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『アルストラーナ伝記』  作者: リアトト
『六棘の霜華』帝国歴321年
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『転生姫の暗殺と挑発』

帝国歴321年。

かつて古都アンチアルマを焼き払い、大陸全土を激震させた騎馬民族グラッデェが中央高原へと引き揚げてから、十七年の月日が流れていた。

覇王エスゲイ・バールは自身が中央高原を支配し、

アルストラーナの北方。大陸の西海岸を委ねられたエスゲイの弟カサルは、北海の荒くれ者たちに苦しめられていた。フィヨルドを根城にする海賊と、エルス川北岸に広がる「黒い森」の住人——森の民。それらの侵略を断ち切るべく川を渡った軍勢は、うっそうとした密林での凄絶なゲリラ戦術と強襲に遭い、二万の兵が一夜にして全滅するという痛恨の敗北を喫したのだ。狂気と怒りに駆られたカサルは、防衛すべきエルス南岸を切り捨てる決断を下した。自らの領地を焦土と化し、街を焼き払い、民を強制的に中央高原と連れ去るという暴挙によって、無理やり北の脅威から距離を置いたのであった。中央高原を支配する隻眼の覇王エスゲイ・バール本人は、巨大な交易都市「ガザルカガンド」を建設していた。しかし、彼が課した苛烈な通行税は交易商人たちの足を遠のかせ、かつて栄えた交易路の繁栄は今や過去の記憶と化していた。商業の主役はすでに、はるか南方の海を渡る巨大な船団へと移り変わっていたのである。

それでもなお、グラッデェが支配する版図は広大であった。

一年で最も心地よい風が吹くこの季節、ガザルカガンドは最高潮の熱気に包まれる。年に一度、広大な遊牧地の割り当てを決め、羊毛を刈り取り、春に生まれた家畜を一斉に競り市にかける。集った遊牧民たちは、連日連夜の宴と博打に身をやつし、丸一ヶ月を歓楽の中で過ごすのだ。

今宵もまた、巨大な天幕の中は熱気に満ちていた。 香ばしく焼き上がる肉の匂いと立ち上る強い酒の香り。かつて大陸を震え上がらせた猛者たちの野太い高笑いが、天幕の革を揺らしている。 その座の頂点には、隻眼の覇王エスゲイ・バール。そしてその傍らには、大将軍カサルが重々しく腰を下ろしていた。惨劇は、あまりにも静かに訪れた。

肉を喰らい、酒を酌み交わす血と酒の宴が、ふと静寂に呑み込まれたのは一瞬のことだった。 扉が押し開かれた音も、草を踏む足音すらもなかった。あたかもそこにあった空間そのものが歪んだかのように、宴の真ん中に二つの影がたたずんでいた。

身に纏うのは、深くフードを被った漆黒のローブ。 その右肩、左胸、そして背中には、禍々しくもどこか優美な『六棘の霜華ろっきょくのそうか』の紋章が鮮やかに刺繍されている。

「何奴……ッ!?」

即座に反応したカサルが怒号を上げ、腰の剣へ手を伸ばした。 だが、その手が柄を握りしめるより早く、影の片側が動いた。

左手に立つ小柄な侍女——顎のラインで切り揃えられた荒々しい黒髪と、冷ややかな紫の瞳を持つ少女、ヴィオ。 彼女は手にしていた長柄の錫杖を滑らせるように引き抜いた。カチャリ、と金属質の澄んだ音が響く。仕込み杖の中から姿を現したのは、研ぎ澄まされた細身の長剣。右手に細剣、左手に石突きのついた鞘を構えたヴィオは、両手を交差させる独特の構えから、踏み込みの一歩を標的に向けた。

一筋の突風が天幕を駆け抜ける。

数万にも及ぶ軍勢を率いる、大将軍カサルの首筋に、すっと細い鮮血の線が走った。 自身に何が起きたのかを理解する余地すら与えられないまま、カサルの首級がドサリと絨毯の上に転がった。血飛沫の一滴すら浴びていないヴィオの紫の瞳には、一切の感情が宿っていない。

「カサルッ……!」

突如として弟を殺された隻眼の覇王エスゲイ・バールが、その巨体を弾むように立ち上がらせた。長剣を一気に抜き放つ。かつて大陸を平定した覇王の咆哮と殺気が、密閉された天幕内の空気を痛いほどに圧迫した。

