『ノバージェ共和国のドージェ』
海辺に抱かれたノバージェ共和国のカレン宮殿は、潮風と蠟燭の匂い、そして濃密な欲望と緊張感に満ちていた。
長らく最高執政官ドージェの座に就いていたシン・ネグラは失脚し、その執務室の主は新たな若者に代わっている。 リョウ・マルディ。ノバージェ有数の名家、マルディ家の当主にしてサン・ジルジ銀行の総裁である。
この金融のサラブレッドは、好景気に沸いたノバージェがインフレに突入することを誰よりも早く察し、掻き集めた天文学的な金額の資金を全額貸し出して、有力な貴族と会社のほとんどを債務者にしたのであった。
ノバージェは当初、アルストラーナ領サンブリアを通じて、金銀銅の鉱石、火薬に使う硫黄、造船などに使用する木材を大量に輸出していた。これが好景気の始まりであるが、経済とは複雑なもので、国民のほとんどが裕福になると、国民のほとんどが貧困になるのと同じような現象が起きる。海外の珍しい品々を買い漁り、絹や高価な染料、香料、宝石や宝飾品などを競うようになり、瞬く間に貿易赤字へと反転した。そして国民は『裕福なる貧困』に気がつかないまま、贅沢を知った生活と見栄を張る社交性をやめることができずに、国外へ金銀を流出させていったのである。
そこへ大量の借金をさせていったのが、リョウ・マルディという恐ろしい若者であった。
ノバージェ共和国はもはやサン・ジルジ銀行のものであり、リョウ・マルディのものと言っても過言ではない。こうして国家元首の宝冠と外套はリョウ・マルディのものとなったのである。
リョウは羊皮紙の大地図が広げられた漆黒の円卓を凝視していた。 眼光は鋭く、年齢にそぐわぬ威厳を持っていた。 その地図には、半島からアルストラーナ帝国東方全域に張り巡らされたノバージェの交易網が描かれている。
「ビオを取り戻すのは今しかない」
ビオとはアルストラーナ領サンブリアのことである。 サンブリアはかつてビオという名のノバージェ領であったのだ。アジール半島はダラーンとラシル、そしてビオで三国の均衡を保っていた。ビオを占領したダラーンはラシル攻略に向かい、瀕死のラシルがオーレリア帝国に助けを求めた。結果、ダラーンは滅亡し、かつてのビオ――サンブリアはアルストラーナ領となったのであった。
オーレリア帝国歴311年3月。オテゲン残党が燕国を陥落させた。オーレリアは朝貢国を取り戻すべく、サンブリアの艦隊と2万5千もの駐屯兵を燕国に派遣したのであった。
サンブリアは今、物のけの殻である。
ノバージェは近年、二度の海戦にてセシリア率いるアルヴェリア艦隊に散々に打ちのめされたため、牙を剥くことはないだろうと思われているのだ。海の民を自称するノバージェは腰抜け扱いされていた。
恐れる者のないこの最高執政官は、海の民の栄誉とかつての国土を取り戻すべく、今を好機として動き出したのであった。




