『la personne de glace sous la lune(ラ・ペルソンヌ・ドゥ・グラス・ス・ラ・リュンヌ)』
「la personne de glace sous la lune(ラ・ペルソンヌ・ドゥ・グラス・ス・ラ・リュンヌ)……か」
羊皮紙の古びた表紙に記された、流麗なカリグラフィーを指先でなぞり、ルシアは静かに息を吐いた。 『月の下の氷の人』――即ち、人と人、人と国との縁を結ぶ『月下氷人(仲人)』を意味する異国の言葉。 水の都アクアパレス――ルシア宮で見つけた一冊の書物。それは歴史の記録でも吟遊詩の類でもなく、ルシアにとって最高にして完璧な『演出計画書』であった。
「ルシア様、そんな埃っぽい書物を真剣に読破なさっているのですか?」
呆れたように、けれど愛らしく首をすくめたのは、輝く金髪を揺らす侍女のエミーナだった。
「ふふ、実に興味深い記述がありましてね。……ねぇ、エミーナ。月に咲く『月下美人』のように一夜限りの幻として現れ、虐げられた民に新たな国との縁を結びつける『月下氷人』の物語……素敵だと思わない?」
ルシアが不敵に微笑みながら古書を閉じようとしたその時、折られたページの端から一枚の羊皮紙の肖像画が零れ落ちた。
セピア色に霞む絵の中で、満開の藤の花びらが降り注ぐ回廊に佇む一人の貴婦人。漆黒の髪を結い上げ、濃淡の紫を基調とした絢爛なドレスとマントを纏っている。その瞳は、百年の時を超えて見る者の心を射抜くほどに強く、深く、そして哀愁を帯びていた。
「まぁ……なんてお綺麗な方」
エミーナが息を呑み、ルシアの隣から肖像画を覗き込んで瞳を丸くする。
「これって、噂に聞く帝国の影……伝説の『月姫・紫苑のヴィオレット』様ですか? 宮廷の影で気高く咲き誇り、ある満月の夜に忽然と姿を消したという……」
「ええ、そうよ。彼女が消えた部屋には、濃密な藤の香りと血のように赤く染まった絹の飾り布だけが残されていた……なんて、伝説としては満点でしょう?」
ルシアはニヤリと可憐な笑みを浮かべた。 (……もっとも、この美しい肖像画のモデルが誰なのか、そしてこれからノバージェの民を救うために『ヴィオレット』として降臨するのが実のお母様だなんて、まだ誰にも秘密だけれどね)
一国を一夜にして宗教国家へと塗り替え、民と平和を結びつける『月下氷人』の筋書きは、すでにルシアの頭の中で完璧に完成していた。
その時、重厚な木製のドアを激しく叩きつける音が室内に響いた。
「隊長! 甲板へお越しください!」
固く閉ざされていた扉の向こうから、兵士の張り詰めた声が促す。 揺れる床、泡を砕く潮の香り――激しく波打つ船の中にいるのだという現実を思い出した。
遮光性の高い重い扉を押し開けて甲板に出ると、そこには漆黒の鎧で身を包み、鋭い槍や剣で武装した兵士たちが隙間なく並んでいた。 一糸乱れぬ規律を保った軍勢。彼らが掲げる軍旗、そして胸当てに刻まれた紋章は――『真理の光教団』の『四つ葉のクローバー』であった。
船体は、東の海域の荒波を豪快に蹴立てて進む軍艦『ブラッド・エミーナ』である。頭上を見上げれば、どんよりとした鉛色の雲が低く垂れ込め、隙間からこぼれる夕陽が海面を血のような茜色に染めていた。潮風が二人の髪を激しくなびかせる。
「隊長! ストロムホルムの港湾砦が見えてまいりました!」
士官らしく精悍な青年が、波の音に負けじと声を張り上げる。
「どうしますか!? 間もなく日没です。この荒海を考慮すると、迷っている時間はありません!」
