『セレスティア艦隊の転進』
陽光を映して揺れる海面は、春の半ばを過ぎて柔らかな碧緑に染まっていた。
セレスティア親王イリアードは船首に立ち、騎士服をなびかせる海風を深く吸い込んだ。
船体に当たる小波の音が心地よく響き、初夏の気配を孕んだ風が、潮の香りと共に陸からの瑞々しい草木の香りを
運んでくる。東へ視線を向けると、遠く霞む沿岸には青々とした山並みが連なり、その山麓には遅れて咲き誇る野
生の桃の花が、まるで薄桃色の雲を散りばめたように広がっていた。
イリアード率いるセレスティア艦隊が燕国の沖合に到着したのだ。先に到着したサンブリア隊の大型艦が錨(いか
り)を下ろしているのが見える。
燕国の鳳山ほうざんは内陸の都市と思われがちだが、南海へ注ぐ大河『燕江』の河口から遡上できる
水運都市でもあるのだ。陸からの侵攻には山脈という天然の要害が立ちはだかるが、海から大河をさかのぼれば、
王都の喉元まで一気に肉薄できるのである。ただし、喫水の深い大型の外洋船は川に入れないため、大型艦の陸
上部隊は河口の港で下船し、陸路で向かわねばならない。サンブリア隊の小型・中型船はすでに燕江へと突入し
ているため、セレスティア軍も陸路で向かうべく下船準備を始めていた。
アジール半島の南端サンブリアが、ノバージェの侵攻を受け陥落したとの報が届いたのは、まさにこの時であった。
「各艦に伝えよ、下船中止だ! 我が艦隊はサンブリアに向かう」
「ヘクスハイム隊、サンブリア隊、そしてこちらに向かっている第一騎士団の各隊に伝令を。セレスティア隊はサン
ブリアへ向かいノバージェと交戦後、これを奪還する。鳳山は包囲のみで時間を稼ぎ、兵糧攻めとせよ。馬や羊の
飼料とて蓄えはないはずだ。長くは持つまい、必ず落ちる!」
ヘクスハイム隊、サンブリア隊、そしてこちらに向かっている第一騎士団は、アンチアルマにてイリアードが率いた
13 万の帝国軍から分散された兵たちである。お互いをよく知る仲間であり、選び抜かれた精鋭たちであった。
「偵察隊、先行せよ! 本隊は出航準備を急げ!」
歴戦の司令官は矢継ぎ早に指示を出していく。セレスティア艦隊は次々と錨を引き上げ、サンブリアに向けて南へ
進路をとった。
◇
陽光が真っ直ぐに注ぐ正午、沖合を進むセレスティア艦隊旗艦『ウォータードラゴン』は、舳先を南東へと向け、一
路サンブリアの沖合を目指していた。春の深まりを告げる暖かな海風が、帆をいっぱいに膨らませている。
イリアードは日差しを遮るように手かざしをし、どこまでも続く碧緑の水面を見渡した。四月の昼の海は波も穏やか
で、まるで広大な青磁の盤の上を滑っているかのようだ。水面は頭上の太陽を反射して眩しく輝き、時折跳ねる魚
の背が銀色の光を放っている。
「追い風です。日の落ちる前にはビガンテの北の海域へ至るかと思われます」
イリアードの傍らでそう伝えたのは、副官のアレス・マクウェンである。
平民出身ながら若く優秀な士官だ。帝国歴299年の夏、アルヴェリア水軍発足時に15歳で志願し入隊した、生え
抜きの若者である。2度のサンブリア沖海戦では、特攻艦『ブラッド・エミーナ』で艦長を務めた。
『ブラッド・エミーナ』は初代、新型の2代目共に、アルストラーナで最も戦功のある軍艦である。
誠実で勇猛果敢な申し分のない若者であるが、シューコルン沖海戦後から、セシリアの侍女エミーナに恋文を送っ
ているらしいと噂がたっていた。親王府の人間に内密で文を送るのはほぼ不可能に近く、公にされても良いほど本
気であるのだろう。実際に彼はイリアードの目から見ても、非の打ち所の無い青年士官である。
そして、エミーナもロゼッタと共に長く親王府に仕えており、大切な侍女たちである。
ロゼッタは真面目で万能。エミーナは幼い頃は泣き虫の天然であったが、セシリアと共に幾多の戦功をあげてき
た。愛娘ルシアがエミーナを姉・母代わりにと溺愛しているため、セシリアの下で侍女として仕えてくれているが、正
妃のリゼリアの考えは違った。リヴィエールの娘は子孫を残すべきだと希望しているのだ。リヴィエールの秘匿して
いる異能の力を存続するべきであり、より多く可能性が残された方が望ましいのである。
その娘であるエミーナはちょうど年頃であり、大変美しい。溺愛しているセシリアとルシアの意見はひとまず置いて
おいて、実際の所どうなのかとアレス・マクウェンに男同士として聞きたいのだが、今は戦時中である。やや不謹慎
であるにちがいなかった。
日焼けした老船頭が甲板から声を張り上げると、船乗りたちが手際よく縄を引いた。燕江の河口付近に見えていた
遅咲きの桃と新緑の混ざり合う山並みは、船が南下するにつれて徐々に遠ざかり、代わりに右手には青々としたラ
シル王国の国土の影が薄っすらと、しかし確かに連なり始めていた。
正午を過ぎる頃には、海の色は一層深みを増し、濃い群青へと変わっていく。北からやってきた冷たい風と、南から
の暖かな潮が混ざり合うこの海域では、時折、春特有の白い薄靄もやが水面を這うように漂う。その向こうを、南
から渡ってきたウミネコの群れが甲板に響く甲高い声を上げて横切っていった。
幾度の記憶が眠るこの北の海も、四月の昼下がりの光の中に置かれれば、荒々しさは息を潜め、どこか神秘的な
静寂に包まれていた。船が波を割る音と、風が帆を鳴らす音だけが規則正しく響いている。
イリアードは甲板の木椅子に腰を下ろし、用意されていた竹筒から冷えた茶を注いだ。風に乗って流れてくるのは、
潮の香りと、遠くの陸地から運ばれてくる若い草木の匂い。
太陽が少しずつ西に傾き、昼の白光が柔らかな黄金色へと移ろい始める中、艦隊はサンブリアの海域を目指し、滑
るように静かな波間を切り拓いていった。