だが、右側に立つもう一人の少女——セレスティア親王領の姫君、ルシアの領域は、すでに人の域を超えていた。

フードの奥から覗く、凍てつくように冷徹な瞳。 彼女が短錫杖を引き抜いた瞬間、天幕内の空気そのものが一瞬にして結氷したかのような錯覚が走る。刃の煌めきすら、誰の目にも捉えられなかった。ただ一筋の眩い銀光が、エスゲイの視界を掠めただけだった。

次の瞬間、覇王が掲げた長剣が柄ごと斜めに断ち切られ、遅れてその胸元から鮮血が激しく噴き出した。 隻眼の眼球を限界まで見開いたまま、ガザルカガンドの覇王は最後の一言すら遺すことを許されず、豪快に崩れ落ちた。

ほんの数瞬のことだった。 中央高原の頂点に君臨し、大陸の半分を支配する覇王が、名もなき虫ケラのように命を散らしたのだ。

言葉を失った護衛の兵たちは、あまりの超絶した剣術と非現実的な惨劇に腰を抜かし、叫び声すら上げられずに歯をガタガタと鳴らしていた。

ルシアは短錫杖に付着した僅かな血を優雅な所作で振り払うと、フードの奥から冷徹な声を放った。それは高貴で、あまりに高慢で、そして何者にも抗うことを許さない絶対者の響きを帯びていた。

「ベグに伝えなさい」

バール朝グラッデェ皇帝として即位し、半分を統治するエスゲイの次男——ベグ・バール。

「アルストラーナに来い。アンチアルマで相手をしてやる、とね」

ルシアが言い捨てるのと同時に、ヴィオが長剣を鞘へと収めた。カチャリ、と静かな金属音が天幕の静寂に響く。

次の瞬間、ゆらめく篝火の影が二人の体を呑み込むように揺れた。 一陣の風が吹き抜けたとき、血の海と化した惨劇の中心には、すでに誰もいなかった。

あとに残されたのは、生存者たちを叩きのめす絶望的な恐怖と、東方より刻一刻と迫り来る絶対的な死の予感だけであった。




登場人物一覧表

* ルシア(ルシア・フォン・セレスティア)

