『真の国家元首』
大陸の東端、荒ぶる東海の果てに弓なりに弧を描いて浮かぶ、緑深い孤島群がある。
太古の火山活動が生み出した無数の峰々は、背骨のように大地を貫き、険しい山々からは清らかな水が急流となって豊かな平野を潤す。春には桃色の花びらが雪のように舞い散り、夏には鬱蒼とした深緑が山を覆う。秋には燃えるような紅葉が谷を染め、冬には北からの氷の吐息がすべてを白銀の世界へと変える。過酷なまでに美麗な四季の巡りが、この地のあらゆる命に繊細な呼吸を与えていた。
人々はかつて、この島々を渡り歩く『海の民』として歴史を重ね、やがて西のアジール半島や大陸との海上交易によって大いに興隆した。その後、強大なノバージェ共和国として発展を遂げ、栄華を極めた。しかし――時代の波とともにノバージェは滅び去り、いまやこの地は『聖ゲンドラス教国』として新たな生まれ変わりを果たしている。大自然の神々しいまでの威厳と優しさが同居する揺りかごであり、同時に試練の地。人々は敬意を込めて、ここを『日の出る聖なる国』と呼んだ。
かつての首都、ストロムホルムの北の樹海には、雲海を突き抜け、蒼天へ向かってただ独り聳え立つ、完璧な円錐形の霊峰セイクリッド山が佇んでいた。その足元には、まるで天空の鏡をそのまま落とし込んだかのように澄み渡る、青々とした巨大なディヴァイン湖が横たわっている。そしてその湖の畔には、天の北極星を中心とする星々の運行を模した大都市が築かれていた。
碁盤の目のごとく縦横に整然と敷かれた大路と小路は、遥か彼方まで真っ直ぐに伸び、朱塗りの柱と緑の瓦が映える壮大な宮殿を中心に広がっている。一千年の平安を祈り、風水と陰陽の理を尽くして選ばれたこの地では、朝な夕なに大聖堂の鐘の音が静寂を破り、山々に優しくこだまするのだった。
春には朱色の朱雀大路を風が吹き抜け、桜の舞い散る中に荷車がゆるやかにゆく。夜になれば、幾重もの絹を纏った貴人たちが薪の火に照らされた回廊で歌を詠み、筝琴の音色を夜空へと響かせる。華やかな文化の光が満ち、優美な雅と『真理の光教団』の密やかな陰影が織りなす、夢と現が交錯する千年の都――ストロムホルムの北の樹海に、忽然として姿を現した超巨大都市、聖都クリスタルヘイムである。
◇
かつてノバージェ共和国を打ち倒し、この地に『聖ゲンドラス教国』が樹立されてから、疾風のごとく十年の歳月が流れた。
聖都クリスタルヘイムの中央、荘厳を極める大聖堂の奥深き密室。重厚な絨毯が敷き詰められた最高指導者の執務室には、豪奢な装飾が施された教皇の玉座が鎮座していた。
そこに坐す男こそ、『真理の光教団』の教祖であり、『聖ゲンドラス教国』の国家元首、そして教皇として君臨するゲンドラス・サイリュンであった。黄金と純白の糸で織られた教皇衣を身に纏い、神聖なる威厳を全身から漂わせるゲンドラス。表舞台において彼の一言は絶対であり、信徒たちからは生ける神のごとく崇め奉られている。
しかし、いま、そのゲンドラスの表情に教皇としての尊大さや傲慢さは一切存在しなかった。彼は額に薄っすらと汗を浮かべ、膝を折り、深々と頭を垂れていた。
彼が平伏する視線の先――そこには、静かに腰掛け、退屈そうに短錫杖を指先で弄ぶひとりの少女の姿があった。
ルシア・フォン・セレスティア。
セレスティア親王領の姫君であり、御年十五歳。愛らしくも繊細な顔立ちとは裏腹に、その瞳にはすべてを見下すような高慢さと我がままな光が宿っている。彼女が羽織る上品なフード付きローブの右肩、左胸、そして背中には、美しく精緻に刺繍された『四つ葉のクローバー』の紋章が鮮やかに浮かび上がっていた。
表向き、この国の支配者はゲンドラス・サイリュンである。しかし公然の秘密として、この少女こそが界隈最強の異能の力を有し、十年前の建国劇を陰から完璧に操った真の支配者であり、ゲンドラスは彼女の忠実なる下僕に過ぎないのだ。
