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『アルストラーナ伝記』  作者: リアトト
『花の都ルミナリア』帝国歴306年
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『転生姫ルシアと赦されし奸臣』


7月、セレスティア親王領の中心都市アクアパレス。クリスタリア湖の畔、フロスト・ヴァイス城の中庭には、うららかな夏の光が降り注ぎ、色とりどりの花々が咲きこぼれていた。

しかし、その穏やかな静寂を打ち破るように、石造りの回廊を猛烈な勢いで疾走する足音が響き渡る。


「セ、セシリア様! た、た、た、大変です!!」


息を切らし、裾を乱しながら走ってきたのは侍女のエミーナだった。彼女の手には、一枚の上質な紙が握られている。

庭園を臨むテラスで穏やかに紅茶を味わっていたセシリアは、慌てふためくエミーナの様子に、小さく首をかしげた。


「どうしたのです? そんなに慌てて。エミーナ、落ち着きなさい」


「落ち着いてなどいられません! こ、この手紙を持った年配の男性が、門前で訪ねて来たのです!」


エミーナから差し出された手紙を受け取り、セシリアはそこに書かれた内容に目を通した。そして次の瞬間、その美しい瞳を驚愕に大きく見開くこととなった。


『境遇を失いし者、崔厳(さいげん)よ。さすらい、あてもない日々は、終わりにするがいい。 私は今、才を持つ者を求めている。我が城へ来い。過去の罪や生い立ちを問うつもりはない。セレスティアのアクアパレスにある我が居城フロスト・ヴァイスの門を叩け。門番にこの手紙を見せれば、中へ通すであろう。現れるか、それとも野垂れ死にするか、決めるのはお前自身である。ルシア・フォン・セレスティア』


そこに躍っていたのは、文字を習いたての幼子が一生懸命に書いたような、拙くも必死な筆跡だった。しかし、紡がれている内容は極めて理知的であり、かつてどこかで聞いたような不遜で堂々とした王者の風格さえ漂っている。

手紙の紙面には繊細な蓮の花の透かし加工が施されており、その余白には、小さく可愛らしい朱色の手形がぽんと押されていた。どう見ても乳幼児のものとわかる手のひらの跡。


(誰の手形か、確かめるまでもないわ……)


こんな常識外れの真似ができる人物など、このフロスト・ヴァイスにただ一人しかいない。 セシリアとイリアードの間に生まれた愛娘、生後わずか三ヶ月にして強大な異能の力を持つ赤子——ルシアである。


「本当にこの崔厳(さいげん)という男が来たの……? エミーナ」


「はい……門番が確認したところ、間違いなくその男だそうです」


セシリアは深く息を吐き出し、思考を巡らせた。

崔厳(さいげん)。 かつて帝国の北東に国境を接する錦族の国、燕国の宰相を務めていた男である。数年前、主君である国王を殺めて国を乗っ取り、『新国』なる国家を建国して自ら王として即位した。しかし、帝国の朝貢国を強奪したその暴挙を帝国側が許すはずもなく、皇帝アラリックの命を受けた親王イリアード、そしてリゼリアとセシリア率いるセレスティア水軍が出撃。電撃戦の末、新国の首都・鳳山は瞬く間に陥落した。

その際、捕らえられた崔厳は下着一枚の姿にされ、首輪を繋がれた四つん両脚の格好で、セシリアに引きずられるようにして帝都まで連行されたのだ。

その後、崔厳は数年間にわたり帝都の地下監獄に収監されていたはずだった。だが最近になり、皇帝アラリックの徳妃ルネッタが皇子を出産した慶事に伴い、恩赦が出されて釈放されたという噂は耳にしていた。まさか釈放されるやいなや、生後三ヶ月の我が娘 によって、このセレスティアまで呼び寄せられていたとは。

セシリアは胸中の動揺を押し隠し、澄んだ瞳でエミーナを見つめた。


「わかったわ。崔厳と会います。彼に応接の間へ来てもらうよう伝えて頂戴」


「は、はい! わかりました。……でも、本当に大丈夫なのですか? あの男は……いえ、かしこまりました。すぐに連れて参ります」


エミーナは困惑と緊張を隠せない様子だったが、セシリアの真摯な眼差しに頷き、急ぎ足で応接間へと向かっていった。


◇

フロスト・ヴァイス城の重厚な応接の間。セシリアが一人静かに待っていると、ほどなくして扉が開き、エミーナに案内された崔厳が姿を現した。

その身にまとっているのは、上質な綿で仕立てられた衣服だった。セレスティア親王領において、中堅以上の幹部役人に与えられる上質な生地であり、胸元と両肩にはセレスティアを象徴する黒百合の紋章が誇り高く刺繍されている。着古した囚人服や流浪の泥に塗れていたであろう男は、すっかり整えられた身なりとなっていた。この服も路銀も食事もすべてルシアが彼に送り付けたのであろう。

