『転生姫の南洋外交』
帝国歴310年6月。
茫々たる南洋の果て、湿り気を帯びた熱風が海面を滑り、巨大な帆を大きく孕ませていた。
アルストラーナ帝国が誇る南洋侵攻船団。その数、およそ二百隻。兵員二万七千。船倉には溢れんばかりの糧食と、異国との交易を想定した高級な絹織物、磁器、極上の茶が山と積まれていた。
航海が始まってから、すでに丸三分月。 古びた伝承と、あてにもならない古海図だけを頼りに未知の海を進み続けた船団の目前に、ついに「それ」は現れた。水平線の彼方、濃い靄を切り裂くように聳え立つ巨岩の連なりと、見渡す限りの鬱蒼とした緑。古の文献に記された陸の孤島、巨大王国『ディヌイヤ』と思われる未知の大陸であった。
旗艦の艦橋。 四十二歳になる船団提督、カシアン・ヴァロアは、真鍮製の望遠鏡を固く握りしめ、青ざめた顔で遠くの陸地を凝視していた。
カシアンは宦官である。皇帝への絶対の忠誠と、冷徹な事務処理能力を買われてこの大遠征の総指揮を任されたが、その胸中は焦燥と恐怖で押し潰されそうであった。
(……陸地はあった。だが、どうする? ディヌイヤの民は肌が黒く、我が帝国の理が一切通じぬ野蛮な民と聞く。言葉も通じず、いきなり刃を向けられれば終わりだ。かといって、このまま手ぶらで帰れば皇帝陛下の御前に立てぬ……!)
二万七千の兵士たちの疲労は極限に達していた。三ヶ月におよぶ洋上生活で船酔いと病が広がりかけ、積み煮付けた糧食の鮮度も限界を迎えている。行けば命の保障はなく、引き返せば敗北者。カシアンは判断を躊躇い、冷や汗を流していた。
その時だった。
「——だーめですわ! 船の上でぐずぐず悩んでいても、何も始まりませんことよ!」
「ぬおっ!?」
甲板に似つかわしくない、甲高くて可憐な声。 カシアンが跳び上がって振り返ると、艦橋の真ん中に、一人の可憐な少女がちょこんと立っていた。
透き通るような銀髪を海風にはためかせ、豪華なドレスの裾を手で払う四歳の少女——ルシアだ。 セレスティア親王領のアクアパレスから、何千キロもの海を越えて一瞬でテレポートしてきたこの小さな姫君は、小さな腰に手を当ててカシアンを睨みつけていた。
「ル、ルシア様……!? なぜこのような洋に……!?」
カシアンの驚愕をよそに、ルシアはぷんぷんと頬を膨らませ、カシアンの胸元を小さな指でビシッと指さした。
「言葉が通じない? 国交が結べない? 親睦が深められない? ……もう、つべこべ言ってないで、行ってみないとわからないでしょう! あなたは四十二歳にもなって、そんな度胸もありませんの!?」
「な……!?」
四十二歳の宦官であり、二万七千の兵を率いる提督が、四歳児に完膚なきまでに説教された瞬間であった。カシアンは開いた口が塞がらず、顔を赤くしたり白くしたりして絶句するしかない。
その時、ルシアの背後の空間が再びぐにゃりと歪んだ。
「まあ、ルシア様! 勝手にこんな遠くまでおいでになっては困りますわ!」
眩い光の粒子とともに姿を現したのは、セシリアの侍女、エミーナだった。 しかし、普段の温和な侍女服ではない。セレスティア親王軍の凛々しい軍服に身を包み、腰には飾剣を佩いている。
「えっ!? エミーナ、どうしてここにいますの!?」
ルシアが目を丸くして驚いた。ルシアのテレポートは一族の秘密であり、それをついてこられる者などいないはずだったのだ。
実は、リヴィエール一族の血を引く者の中で、異能の強さはルシア、そしてセシリアに次いで三番目に強いのが、他ならぬこのエミーナであった。普段はセシリアとルシアに尽くす慎ましい侍女として力を完全に隠しているが、ルシアの不在を察知した彼女は、軍服を纏ってルシアの空間跳躍の軌跡を追って跳んできたのだ。
