『転生姫とセレスティア艦隊の救援』
黒雲が月を覆い隠し、海峡の海面は漆黒の油のようにうねっていた。
オーレリア征服艦隊の総司令官、カシアン・ヴァロアの乗る旗艦『オーレリア』の甲板に、潮風が吹きすさぶ。
「提督閣下、海賊が接近……いや、様子が異常です!」
見張り兵の叫び声に、甲板の全将兵が息をのんだ。漆黒の闇の中、こちらへ向かって流れてくるのは、海賊船ではない。暗闇を切り裂くように猛烈な炎を上げ、黒煙を吐き散らす八隻の巨大な木造船――火船だった。
「総員、投錨索を切れ! 錨を捨てて離脱せよ!」
カシアンの悲痛な命令が響き渡る。 本来ならば、陣形を崩さずに停留し、朝を待って帝国への帰路に着くはずであった。海賊は戦列を組んで挑んでくるのではなく、油を積んだ無人船に火を放ち、潮流に乗せて我々の懐深くへと送り込んできたのだ。
「切らせろ! 早くしろ、燃え移るぞ!」
暗闇の中で怒号と悲鳴が錯交する。重い鉄錨を海底から引き揚げる余裕などない。兵士たちは斧を振り下ろし、分厚いロープを叩き切った。巨艦『オーレリア』がうなりを上げて旋回する。周囲を見渡せば、皇帝アラリックの御名のもとに集結した二百隻余の艦隊は、火船の恐怖から逃れようと入り乱れ、密集陣形は完全に瓦解していた。
夜が明けた時、そこにあったのは惨憺たる光景だった。 朝靄の向こうに、海賊の姿が浮かび上がる。オーレリア海軍の戦術はシンプルだ。巨大な船を敵艦に横付けし、舷側をぶつけ合い、精鋭たる陸戦隊が敵甲板へと雪崩れ込んで白兵戦でねじ伏せる。神の御加護のもと、重装甲の騎士たちが剣と槍で敵をなぎ払うことこそが、我らの勝利の方程式だった。
しかし、奴らは来ない。
「敵艦、距離保ったまま砲撃体勢!」
海賊艦隊は、軽快で足の速い小型船を操り、我らの大砲の射程外から滑るように回り込んでくる。そして、長射程の大砲を一斉に火を噴かせた。
『ドォン! ドドォン!』
腹に響く重低音とともに、鉄の砲弾が『オーレリア』の側舷を穿つ。木屑が爆風とともに吹き荒れ、甲板で槍を構えていた兵士たちが悲鳴を上げて吹き飛ばされた。
「撃ち返せ! 奴らを近づけさせるな!」
我らの砲手たちも必死で砲弾を込める。だが、帝国の艦砲は接近戦での破砕を目的とした短射程の重砲が中心だ。おまけに砲架の構造上、一度発射した大砲を艦内に引き込んで再装填するのに絶望的な時間を要する。一砲門が一度撃つ間に、海賊の長砲は二度、三度と正確に帝国艦の水ラインを撃ち抜いていく。
「何ということだ……これが戦いか!」
甲板の脇で、一人の若い兵士が膝をつき、腹を抱えて絶叫している。その指から溢れ出る血が、双頭の鷲の旗を赤く染めていく。彼らは陸の王者だ。だが、ここは甲板であり、敵は剣を交えてくれない。オーレリアの自慢の陸戦隊は、一歩も敵に近づけぬまま、ただ砲弾の雨に晒される標的と化していた。
風向きが変わった。南西からの風が、帝国艦隊を容赦なく浅瀬へと押しやっていく。
「閣下! 操舵不能、このままでは座礁します!」
『オーレリア』の船体は既に数知れぬ砲弾を受け、浸水が始まっていた。周囲の味方艦――『マテオ』や『アガルタ』もまた、蜂の巣にされながら海賊艦に囲まれ、集中砲火を浴びている。血の匂いと硝煙の焦げ臭さが海風に混ざり、喉を焼く。
神よ、なぜ我らをお見捨てになるのか。我らはオーレリア帝国の威光を示す為に、皇帝の命を受け、この海に来たのではないのか。
カシアンは、乱れた髪をそのままに、固く唇を噛み締めながら水平線を見つめていた。その瞳には、敗北の無念さと、迫りくる絶望の影が宿っていた。海賊艦隊は決して深追いせず、彼らが自滅していくのを嘲笑うかのように一定の距離を保ち続けている。
弾薬が尽きかけた。食料も、水も、そして勝ち目も。
「全艦……東へ退避せよ」
絞り出すような提督の声が甲板に響いた。
海峡を塞がれた以上、彼らに残された道は、荒れ狂う海を東突き進み、沖合を北上してアルストラーナへと逃げ延びることだけだった。
敗戦の海を後にする彼らの背中に、海賊船の砲声がいつまでも残響していた。
だが、本当の地獄は海戦の後に待っていた。
東海へ逃れた彼らを迎えたのは、海賊以上の冷酷さを持つ「神の嵐」だった。この季節に多い巨大な低気圧が猛威を振るい、漆黒の波が高山のように艦隊へ襲いかかる。
「舵が持っていかれる! 持ちこたえろ!」
錨を捨てていた艦船は、嵐の中で留まることもできず、次々と岩礁へと叩きつけられた。激浪に揉まれ、船体は悲鳴を上げて裂け、東海の海原へと投げ出される兵士たち。断崖絶壁に打ち上げられ、海岸に漂着した生存者たちを待っていたのは、現地民達による無慈悲な処刑だった。
病と飢えが艦内に蔓延する。腐敗した水と僅かなビスケットを分け合い、息を引き取った戦友の体を、祈りとともに海へと滑り込ませる日々。一日、また一日と、旗艦の周囲を走る艦の数が減っていく。
「我が帝国艦隊が……誇り高きアルストラーナの戦士達がが……」
衰弱し、熱に浮かされながら呟く老兵の言葉に、誰一人として答える者はなかった。
ボロボロに引き裂かれた帆を掲げ、命からがら北上する艦隊は出航時の半数にも満たなかった。乗組員の過半数が、海に沈むか病に倒れ、二度と故郷の土を踏むことは叶わない。
◇
水平線の彼方から、彼らを救うべく セレスティア艦隊が現れたのはそれから数日後の事であった。
ルシアが帝国艦隊の運命を予知し、親王イリアードに懇願したが、艦隊出動となると馬車一台動かすのと訳が違う。幸いルシアの母親セシリアは『水明将軍』の称号と軍権を保持している為、セシリアが艦隊を率いるのは帝国の法律上問題なかった。皇帝アラリックはこの凄惨な報告を受け、静かにこう語ったという。
「私は艦隊を、他国と戦い屈服させる為に送ったのだ、海賊に負けて、風と波にやられる為ではない」
船首に立ち、沈みゆく夕日を背に受ける彼らの前には、かつて国民を畏怖させた無敵帝国艦隊の面影はどこにもない。あるのはただ、傷ついた巨木のような船体と、魂を失った生存者たちの影だけだった。
海は静かにうねっている。夏でありながら、どことなく冷たく感じる風が、彼らの頬を撫で続けていた。




