『転生姫の初恋と失恋』
水の都アクア・パレス特有の湿り気を帯んだ爽やかな風が、ルシア宮の手入れされた庭園を吹き抜けていく。満開の花々が揺れる美しい景観の中で、突風のごとき打撃音と甲高い風切り音が響き渡っていた。
ガンッ! パラッ! と鋭く交錯するのは、二本の木剣。だが、打ち合っている者たちの動きは、およそ「稽古」や「遊び」といった生易しいものではなかった。手加減など一切存在しない、一歩間違えれば命を落としかねない真剣勝負そのものである。
「……はぁっ!」 「くっ……!」
打ち合っているのは、ルシアとリアム。共に十五歳を迎えた若き二人だ。
庭園の木かげでは、専属侍女のヴィオと熟練のベルトトが、手に汗を握りながらハラハラと見守っていた。かつてこのルシア宮で主任侍女を務めていたエミーナがいれば、容赦ない一言でこの命懸けの騒動を諌め、やめさせることができたのだろう。しかし、彼女は結婚して惜しまれつつ退官してしまった。いまや彼らの乱闘を制止できる者はおらず、従者たちは固唾をのんで成り行きを見守るしかないのだった。
ヴィオ自身もルシアによって相当に鍛え上げられており、常人以上の身こなしと洞察力を備えている。しかし、それでもなお、眼前で繰り広げられるルシアとリアムの領域には遠く及ばない。
彼らがこうして木剣を交えるのは、数えること実に四万三千八百回。長きにわたる歳月の中で積み重ねられた戦歴だ。「手合わせ」と言えば聞こえは良いが、その実態は、腹を立てたルシアが日常の不満や鬱憤を晴らすためにリアムを一方的に襲撃しているに過ぎない。リアムにとっては文字通り生きた心地のしない、命懸けの死闘の連続であった。
だが、成果は確実に表れていた。十五歳となり、セレスティア軍の軍営へ出入りするようになったリアムは、最近になってルシアの不条理な「襲撃」の恩恵を好意的に受け止めるようになっていた。
セレスティア兵といえば、アルストラーナ帝国の中でも無敗を誇る超精鋭集団である。だが、軍営に集う猛者たちの中にも、いまのリアムに敵う強者は一人として存在しなかった。下手をすれば、帝国軍で「軍神」とまで称えられる親王イリアードでさえ、真剣勝負において成長したリアムに勝てないかもしれない。もちろん、実の親子で殺し合いなどできるはずもないため、真の実力を比べる術はないのだが。
しかし、ルシアとの勝負は違った。ルシアは容赦がない。手加減など知らず、明らかにリアムを殺しにかかるような一撃を平然と放ってくる。無論、リアムならばかわすか受け止めることができると知っているからこその挙動であったが、それがリアムの能力を限界を超えて引き上げ続けていたのだ。
(——だが、何かが違う)
打ち合いの最中、リアムの脳裏に違和感が走り抜けた。
常人には到底見極められない次元の攻防。しかし、長年ルシアの刃を受け続けてきたリアムと、傍らで見守るヴィオには、辛うじて感じ取ることができた。今日のルシアの剣捌きには、いつも誇るべき絶対的な「冴え」がない。どこか迷いと陰りが混じっている。
踏み込みが一瞬、遅れた。
リアムの身体は無意識に反応し、反射的に渾身の突きを繰り出していた。鋭い木剣の先端が、ルシアの顔面の目と鼻の先を鋭く掠め去る——。
「っ!?」
ヒュッ、と空気を切り裂く音とともに、リアムの背中に冷や汗が吹き出した。間一髪、相手の顔面に突き刺さる直前で動きを止めたものの、あと数ミリずれていれば、ルシアの透き通るような美しい顔に傷を付けてしまうところだったのだ。
