『転生姫の侍女』
帝国歴310年。
初夏の爽やかな風が、親王領の首都アクアパレスを駆け抜けていた。
透き通るような青空の下、眩い光を乱反射させる『ルシア宮』。 幼い姫君ルシアが自らの強大な異能によって生み出した、ガラスと白大理石でできたこの小さな宮殿のテラスでは、本日も賑やかで温かな時間が流れている。
テラスのテーブルを囲んでいるのは、今年二十六歳になったセシリアと、その膝の上でご機嫌そうに小さな足をバタつかせている四歳の愛娘ルシアだ。
ルシアはセシリア譲りの可憐な金髪と、宝石のように澄んだ大きな瞳を持つ絶世の美少女。今年で四歳になった彼女は、我儘で、高慢で、天真爛漫。その天使のような可憐さで、関わる者すべてを翻弄して止まない小さな女王様であった。
「ねえ、おかあ様。ルシアは最近、とっても重要なことに気づいてしまいましたの!」
ルシアがセシリアの膝の上でぴょんと跳ね、誇らしげに小さな胸を張った。
「なあに、ルシア? どんな重要なことかしら」
セシリアがやさしく微笑みかけ、我が子の頬をそっと撫でる。
「最近ね、ルシアがエミーナと一緒に街やお庭をお散歩していると、すれ違う若い男の人たちがみんな、エミーナに熱〜い視線を送っているのですわ!」
「まあ……!」
セシリアが驚いたように目を丸くし、傍らに控えていた二十三歳になる侍女のエミーナへ視線を向けた。
「ひゃあっ!?」
お茶を注ごうとしていたエミーナは、突然名前を挙げられて素狂おしい声を上げ、陶器のティーポットを揺らした。真っ白な肌が一瞬にして熟した林檎のように赤く染まる。
「ル、ルシア様! 何をおっしゃいますのですか……! 私など、ただの侍女でございますのに……っ!」
両手で真っ赤になった頬を押さえてうろたえるエミーナの姿に、ルシアはふんっと鼻を鳴らした。
「事実ですもの! でも安心しなさいな、エミーナ。いくら男の人たちがエミーナを見つめていても、ベルトトよりはルシアの方がずっとずっと人気がありますからね!」
ルシアは腰に手を当て、自信満々に言い放った。四歳児のあまりにも堂々とした勝利宣言に、セシリアは思わず「ふふっ」と声を上げて笑い、エミーナも照れくさそうに苦笑いを浮かべた。
だが、その輪の中で一人、複雑な表情を浮かべている者がいた。十九歳になった侍女のベルトトだ。
「……むぅ」
ベルトトは唇を尖らせ、不満そうにそっぽを向いていた。見習いから一人前の侍女へと成長し、年頃の乙女となった彼女にとって、「自分よりルシア様の方が人気がある」という当然すぎる事実を突きつけられたことと、エミーナばかりが男性の注目を集めているという報告は、ほんの少し不貞腐れたくなる出来事だったのだ。
「ベルトト、どうかしたの?」
「な、なんでもありませんっ! ルシア様の方が人気があるなんて、当たり前じゃありませんかー!」
ベルトトの可憐なやきもちに、テラスには一層楽しそうな笑い声が広がった。
和やかな空気の中、セシリアはふと表情を和らげ、お腹に手を当てた。
「でも、本当に時間が経つのは早いわね……。常緑宮のリゼリア様の二度目のご出産も、もうすぐ夏には控えられているでしょう?」
セレスティア親王イリアードの正妃リゼリアは、現在二子目を懐妊中で、いよいよ出産の時期が近づいていた。
だが——ここにいる誰も気づいていない『秘密』が一つだけあった。
実は、正妃リゼリアが次の子を出産して子育てに追われるようになっても、側室であるセシリアがそれにならって「次の子」を産むような流れにならないよう、裏で密かに策を弄している者がいたのだ。
他でもない、四歳のルシアである。
(おかあ様は、ルシアだけのおかあ様ですもの! 新しい赤ちゃんが生まれたら、おかあ様を独り占めできなくなってしまいますわ!)
