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『転生姫と父の威厳』

帝国歴310年5月。

親王領の首都アクアパレス。初夏の陽光が新緑の葉を濡らし、都の街並みを黄金色に染め上げていた。

重厚な石造りの親王府、その最奥に位置する親王執務室。

「……ふむ」

親王イリアードは、深紅の飾緒をつけた黒の軍服姿のまま、執務机に積み上げられた羊皮紙の束に向き合っていた。

領内の治世、軍政、そして帝都との政治交渉。数万の軍勢を率い、帝国の重鎮としてその名を馳せる男の威厳が、静寂に包まれた部屋を満たしている。鋭い眼光が書状の文字を追うたび、部屋の空気までもが緊張感に張り詰めるようであった。

——その時だった。

カサ……と、空気が微かに微動した。

気配の遮断すら追いつかないほどの、極上の空間歪曲。 執務机の背後、数歩離れた重厚な絨毯の上に、突如として異質な空間のゆらぎが生じた。

イリアードの研ぎ澄まされた戦士としての感覚が、即座にその変化を捉える。 一瞬で大剣の柄に手を伸ばし、刺客の首を跳ね飛ばすことができるほどの反応速度。——しかし、イリアードの手は動かなかった。

(……来たな)

イリアードは心の中で苦笑した。

現れた気配の主は、刺客などではない。 可憐で、甘やかで、そして世界で一番愛おしい、我が娘の気配だった。

ルシア。 側室セシリアとの間に生まれた、今年で四歳になる愛娘。 数々の天変地異を引き起こし、一日でガラスと大理石の宮殿を作り上げてしまうほどの恐るべき「異能」の持ち主。我儘で、高慢で、天真爛漫。だが同時に、大人顔負けの極めて高い知能を持つ、天使のように可憐な美少女だ。

空間移動テレポートを使って執務室へ忍び込んできたルシアは、音を立てないよう、つんと澄ました顔でイリアードの背後に立っていた。

イリアードは背を向けたまま、羽ペンを羊皮紙の上で走らせ続ける。 (気づかないふりを……してやるか)

そう、これは二人の間でいつからか始まった「無言の遊び」であった。

ルシアは、父親が自分の存在に驚く姿を見るのが大好きだ。そして同時に、気難しい親王としての父親が、自分に気づいた瞬間に目元を綻ばせる変化を楽しんでいる。 だからこそ、ルシアは父親が振り返るまで、じっと背後で待つのだ。小さな腰に手を当てて、ふんっと鼻を鳴らしそうになるのを必死に堪えながら。

(……四歳とは思えぬ完璧な気配の消し方だな。だが、ドレスの裾が擦れる微かな音が聞こえているぞ、ルシア)

イリアードは羊皮紙に文字を書き連ねながら、背後の娘の様子を脳内で思い描いていた。

今頃、セシリア譲りの透き通るような銀髪を揺らし、宝石のように澄んだ大きな瞳を輝かせているのだろう。自分が振り向くのを、「まだかしら? まだ気づきませんの?」と、ぷくっと頬を膨らませて待っているに違いない。

親王として数多の戦場を潜り抜け、帝国の冷酷な政争を生き抜いてきたイリアードだが、この小さな愛娘の前では完全に毒気を抜かれてしまう。 「子煩悩」と側近たちに裏で囁かれようが、どれほど呆れられようが構わない。ルシアはイリアードにとって、命に代えても守るべき目の中に入れても痛くない宝物なのだ。

一分。二分。 静寂が流れる。

背後のルシアは、じっと耐えていた。 四歳児といえば、一分と静かにしていられないのが普通だ。しかし、高い知能を持つルシアは、「父親の仕事を邪魔してはいけない」という理性を働かせつつ、同時に「驚かせたい」という情熱を燃やし、じっと健気に待っているのだった。

(……そろそろ限界か?)

イリアードはそっと羽ペンを置いた。 ルシアの小さな鼻息が「すー、ふー」と聞こえ始めていた。しびれを切らし始めている証拠だ。

これ以上焦らしては、あの強大な異能で執務室の天井をガラスに変えられてしまうかもしれない。

イリアードはわざとらしく「ふぅ」と重い溜息をつき、疲れをほぐすように背もたれに体を預けると、ゆっくりと振り返った。

「ん……? 誰だ——」

「——とぉしゃまっ!!」

イリアードが振り返り切るより早く、ルシアが待ってましたとばかりに飛びかかってきた。

「ルシア!?」

「ふふん! 驚きましたかしら!? ルシアは最初からずーっとお部屋にいましたのよ!」

イリアードは咄嗟に腕を広げ、飛んできた小さな温もりをしっかりと受け止めた。 ルシアはイリアードの膝の上にすっぽりと収まると、首に小さな両手を回し、誇らしげに胸を張った。