部屋に入ってくるや否や、セシリアは意地悪そうな笑みを浮かべて口火を切った。


「おい! ポチ。久しぶりだな」


“ポチ”——かつて首輪を付けられ、四つん角で引き回されていた際、セシリアがこの元王に対して下した侮蔑と戯れに満ちた渾名であった。

一瞬、室内の空気が緊張で凍りついた。しかし、崔厳は一切の不快感を見せることなく、静かにその場にひれ伏した。

両膝を床につき、額を絨毯に押し付けるように深く頭を下げ、重厚な声を響かせる。


「あっ! これはこれはセシリア様。お懐かしゅうございます。この愚生……幼き姫様に拾われ、再び生き恥を晒しに参りました。非礼の数々、何卒ご容赦くださいませ」


老練な政治家であり、一時期は一国の王にまで登りつめた男の落魄と、それにそぐわぬ圧倒的な平伏。その姿には、かつての野心や傲慢さは影を潜め、不思議な諦念と、自身を呼び寄せた「幼き主」への得体の知れない畏怖が感じられた。

伏したまま動かない崔厳を見下ろしながら、セシリアの脳裏にふと、かつて自分たちを導き、包み込んでくれたリゼリアの姿が浮かんだ。


(私はもう、ただの戦う少女ではないわ。一人の母であり、この領地を護る者……)


セシリアはすっと表情をやわらげると、かつての冷徹な態度を投げ捨て、包み込むような温かい微笑みを浮かべた。その声音は、先ほどまでの煽るようなトーンとは打って変わり、慈愛に満ちたものへと変化していた。


「遠路遥々、よく来てくださいましたね、崔厳。……娘のルシアも、あなたが来てくれてきっと喜ぶと思いますわ。長旅でさぞお疲れでしょう。娘はちょうど今、気持ちよさそうにお昼寝をしておりますの。まずは用意したお部屋に行って、ゆっくりと身体を休めてくださいな」


「は……? あ、は……」


セシリアのあまりの変貌ぶりに、毒気を抜かれた崔厳は目を丸くし、間抜けた声を漏らした。さっきまで「ポチ」と呼んであざ笑っていた恐ろしい異能の姫が、まるで聖母のような慈愛に満ちた表情で自分を労っているのだ。呆気にとられ、狐につままれたような顔でセシリアを見上げている。

セシリアは、戸惑う崔厳の様子には触れず、控えていた侍女へ視線を向けた。


「エミーナ。お願い。崔厳を客室へ案内して差し上げて。それからすぐに厨房へ向かい、温かいお食事を用意させるように伝えて頂戴ね」


「あ……は、はい! かしこまりました!」


エミーナもまた、セシリアの劇的な態度の変化に一瞬驚いたものの、すぐに頭を下げて崔厳を促した。


「さあ、崔厳殿。こちらへどうぞ」


「あ、いや……は、ははっ。恐縮にございます……」


崔厳は何度も頭を下げながら、狐惑の表情のままエミーナの後について応接間を後にしていった。


一人残されたセシリアは、静かになった応接間でぽつりと息を漏らした。


彼女は瞬時に悟っていたのだ。生後わずか一ヶ月にして、自分や母フレデリカをも超える絶対的な異能の力を秘めて生まれてきた我が娘、ルシアのことだ。あの常識外れの赤子が、ただの気まぐれでこんな真似をするはずがない。かつて国を破滅に導き、そして卓越した内政の手腕を持っていたこの崔厳という男を呼び寄せたのには、絶対に何か深い意味があるはずなのだと。


(ルシアのすることには、きっと意味がある……。あの子が選んだのだから、私はそれを信じましょう)


かつて冷酷な戦士にもなれた自分が、愛を知り、そしてルシアという新しい生命を授かった。人を愛すること、そして信じることの大切さ。母親となったことで、自分の心の中に確かに新しい強さと変化が芽生えているのを、セシリアは実感していた。


その時——。


まるでセシリアの思考を読み取ったかのように、頭の中に直接、鈴の鳴るような可愛らしく透明感のある声が響き渡った。


『お母様? ありがとう』


それは、まだ言葉もしゃべれないはずの、奥の部屋で眠っているはずのルシアからの【念話】だった。


胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、セシリアはクスリと苦笑いを漏らした。


「本当に……手のかかる、可愛くて恐ろしい私の赤ちゃんね」


セシリアは愛娘の眠る寝室の方角を見つめながら、やわらかな春の光の中で、優しく微笑むのだった。







登場人物紹介


◯崔厳(さいげん)

錦族である。燕国の宰相を務め、国を乗っ取り、僭主となった経歴から、それなりの能力を持ち、またそれなりの野心家である事がわかる。ルシアが彼を拾った理由は、強烈な承認欲求(目立ちたがり屋)、政治、経済的な能力、自己演出能力、それらに秀でているからであった。実際、彼自身も教祖のふりをして、新たな宗教という世界の頂点に君臨する事を、すんなり受け入れ、大いに自己開花するのであった。

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