内の財宝と女を好きなだけ与えるぞ!」
「ウオオオオオ!」
五万の突撃部隊が咆哮を上げ、地平線を揺らしながらアンチアルマへと突撃を開始した。大地を撃ち鳴らす鉄蹄の音が古都への死の秒読みを刻み、正面城門へと殺到する。騎兵たちは馬上で巧みに弓を操り、矢の雨を降らせた。「ヒュオオオ!」と風を切る無数の矢が城壁を覆い、防衛兵たちは盾の陰に身を潜める。
「押し通れ! 城門を叩き割れ!」
将軍が檄を飛ばし、グラッデェの工兵たちが巨大な破城槌を担いで城門へと肉薄する。 だが、城壁の上のイリアードは冷静にその時を待っていた。
「今だ。放て」
イリアードの合図とともに、城壁の各所に隠されていた大型投石機が一斉に唸りを上げた。放たれたのは単なる石ではない。可燃性の油を染み込ませ、火をつけられた巨大な「火の玉」である。
「ゴオオオ!」という爆音とともに、燃え盛る巨石が密集した騎兵群へと降り注いだ。
「ぎゃあああ!」
「馬が、馬が狂った!」
火を恐れた軍馬が狂乱し、周囲の味方を巻き込んで将棋倒しとなっていく。さらに、城壁の狭間からは熟練のクロスボウ兵たちが正確無比な射撃で次々と敵兵を撃ち抜いていく。アンチアルマ正面の街道は幅が狭く、五万の大軍はかえって裏目となり、密集した標的として血の海に沈んでいった。
「おのれ、小汚い真似を……! 力押しだ! 門を破れば我らの勝ちだ!」
将軍は顔を真っ赤にし、自ら手下を率いて城門へ突っ込んだ。 激しい攻防の末、破城槌がアンチアルマの重厚なオーク材の城門を叩き割る。メキメキと音を立てて崩れ去った城門の向こうに、暗い通路が姿を現した。
「勝ったぞ! 突入せよ!」
歓喜の声とともに、騎兵たちが崩れた城門へ雪崩れ込む。 しかし、その奥で待っていたのは勝利などではなかった。 そこは、周囲を高い石壁で囲まれた半円形の罠――いわゆる「枡形ますがた」であった。行く手は強固な鉄格子で阻まれており、突入した騎兵たちは狭い空間に完全に閉じ込められた。
「な、何だと……!?」
将軍が目を見開いた瞬間、頭上から容赦のない号令が響く。 「落とせ!」 城壁の上から、沸騰した黒い油と燃え盛る松明が大量に投げ込まれた。
「あ、熱い! 助けてくれ!」
「火だ! 火の海だ!」
枡形の中は、一瞬にして生き地獄へと変貌した。閉じ込められた兵たちは炎に包まれてもがき苦しみ、後方から押し寄せる味方と衝突して大混乱に陥る。そこへ、頭上から容赦のない槍と矢の雨が降り注ぐ。
城壁の上からその惨状を見下ろし、イリアードは冷徹に言い放った。
「これが、数を頼みにしか戦えぬ者の末路だ。――次だ。敵の本陣に、我が軍の健在を示せ」
赤く染まる夕闇の中、アルストラーナ軍の絶望的な、しかし誇り高き籠城戦は、真の血戦へと突入していくのだった。
登場人物一覧表
イリアード
アルストラーナ帝国軍の総大将であり、セレスティア親王。「軍神」と称される冷徹かつ無双の武勇を持つ指揮官。アラリック皇帝の腹違いの弟。愛娘ルシアを溺愛しており、彼女の危機には理性を失い「鬼神」と化して突撃する一面を持つ。のちに「大元帥」に就任。
ルシア(ルシア・フォン・セレスティア / 巫女ルナ)
セレスティア親王家の令嬢であり、イリアードの愛娘。『真理の光教団』の巫女「ルナ」としての顔を持ち、『聖ゲンドラス教国』の聖騎士団長を極秘裏に務める。空間や物質を操作・修復・回復させる強力な「異能」と稀代の軍略を操り、裏から大陸の歴史を動かす。
ベグ・バール
騎馬民族グラッデェ帝国の皇帝。前大王エスゲイ・バールの息子。父の復讐のため50万の大軍を率いてアルストラーナへ侵攻するが、ルシアに敗れて捕縛される。
エスゲイ・バール
グラッデェ帝国の偉大なる大王。ベグ・バールの父。前年5月に『六棘の霜華』によって暗殺された。
ジル・オテ(旧名:ジルグード)
元オテゲン皇国第4王子。11年前に燕国を占拠するもルシアに打ち砕かれ捕縛された。その後改心(ルシアにより半ば強制的に改心)させられ、聖ゲンドラス教国の司教を務める。過去には放浪の吟遊詩人・剣士としてブランガ・オデュヌと共に名を馳せた。
ヴィオ
ルシアの側選であり忠実な侍女。黒髪のショートカットに紫の瞳を持つ少女。背中に長柄の錫杖を背負い、細剣を用いた鋭く美しい剣舞もこなす。
ビー・スー
ディヌイヤ王国のボロ国王から特別な協力者として譲り受けられた青年。丸盾を背負い、冷静沈着な判断力でルシアの護衛や参謀的役割を果たす。
ヴォルフラム
『真理の光教団』アンチアルマ大聖堂の枢機卿。重厚な法衣を纏い、教団の志願兵を率いてルシアたちと合流・共闘する冷徹な知識人。
ココロギ(ココロギ・サイリュン / 崔心木)