四万四千回近く交わしてきた手合わせの中で、こんな危険なミスは初めてのことだった。
「……どうしたの、危なかった。ごめん!」
リアムは動揺を隠せず、慌てて木剣を引いて謝罪した。ルシアの顔に怪我がないか、青ざめた表情で確認する。
だが、ルシアは避ける素振りすら見せず、まっすぐにリアムを見つめていた。そして、ゆっくりと息を吐くと、細く可憐な唇を開いた。
「……リアム。強くなったね。私の負けね」
「え……?」
リアムは驚き、目を丸くした。
幼少期から誰よりも負けず嫌いで、どんなに追い詰められても絶対に膝を折らなかったあのルシアが、自ら負けを認めたのだ。そんなことは、二人が出会ってからただの一度もなかった。
ルシアは見たこともないほど悲しげで、儚い微笑みを浮かべた。その瞳には、自分の手から何かが離れていくような、切ない影が揺れている。
「はい、これ」
ルシアは静かに握っていた木剣を差し出し、リアムの手元へと手渡した。庭園に吹き抜ける風が、二人の間に静寂を連れてくるのだった。
ルシアの初恋が実ることは、叶わなかった。 自身の異能の力を用いれば、帝都の翡翠宮までイスファに会いに行くことなど不可能ではない。だが、叶わぬ恋に未練を募らせて身勝手な行動を起こせば、まだ幼い妹のシンシアを悲しませるだけだ。
後宮へ行くのはシンシアであって、自分ではない。
ルシアはリアムに背を向けると、ヴィオを伴い、さらなる憂さ晴らしの対象を探すようにその場を去っていった。
登場人物一覧表
* ルシア(ルシア・フォン・セレスティア)
* セレスティア親王イリアードと側室セシリアの間に生まれた15歳の姫君。
* 一族最強と謳われる強力な異能(数千キロ離れた異国へ一瞬で転移する能力など)を持つ。
* 裏では義賊『六棘の霜華』のリーダーとして、短錫杖を手に悪徳貴族や海賊などを討伐・蹂躪している。
* 『聖ゲンドラス教国』を陰から操る真の支配者という顔も持つ。
* ヴィオ
* ルシアに付き従う同い年(15歳)の専属侍女。
* 乱雑な黒髪と紫の瞳が特徴で、5歳の頃に孤児だったところをルシアに拾われた。
* 長柄の仕込み錫杖(長剣と金属鞘)を巧みに操る「両手生殺」の精鋭であり、ルシアの絶対的な忠臣。
* セシリア
* ルシアの母であり、セレスティア親王イリアードの側室。
* 自身も異能の力を有し、察知能力に優れる。娘を深く溺愛しており、秘密で夜出かけるルシアを心配している。ルネッタの実姉。
* ベルトト
* セシリアの側近であり、熟練の侍女。眼鏡をかけた冷静沈着な女性で、ルシアやヴィオの寝坊などにも対応する。
* イリアード
* アルヴェリア親王(セレスティア親王)で、ルシアやシンシアの父親。
* 帝国軍で「軍神」と称されるほどの猛者だが、ルシアを異常なまでに過保護・溺愛している。
* リアム
* ルシアと同歳の15歳の青年。
* ルシアから日常的に不条理な「手合わせ(襲撃)」を受け続けた結果、帝国軍の猛者や軍神イリアードをも凌駕するほどの極限の強さを手に入れた。
* フレデリカ・リヴィエール
* リヴィエール一族の長老であり、イリアードの母。一族の血筋や政治的バランスを冷静に判断する重鎮。
* リゼリア
* セレスティア親王イリアードの正妃で、シンシアの母。品格ある貴族の女性。
* シンシア
* イリアードと正妃リゼリアの間に生まれた次女で、ルシアの5歳年下の妹(10歳)。大人しく慎み深い性格で、第四皇子イスファの許嫁に選ばれる。