青年の緊張した言葉を受け、エミーナは一歩引き、背後のルシアを振り返った。 エミーナが鞘から抜いた剣を天へと仰ぐように掲げる。エミーナの覚悟を確認したルシアは、不敵に微笑み、悪戯っぽくウィンクしてみせた。
エミーナは波に揺れる船首へとゆっくり足を進めた。船首の縁に片足を引っ掛け、前のめりになるほどの猛烈な風を受けながら、前方へ剣先を突き立てた。
「みなさん――! 本艦はこれより、敵陣へと突撃する! 港へ突っ込め――!!」
抜き身の剣が一瞬、陽光を反射して煌めいた。遥か前方にそびえ立つ敵砦の先を強く指し示す。
「オオオォォ!! いけぇぇぇーー!!」
命を賭した兵士たちの地鳴りのような時の声が、夕闇に沈みゆく極東の海へと轟き渡った。
登場人物一覧表
ルシア・フォン・セレスティア:セシリアとイリアードの間に生まれた娘。生後まもなくから驚異的な異能(念動・念創・空間移動など)を発揮する神童。前世は「ロシュワルト伯爵家の至宝」と呼ばれたシャルロッテ。高慢で天真爛漫な性格で、「真理の光教団」を陰で操る。
セシリア・フォン・セレスティア:セレスティア親王イリアードの側室でルシアの母。念動や念力、念創の異能を持つ「リヴィエール一族」の出身。「水明将軍」の称号を持つ。
リゼリア・フォン・セレスティア:セレスティア親王イリアードの正妃。念話、念視、予知を司る異能の持ち主で「水鏡将軍」の称号を持つ。リアムとシンシアの母。
イリアード・フォン・セレスティア:セレスティア親王で、アルストラーナ帝国の皇帝アラリックの異母弟。武勇に優れ、親王軍を率いる最高位の軍人。
リアム:イリアードと正妃リゼリアとの間に生まれた息子で、ルシアと同い年の腹違いの兄。父親譲りの優れた武術・体術の才能を持つ。
シンシア:イリアードと正妃リゼリアとの間に生まれた次女(ルシアの義妹)。
フレデリカ・リヴィエール:イリアードの母で、ルシアやリアムの祖母。かつて先帝の「御前琴師」であった古琴の名手で、街や宮殿を創り出せる突出した異能の持ち主。
エミーナ:セシリアとルシアに仕える侍女(23歳)。軍服を纏って戦場にも赴き、決死隊の高速艦『ブラッド・エミーナ』にその名を残す。リヴィエール一族の血を引き、高い異能を持つ。
ロゼッタ:リゼリアやセシリアに仕える一人前の侍女(19歳)。少し慌てん坊な性格。
ベルトト(ベルナデット/一部表記):セシリアやリアムに仕える完璧主義者の侍女。
アラリック:アルストラーナ帝国の現皇帝で、イリアードの異母兄。冷徹かつ厳格な支配者。
ロザリア:アルストラーナ帝国の皇后。かつての大粛清で没落したシュタインベルク家の出身。
イスマ:アラリック皇帝とロザリア皇后の間に生まれた第二皇子(第一の血統、8歳)。
ルネッタ・リヴィエール:セシリアの妹で、アラリック皇帝の徳妃(22歳)。帝都後宮の「翡翠宮」に住まう。
イスファ:アラリック皇帝と徳妃ルネッタの間に生まれた第四皇子(4歳、ルシアやリアムの従弟)。
崔厳 / ゲンドラス・サイリュン:元燕国の宰相で新国の王となったが敗北し囚われていた男。ルシアに拾われ、「真理の光教団」の教祖「ゲンドラス・サイリュン」として擁立される。
スライロ・ハリス:かつて滅亡したダラーン王国の「至高の頭脳」と称された元大臣。ルシアの異能と我儘により、「真理の光教団」サンブリア大聖堂の司教に据えられる。
ヴォルフラム・フェイ:流浪の吟遊詩人であり一騎当千の剣士。ルシアに服従を誓い、「真理の光教団」アンチアルマ大聖堂の司教となる。