『真理の光教団』の教祖であり、聖ゲンドラス教国教皇ゲンドラス・サイリュン(崔厳)の実子。リヴィエール一族の血を引く。空間跳躍(瞬間移動)や護符生成の異能を持つが、極度のパニックや生理現象で暴走・誤作動させることが多い気弱で優しい少女。
アラリック
アルストラーナ帝国の皇帝。イリアードの腹違いの兄。弟イリアードを非常に好いており、彼を近く(帝都)に留め置くために「大元帥」の職を新設・授与した。
リアム・フォン・セレスティア
イリアードの息子でルシアの兄。16歳で初陣を飾り、混戦を切り裂いてグラッデェ皇帝ベグ・バールを捕縛(実際は気絶したベグを縛り上げた雑用)した武功により、最年少将軍に就任し聖剣アウレリウスを賜る。
セシリア
イリアードの側室であり、ルシアの母。花の都ルミナリアの出身。「植物や緑を一瞬で爆発的に生い茂らせる」異能を持ち、市内に「神託の聖母」として光と緑の奇蹟をもたらす。
シルヴィア・フォン・アルストラーナ
アルストラーナ帝国第6皇女。アラリック皇帝の娘。冷徹で政治的な洞察力を持つ美少女。政略結婚としてリアムに嫁ぐ。
カルヴァル
天信教の総主教。聖地エルサ・ルーメンの大教導司教座聖堂『マジェストゥウーズ』に鎮座し、歴史を裏から操ってきたが、ルシアたちの前に屈服し権力を剥奪される。
ベルトト
ルシアたちの手配や巡行の運営を完璧にこなす手腕を持つ人物。祝宴では小堤を叩いて宴を盛り上げた。
ボロ・ディヌイヤ
南海の大国ディヌイヤ王国の国王。ルシアの要請に応じ、山脈を越えてグラッデェ本国南部を急襲・協力する。
ゲンドラス・サイリュン(崔厳)
聖ゲンドラス教国の教皇であり、ココロギの実父。
リゼリア
イリアードの正妻(親王妃)。リアムの結婚を温かく祝福する。
バザル
ガザルカガンド会戦におけるグラッデェ軍の最高幹部。大斧を振るう巨漢の猛将だが、ルシアに一撃で討ち取られる。
ルネッタ
イリアードの側室でセシリアの妹。後宮の「徳妃」。
シンシア
ルシアの妹。後宮で徳妃ルネッタの侍女を務める。
用語集一覧表
アルストラーナ帝国
大陸西部に位置する歴史ある古国。かつて全土を支配した「偉大なるラーナ人の国」。文武に長けた帝国だが、歴史の陰で天信教に主権を奪われていた。
グラッデェ帝国
50万の圧倒的な騎馬軍勢を誇る東方の大帝国。騎馬民族中心の国家で、他国を服属・奴隷化していた。本拠地はガザルカガンド。
聖ゲンドラス教国
『日の出る国』と称される東の島国。四つ葉のクローバーを紋章とし、洗練された純白の軍服と長柄の錫杖を携えた「聖騎士団」を擁する。
真理の光教団
ルシアが巫女「ルナ」として担ぎ上げ、のちに天信教に代わって国教となる新たな宗教勢力。
天信教
聖地エルサ・ルーメンを拠点とし、千年にわたり「授冠の儀式」を通じて王権の上に君臨してきた歴史ある旧宗教。都合の悪い歴史(王権と異能の真の起源)を抹消・隠蔽していた。
アンチアルマ
アルストラーナ帝国の東方防衛拠点である古都。堅牢な石造りの城壁を持ち、周囲の「ヴェロニカ砦」「フェルゼンヴァルデン砦」と共にグラッデェ50万の大軍を迎え撃った。
枡形
城門の奥に作られた半円形の構造を持つトラップ空間。突入した敵を鉄格子で閉じ込め、頭上から沸騰した油や火、矢を浴びせて全滅させる。
ガザルカガンド
騎馬民族グラッデェの本拠地。ルシア率いる聖騎士団の裏をかく作戦により焼き払われ、陥落した。
ガザルカガンド会戦
敗走したグラッデェ軍30万に対し、ルシアが解放を宣言して味方に引き入れた従属国兵15万+聖騎士団7千(計15万7千)が激突した決戦。グラッデェ帝国が完全に滅亡する契機となった。
エルサ・ルーメン
天信教の聖地であり「聖天の約束地」。中央には5本の尖塔を持つ巨大な「大教導司教座聖堂マジェストゥウーズ」が聳え立つ。のちにルシアによって「エルサ・ルーメン共和評議会」が設立され、民の街へと改変された。
四つ葉のクローバー
聖ゲンドラス教国および聖騎士団の象徴たる紋章。希望と神聖の象徴。
リヴィエールの血 / 異能
ルシアやココロギ、セシリアらに受け継がれる特別な血統と秘められた超自然的な力(空間操作、物質修復、植物の生長促進、瞬間移動など)。天信教が隠蔽してきた「王権の真の起源」にも深く関わっている。
心木
『真理の光教団』の教義において、世界や宇宙の中心に立ち全生命の魂と心をつなぎ止める世界樹・大樹。
コミュシュルツ川
赤狼山脈の南を東西に流れる大河。ルシアたち聖騎士団とヴォルフラム率いる志願兵が合流した作戦上の要衝。
ディヌイヤ王国
南海の大国。ボロ国王が治めており、アルストラーナやルシアと同盟・協力関係にある。
セバスチャン
ルシアが騎乗する、チーターのごとき驚異的な脚力を持つ愛馬。
聖剣アウレリウス
皇帝直属の伝説的な武具であり、真の英雄にしか与えられない権威の象徴。リアムに授与された。