* セレスティア親王イリアードと側室セシリアの間に生まれた15歳の姫君。

* 一族最強と謳われる強力な異能(数千キロ離れた異国へ一瞬で転移する能力など)を持つ。

* 裏では義賊『六棘の霜華(ろっきょくのそうか)』のリーダーとして、短錫杖を手に悪徳貴族や海賊などを討伐・蹂躪している。

* 『聖ゲンドラス教国』を陰から操る真の支配者という顔も持つ。

* ヴィオ

* ルシアに付き従う同い年(15歳)の専属侍女。

* 乱雑な黒髪と紫の瞳が特徴で、5歳の頃に孤児だったところをルシアに拾われた。

* 長柄の仕込み錫杖(長剣と金属鞘)を巧みに操る「両手生殺」の精鋭であり、ルシアの絶対的な忠臣。

* セシリア

* ルシアの母であり、セレスティア親王イリアードの側室。

* 自身も異能の力を有し、察知能力に優れる。娘を深く溺愛しており、秘密で夜出かけるルシアを心配している。ルネッタの実姉。

* ベルトト

* セシリアの側近であり、熟練の侍女。眼鏡をかけた冷静沈着な女性で、ルシアやヴィオの寝坊などにも対応する。

* イリアード

* アルヴェリア親王(セレスティア親王)で、ルシアやシンシアの父親。

* 帝国軍で「軍神」と称されるほどの猛者だが、ルシアを異常なまでに過保護・溺愛している。

* リアム

* ルシアと同歳の15歳の青年。

* ルシアから日常的に不条理な「手合わせ(襲撃)」を受け続けた結果、帝国軍の猛者や軍神イリアードをも凌駕するほどの極限の強さを手に入れた。

* フレデリカ・リヴィエール

* リヴィエール一族の長老であり、イリアードの母。一族の血筋や政治的バランスを冷静に判断する重鎮。

* リゼリア

* セレスティア親王イリアードの正妃で、シンシアの母。品格ある貴族の女性。

* シンシア

* イリアードと正妃リゼリアの間に生まれた次女で、ルシアの5歳年下の妹(10歳)。大人しく慎み深い性格で、第四皇子イスファの許嫁に選ばれる。

* ゲンドラス・サイリュン

* 『真理の光教団』の教祖であり、『聖ゲンドラス教国』の国家元首・教皇。表向きは絶対的な指導者だが、裏ではルシアの忠実な下僕・傀儡である。

* トールズ

* 海賊の集落「フロスト・ヴィーク」の首長を務める大柄な巨漢。愛用の大斧で戦うが集落最強の彼もルシアに叩きのめされた。

* ハガル

* 『黒き森』に住む「鹿族(しかぞく)」の若きリーダー。鉄の槍で戦うが、集落とともにヴィオらに倒された。

* エスゲイ・バール

* 中央高原を支配するバール朝グラッデェの隻眼の覇王。巨大都市「ガザルカガンド」を建設したが、ルシアに瞬殺される。

* カサル

* エスゲイ・バールの弟で大将軍。過去の敗北から焦土作戦を行ったが、ヴィオによって即座に首を刎ねられた。

* ベグ・バール

* エスゲイ・バールの次男。父と叔父を討たれた際、ルシアから「アンチアルマで相手をしてやる」と呼び出しの伝言を残される。

* ルネッタ

* 帝都ラーナの翡翠宮後宮にいる徳妃で、セシリアの実妹。第四皇子イスファの母。

* イスファ

* 皇帝アラリックと徳妃ルネッタの間に生まれた第四皇子(15歳)。ルシアの幼馴染で初恋の相手。

* グラッデェ貴族

* 帝都ラーナで私兵15人を雇い、貧民から絞り上げた財宝を溜め込んでいた肥満体の悪徳貴族。

用語集一覧表

* 六棘の霜華(ろっきょくのそうか)

* 六つの尖角を持つ雪と霜の結晶が描かれた紋章、およびそれを掲げる神出鬼没の義賊。

* 背中、左胸、右肩の3箇所に銀糸などの刺繍が施されたローブを纏い、悪徳貴族や海賊などから富を奪い貧民に還す活動を行う(ルシアとヴィオの裏の顔)。

* 四つ葉のクローバー

* 聖都クリスタルヘイム(聖ゲンドラス教国)において、真の支配者であるルシアとヴィオがローブに刻んでいる紋章。裏の絶対権力を象徴する。

* 短錫杖(しゃくじょう)

* ルシアが主に使用する武器。片腕〜剣ほどの長さで、金環がついており、洗練された剣術の足さばきと合わせた苛烈な打撃を繰り出す。

* 長柄の錫杖 / 仕込み剣

* ヴィオが使用する身丈を超える長柄の武器。柄を捻ると長頭部から澄んだ刃文を描く長剣(仕込み剣)が抜け出し、残った柄と石突きは強固な金属鞘として機能する。両手で剣と鞘を操る「両手生殺」の演武を行う。

* アルストラーナ帝国

* 古き文明の発祥地である大国。帝都は「ラーナ」。

* ルシア宮

* 水の都アクア・パレスに所在する、ルシアの居所・寝室がある白い外壁の宮殿。

* 聖ゲンドラス教国 / 聖都クリスタルヘイム

* かつてのノバージェ共和国を打倒して樹立された教国、およびその大都市。ディヴァイン湖や霊峰セイクリッド山の足元に位置する。表向きはゲンドラスが治めるが、実権は10年前の建国からルシアが握っている。

* 真理の光教団

* ゲンドラスを教祖(表向き)とする教団。『黒き森』の未開部族(鹿族)を殲滅した跡地にも大聖堂を建て、農耕と交易の秩序をもたらした。

* フロスト・ヴィーク

* フィヨルドの深い底に位置する海賊(ヴァイキング)の集落。ルシアとヴィオの襲撃・放火によって壊滅させられた。

* 鹿族(しかぞく)

* 『黒き森』のオーク原生林に住む、ハガルが率いていた狩猟採取部族(森の民)。野蛮で未開とみなされ、ルシアとヴィオによって全滅させられた。

* ガザルカガンド

* 覇王エスゲイ・バールが建設した巨大交易都市。苛烈な通行税により商業としては衰退したが、遊牧民の競り市や宴が行われていた。


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