「まあ、驚いた。まさかルシアがここにいるとは夢にも思わなかったぞ。いつからそこにいたのだ?」

「秘密ですわ! おとう様が大事なお仕事をしている間、ルシアはずーっとお利口さんに待っていたのですから!」

イリアードの演技にまんまと騙され、心底満足そうに高笑いを上げるルシア。 イリアードはその愛くるしい笑顔を見つめながら、大きな手でルシアの銀髪を優しく撫で上げた。

「そうか、お利口さんだったな。……だがルシア、母様セシリアには黙ってここに来たのではないだろうな?」

「……むぅ」

イリアードの問いに、ルシアは一瞬だけ分かりやすく目線を泳がせた。

「お、おかあ様は、お昼寝の準備をしていらっしゃいましたの! だから、ルシアがおとう様に会いに来てあげたのですわ! 感謝しなさいな!」

「ははっ、それは感謝しなければな」

嘘をつく時の可愛らしい癖までセシリアにそっくりだ。イリアードは思わず吹き出し、ルシアの小さなおでこにそっと自分の唇を寄せた。

「だーめです! お仕事の邪魔をしに来たのではありませんわ!」

ルシアは照れくさそうに頬を赤らめると、イリアードの膝の上で姿勢を正し、つんとすました顔で執務机の上の書類を見つめた。

「おとう様、大変なお仕事ですの? ルシアがお手伝いしてあげましょうか?」

知能の高いルシアは、書類に書かれた複雑な帝国の文字を、四歳にしてすでにかなりの精度で解読できる。

「いや、これは領内の税収と補修予算の書類だ。ルシアが心配することではないよ」

「ふうん……サンブリアの港の税金でしょうか? ルシア、知っていますわ! お金はちゃんと回さないとダメなのですのよ!」

先日、教祖ゲンドラスやスライロに言い含めたような大人の経済理論が、ルシアの口からごく自然に飛び出す。 イリアードは一瞬目を丸くしたが、すぐに目元を和ませた。

「……本当にお前は、恐ろしいほど賢い子だな。将来が楽しみでもあり、少し恐ろしくもある」

「ふふん! 当然ですわ! ルシアは世界で一番賢くて可愛い姫君なのですから!」

自慢げに胸を張る娘の姿。 イリアードは、普段の厳格な「アウルヴェリア親王」の仮面を完全に脱ぎ捨て、ただの一人の父親としてルシアを強く抱きしめた。

帝国の政争、他国との駆け引き、親王領を背負う重圧。 日々の執務で擦り減る心が、ルシアの柔らかい温もりと甘い花の香りに包まれるだけで、嘘のように癒されていく。

「ルシア」

「なぁに、おとう様?」

「お前が私の子として生まれてきてくれて、本当に良かった」

唐突な父親の深い愛情の言葉に、ルシアはきょとんと大きな目を瞬かせた。 だが、イリアードの瞳に宿る温かな光を感じ取ると、ルシアは少し恥ずかしそうに、けれど心底嬉しそうにイリアードの胸に顔を埋めた。

「……ルシアも、おとう様がルシアのおとう様で良かったですわ」

小さな声で囁かれたその一言に、イリアードの胸は激しく打たれた。どんな戦勝の報せよりも、どんな政治的勝利よりも、この四歳児の小さな一言がイリアードに最高の喜びをもたらす。

「……よし、今日の仕事はこれでおしまいだ」

イリアードは未処理の書類の山をバサリと脇へ押しやった。

「えっ? お仕事、まだ残っていますわよ?」

「構わん。我が姫君がこうして訪ねてきてくれたのだ。お菓子でも食べながら、ルシア宮へ戻るとしよう。セシリアも待っている」

「まあ! おとう様ったら、ルシアに甘いですわね!」

口では高慢なことを言いながらも、ルシアは嬉しくてたまらない様子でイリアードの首にギュッと抱きついた。

イリアードはルシアを軽々と抱き上げると、重厚な執務室の扉を開けた。 控えていた側近たちが、未処理の書類を置いて娘を抱っこして出てきた親王の姿に「し、殿下……!? 執務は……!?」と青ざめたが、イリアードは鋭い一瞥でそれを黙らせた。

「明日に回す。今はルシアとの時間だ」

「は、はいっ……!」

抱っこされたルシアは、慌てる側近たちに向かって、イリアードの肩越しに「ふふん!」と可愛らしくあっかんべーをしてみせた。

初夏の爽やかな光が、親王府の廊下を明るく照らしている。 親王イリアードと、その腕の中で天真爛漫に笑う小さな姫ルシア。

密室で交わされた父と娘の心温まる時間は、ふたりを待つセシリアの待つ『ルシア宮』へと、穏やかに続いていくのだった。

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