ルシアのすぐ傍らには、もうひとりの少女が影のように控えていた。ルシアの侍女、ヴィオである。ルシアと同歳の十五歳。顎下まで切り揃えられた乱雑な黒髪の間から、吸い込まれるような紫色の幻想的な瞳が覗いている。彼女はかつて五歳の頃、突如としてこの聖都クリスタルヘイムに姿を現した孤児であった。その非凡さを感じ取ったルシアがアルヴェリアへと連れて帰り、いまは侍女として手元に置いている。ヴィオの手にはいつも見慣れた長柄の錫杖が握られており、彼女のローブにもまた、ルシアと同じく『四つ葉のクローバー』の紋章が刻まれていた。
「――それで? ゲンドラス」
凛とした、しかしどこか甘やかなルシアの声が部屋に響いた。彼女は手にしていた短錫杖をまるで名剣を扱うかのように軽やかに一閃させると、冷ややかな視線を教皇へと向けた。
「わたくしがこの国を打ち立ててから、数えてちょうど十年。教皇としての務めは果たせているかしら? 『聖ゲンドラス教国』の現状、そして教団の浸透具合……隠さずに述べるがよいわ」
◇
「ははっ……! ルシア様のお言せの通りに」
ゲンドラスは床に平伏したまま、恐々とした声で言葉を紡ぎ始めた。
「旧ノバージェ共和国の臣民どもは、いまや完全に『真理の光教団』の教義に平伏しております。聖都クリスタルヘイムの繁栄は過日申し上げた通り。ディヴァイン湖の豊かな恵みと、セイクリッド山の霊気を受け、巡礼者は後を絶ちません。人々は『日の出る聖なる国』の奇跡を讃え、ルシア様の張り巡らせた秩序の中で、疑うこともなく平和を謳歌しております」
「ふん、当然でしょう。愚民どもには分かりやすい光と救済を与えておけば良いのです」
ルシアは高慢に微笑むと、膝に置いた短錫杖の柄を優雅になぞった。
「だが、表面上の平穏などわたくしの望むところではないわ。裏の動きはどうなっているの、ヴィオ?」
ルシアが背後に控える侍女に問いかけると、ヴィオは紫の瞳を静かに揺らし、長柄の錫杖を床にコツンと打ち鳴らした。
「……ルシア様。陰陽と風水の陣は万全です。教団の表の光が強まれば強まるほど、我が『四つ葉のクローバー』の手中に収まる陰の領域も広がっております。反対勢力、ならびに旧ノバージェの遺臣による潜伏工作は、すべて事前に察知し処理いたしました」
「結構。相変わらず手際が良いことね、ヴィオ」
「お褒めいただき、光栄にございます」
ヴィオは深々と一礼する。その無表情な顔立ちの奥には、自分を拾い上げ、いまの地位と力を与えてくれたルシアに対する絶対的な忠誠と過酷なまでの冷徹さが潜んでいた。
ゲンドラスは二人のやり取りを息を呑んで見守っていた。最強の異能を持つ高貴な姫君と、その足元を支える冷徹な侍女。建国から十年が経過してもなお、この二人が握る絶対的な権力構造は何一つ揺らいでいなかった。
「ゲンドラス。教皇としての面目を維持させてやっていること、忘れないことね。もしこの国がわたくしの描く理想から外れたなら……その時はどうなるか、分かっているわね?」
ルシアが天真爛漫とも取れる無邪気な笑みを浮かべた瞬間、部屋全体の空気が凍りつくような圧倒的な異能の圧迫感が室内を満たした。
「ひっ……! 勿論でございます、ルシア様! このゲンドラスの命も、教団の光も、すべては貴女様の手の中に! この地は永遠に貴女様の庭であり続けます!」
ゲンドラスは額を絨毯に擦り付けながら、必死に忠誠を誓った。
ルシアはその様子に満足したように短錫杖を収めると、軽やかな身ごなしで立ち上がった。フードを被り直し、背中に刻まれた四つ葉の刺繍を誇らしげに揺らす。
「よいでしょう。では、わたくしたちはセレスティアへの帰路に就きます。次の十年の静寂を、見事に守り抜いてみなさい」
「御意のままに……!」
聖都クリスタルヘイムに響き渡る夕刻の鐘の音の中、光と影を統べる幼き真の支配者たちは、密室の闇の奥へと静かに姿を消していった。