アルベール:ルミナリアに住むセシリアとルネッタの父で、リヴィエール商会ルミナリア支社長。
エレノア:セシリアとルネッタの母。
カシアン・ヴァロア:アルストラーナ帝国の南洋侵攻船団を率いた42歳の宦官大提督。敗戦後、名誉の戦死を装いシューコルンで教団の司教となる。
ボロ・ディヌイヤ:南洋の巨大王国「ディヌイヤ」を統べる圧倒的な威厳を持つ国王。
アレス・マクウェン:セレスティア水軍の若き優秀な副官で、特攻艦『ブラッド・エミーナ』の元艦長。エミーナに想いを寄せる。
リョウ・マルディ:ノバージェ共和国の有力金融家で最高執政官に就任した男。莫大な債務で国を支配したが、ルシアたちに倒される。
ジルグード:オテゲン皇国の第四王子。収容所から解放されたオテゲン民を率いて燕国の鳳山城を占領・籠城した。
用語集一覧表
アルストラーナ帝国:作中の舞台となる強大な帝国。
セレスティア親王国:アルストラーナ帝国の親王国で、イリアードが治める領地。中心都市は「水の都」と呼ばれるアクアパレス。
アクアパレス:セレスティア親王領の首都。水路網が縦横無尽に走り、フロスト・ヴァイス城や離宮、ルシア宮などの主要施設が存在する。
リヴィエール一族:常人を遥かに超える強力な「異能」の血を引く一族(念話・念視・予知・念動・念力・念創・空間移動など)。
念創:無から有を生み出し、記憶やイメージ通りの物質や衣服、建造物を瞬時に創造・構成する異能。
真理の光教団:ルシアの目論見と異能によって創設された新興宗教。貧民や被搾取層に救いを与えつつ、裏で莫大な富と資金を回収・循環させるポンプの役割を果たす。
ゲンドラス・サイリュン:崔厳が演じる「真理の光教団」の教祖。神々しい威厳と沈黙で信者を平伏させる。
ルシア宮:生後6ヶ月のルシアが異能(念創)によって無意識に生み出した、ガラスと白大理石でできた小宮殿。
常緑宮:フロスト・ヴァイス城内にある本宮で、親王妃リゼリアが滞在する居室。
翡翠宮:帝都ラーナの後宮内にある優美な宮。かつてフレデリカやセシリアが過ごし、現在は徳妃ルネッタが住まう。
蓮花宮:アクアパレス内にある、フレデリカの居宮。フレデリカ自身の異能によって作られた大輪の蓮が咲く幻想的な宮殿。
ルミナリア:「花の都」と称される内海の要衝都市。300年間戦火を免れて表向きは平和と繁栄を謳うが、裏では固定化された激しい貧富の格差が存在していた。
リヴィエール商会:一族が運営する巨大な商業組織。教団が回収した資金を専属取引で吸い上げ、正規の税として帝国国庫へ還元する仕組みを担う。
ブラッド・エミーナ:セレスティア水軍の高速艦。3本の斜めマストと高い機動性を持ち、特攻隊長エミーナの名が冠されている。
ディヌイヤ:南洋の果てに存在する、独自の巨石文化と褐色の肌の民を持つ巨大人間王国。
ノバージェ共和国:サン・ジルジ銀行などを通じた金融・債務取引で繁栄していたが、インフレと贅沢により「裕福なる貧困」に陥った国家。ルシアの計画により「聖ゲンドラス教国」へと再編される。
紫苑のヴィオレット(月姫):100年前に姿を消したとされる帝国の伝説の影。ルシアの演出により、ノバージェの民を債務から救う女神としてセシリアが演じた。
月下氷人(la personne de glace sous la lune):ルシアが見つけた古書に記載されていた、「人と人、国と国との縁を結ぶ仲人」を意味する概念・演劇プロデュース計画。