* ゲンドラス・サイリュン
* 『真理の光教団』の教祖であり、『聖ゲンドラス教国』の国家元首・教皇。表向きは絶対的な指導者だが、裏ではルシアの忠実な下僕・傀儡である。
* トールズ
* 海賊の集落「フロスト・ヴィーク」の首長を務める大柄な巨漢。愛用の大斧で戦うが集落最強の彼もルシアに叩きのめされた。
* ハガル
* 『黒き森』に住む「鹿族」の若きリーダー。鉄の槍で戦うが、集落とともにヴィオらに倒された。
* エスゲイ・バール
* 中央高原を支配するバール朝グラッデェの隻眼の覇王。巨大都市「ガザルカガンド」を建設したが、ルシアに瞬殺される。
* カサル
* エスゲイ・バールの弟で大将軍。過去の敗北から焦土作戦を行ったが、ヴィオによって即座に首を刎ねられた。
* ベグ・バール
* エスゲイ・バールの次男。父と叔父を討たれた際、ルシアから「アンチアルマで相手をしてやる」と呼び出しの伝言を残される。
* ルネッタ
* 帝都ラーナの翡翠宮後宮にいる徳妃で、セシリアの実妹。第四皇子イスファの母。
* イスファ
* 皇帝アラリックと徳妃ルネッタの間に生まれた第四皇子(15歳)。ルシアの幼馴染で初恋の相手。
* グラッデェ貴族
* 帝都ラーナで私兵15人を雇い、貧民から絞り上げた財宝を溜め込んでいた肥満体の悪徳貴族。
用語集一覧表
* 六棘の霜華
* 六つの尖角を持つ雪と霜の結晶が描かれた紋章、およびそれを掲げる神出鬼没の義賊。
* 背中、左胸、右肩の3箇所に銀糸などの刺繍が施されたローブを纏い、悪徳貴族や海賊などから富を奪い貧民に還す活動を行う(ルシアとヴィオの裏の顔)。
* 四つ葉のクローバー
* 聖都クリスタルヘイム(聖ゲンドラス教国)において、真の支配者であるルシアとヴィオがローブに刻んでいる紋章。裏の絶対権力を象徴する。
* 短錫杖
* ルシアが主に使用する武器。片腕〜剣ほどの長さで、金環がついており、洗練された剣術の足さばきと合わせた苛烈な打撃を繰り出す。
* 長柄の錫杖 / 仕込み剣
* ヴィオが使用する身丈を超える長柄の武器。柄を捻ると長頭部から澄んだ刃文を描く長剣(仕込み剣)が抜け出し、残った柄と石突きは強固な金属鞘として機能する。両手で剣と鞘を操る「両手生殺」の演武を行う。
* アルストラーナ帝国
* 古き文明の発祥地である大国。帝都は「ラーナ」。
* ルシア宮
* 水の都アクア・パレスに所在する、ルシアの居所・寝室がある白い外壁の宮殿。
* 聖ゲンドラス教国 / 聖都クリスタルヘイム
* かつてのノバージェ共和国を打倒して樹立された教国、およびその大都市。ディヴァイン湖や霊峰セイクリッド山の足元に位置する。表向きはゲンドラスが治めるが、実権は10年前の建国からルシアが握っている。
* 真理の光教団
* ゲンドラスを教祖(表向き)とする教団。『黒き森』の未開部族(鹿族)を殲滅した跡地にも大聖堂を建て、農耕と交易の秩序をもたらした。
* フロスト・ヴィーク
* フィヨルドの深い底に位置する海賊の集落。ルシアとヴィオの襲撃・放火によって壊滅させられた。
* 鹿族
* 『黒き森』のオーク原生林に住む、ハガルが率いていた狩猟採取部族(森の民)。野蛮で未開とみなされ、ルシアとヴィオによって全滅させられた。
* ガザルカガンド
* 覇王エスゲイ・バールが建設した巨大交易都市。苛烈な通行税により商業としては衰退したが、遊牧民の競り市や宴が行われていた。