「ルシア様のお世話係として、お供するのは当然ですわ。……さあ、カシアン提督。ルシア様のおっしゃる通りです。上陸の準備を」
軍服姿のエミーナが放つ静かな圧迫感に、カシアンはゴクリと唾を飲み込んだ。
「……は、はいっ! 総員、上陸準備! ディヌイヤへ向かう!」
◇
数時間後。 ディヌイヤ大陸の白い砂浜に、カシアン率いる精鋭の護衛部隊と、ルシア、エミーナが下陸した。
周囲の鬱蒼とした密林から、ガサガサと不穏な音が響く。 次の瞬間、槍や弓を手にした数十人の男たちが飛び出してきた。噂通り、陽光に映える美しい褐色の肌を持ったディヌイヤの戦士たちだ。彼らは異国の船団と甲冑を着た兵士たちを強い警戒の目で睨みつけ、異国の言語で激しく威嚇の声を上げた。
「ガハラ! ナク・タ・バリ・キァ!」
「ひぃっ! やはり言葉が通じぬ! 襲われてしまう!」
カシアンが悲鳴を上げて身を縮こまらせ、帝国兵たちが身構えた。
だが、ルシアは恐怖するどころか、つんと澄ました顔で一歩前へ踏み出した。そして、可憐なドレスの裾を少しだけ持ち上げると、優雅にお辞儀をしてみせた。
「ごきげんよう、ディヌイヤの皆様! ルシアはオーレリア帝国から参りました、世界で一番可愛くて偉い姫君、ルシアですわ!」
ルシアが口を開くと同時に、彼女の身から黄金色の温かな光の粒子がふわリと舞い上がった。 ルシアの異能——それは単なる空間移動や物質生成にとどまらない。その場の理そのものを書き換える絶対の力だ。
ルシアの声が空気を伝わると、ディヌイヤの戦士たちの耳には、なぜかそれが「自分たちの母国語で、この上なく高貴で心地よい響き」となって届いていた。
「……!? (な、なんだこの少女は……神の使者か? 言葉が……直接心に響いてくる!?)」
戦士たちのリーダーらしき大柄な男が、驚愕して槍を下げた。
「ふふん! 驚きましたかしら? ルシアが通訳をしてあげますから、安心して交流しなさいな!」
ルシアは振り返り、カシアンの背中をポンと叩いた。
「さあカシアン! 用意してきた絹織物やきれいな磁器、美味しいお茶をお見せしなさい! お友達になりに来たのだと、ちゃんとお伝えするのですの!」
「あ……あぁ……! 荷を! 交易品を持ち込め!」
カシアンが慌てて指示を出すと、帝国兵たちが上質な絹や色鮮やかな磁器の器を砂浜に並べた。ディヌイヤの戦士たちは、見たこともない滑らかな布地や美しく光る磁器に目を奪われ、歓声を上げた。
ルシアが両手を広げて言葉を紡ぐたび、ルシアの異能の光が場を包み込み、帝国兵とディヌイヤ人の間にあった言葉の壁も、異物への恐怖も、すーっと潮が引くように消え去っていく。
ディヌイヤのリーダーが、恭しくルシアの前にひざまずき、自分の首にかかっていた美しい貝殻の首飾りを差し出した。
「(おお、可憐なる光の姫よ。歓迎しよう、遠き国からの客人たちを)」
ルシアは「ふふん!」と胸を張り、首飾りを受け取ると、カシアンに向かって自満げに笑ってみせた。
「見なさいな! 国交も親睦も、バッチリですわ! ルシアに不可能はありませんの!」
「は……ははぁっ! ルシア様、誠に、誠に恐れ入りました……!」
カシアンは砂浜にひざまずき、四歳の少女に向かって深々と頭を下げた。 2万7000の兵士の命を救い、不可能と思われた伝説の王国との未知の国交を開いたのは、42歳の提督の武力でも外交術でもなく、たった一人の四歳児の我儘と、圧倒的な異能であった。
軍服姿のエミーナは、その光景を誇らしげに、そしてやわらかな笑みを浮かべて見守っていた。
「……ルシア様、素晴らしい通訳でしたわ。ですが、そろそろお昼寝の時間ですので、お屋敷へ戻りましょうね」
「えー? もう少しディヌイヤを探検したいですわ!」
可愛い4歳児は駄々をこねるのであった。