ルシアはセシリアの胸に顔を埋めながら、心の中で密かにニヤリと笑った。
ルシアは持ち前の規格外の異能と、圧倒的な要領の良さを駆使し、自分の毎日の世話や我儘の対応でセシリアの手が完全に塞がるよう、絶妙に『コントロール』していたのだ。突拍子もない異能の悪戯を仕掛けたり、甘えて甘えて離れなかったりすることで、セシリアが他のことを考える余裕がないほど子育てに夢中にさせているのである。
もちろん、純粋で優しいセシリア自身は、娘のそんな恐ろしい(そして愛おしい)計算にまったく気づいていない。
「そういえば……」
セシリアはふと何かを思い出したように、エミーナを愛おしそうに見つめた。
「姉様の侍女だったベルナデットは二十歳で結婚して、幸せな家庭を築くために旅立っていったわ。……それなのにエミーナ、私はあなたを二十三歳になる今日まで自分の側に留めてしまって、なんだか申し訳ないわね」
セシリアの言葉に、エミーナはハッとして首を振ろうとした。
「セシリア様、そんな……! 私はセシリア様とお側にお仕えできるだけで——」
「もし良いお話があるなら、遠慮なく言って頂戴ね? エミーナの幸せを、私は一番に祈っているのだから」
セシリアの心からの温かな言葉。
だが、その瞬間——テラスの温度が急降下した。
「——絶対にダメですわっ!!!」
ルシアがセシリアの膝から弾かれたように立ち上がり、可憐な叫び声を響かせた。
そのあまりの勢いに、ガラスのテーブルがカタカタと震え、周囲の空気に微かな光の静電気が走る。
「ル、ルシア……?」
セシリアが驚いて目を丸くすると、ルシアは両手を大きく広げ、まるでエミーナをセシリアから庇うように立ちふさがった。その大きな瞳には、激しい抗議の炎がメラメラと燃え盛っている。
「エミーナが結婚してどこかへ行くなんて、絶対に、何があっても、天地がひっくり返っても認めませんわ!」
「ルシア様!?」
「エミーナはルシアのお手伝いさんで、ルシアのお姉さんなのですから! ルシアのおかあ様の代わりをしてくれる、世界で一番大切なお方なのですの! ルシアが絶対にお嫁に行かせたりしませんわ!」
ルシアはぷんぷんと頬を限界まで膨らませ、可憐な足で大理石の床を「とん!」と踏み鳴らした。
高慢で我儘な彼女が、これほどまでに必死になって誰かを「渡さない」と主張するなど、滅多にないことだった。幼いルシアにとって、母セシリアが絶対の存在であるならば、生まれた時から自分を優しく抱きかかえ、セシリアと共に愛情を注ぎ続けてくれたエミーナは、もう一人の母親であり、かけがえのない姉なのだ。
「誰かがエミーナを連れて行こうとしたら、ルシアの異能でその人をお花に変えてしまいますからね! 覚えていらっしゃい!」
本気とも冗談ともつかない、四歳児の恐ろしくも愛くるしい猛抗議。
その姿を見つめていたエミーナは、あまりの衝撃に言葉を失っていた。
(ルシア様……そこまで、私のことを……)
若い男性からの熱い視線など、エミーナにとっては心底どうでもいいことだった。彼女にとっての最高の誇りと幸せは、セシリアと、この愛おしくて我儘なルシアの成長を一番近くで見守ることだったのだから。
「ふふ……本当に、困ったお嬢様ね」
セシリアが困ったように苦笑しながら、ルシアを後ろから優しく抱きしめた。
「エミーナ、ごめんなさいね。ルシアがこんなに我儘を言って……。でも、この子の言う通り、あなたがいなくなったら私たちは本当に淋しくて生きていけないわ」
「セシリア様……」
エミーナは込み上げてくる熱い感情を抑えきれず、思わず口元を手で押さえた。
ルシアはセシリアの腕の中で、まだ「ふんっ!」とそっぽを向きながら、エミーナのドレスの裾を小さな手でギュッと握りしめていた。手放したくないという、小さな指先の確かな力。
「……ふふっ。参りましたわ、ルシア様」
エミーナは苦笑いを浮かべながら、両目からポロポロと涙を溢れさせた。
「ルシア様がそれほどまでに私を必要としてくださるなら……私、一生お嫁になんて行きません。ずっと、ずっとセシリア様とルシア様のお側におりますわ」
「本当ですわね!? 約束を破ったらおしおきですのよ!」
「はい、約束いたします」
エミーナが膝をつき、目元を濡らしながら微笑むと、ルシアはやっと安心したように「ふふん!」と満足そうに笑った。
「よし! ならばエミーナ、今すぐルシアに最高に甘いクッキーを持ってきて頂戴!」
「はいはい、ただいまお持ちいたしますね」
エミーナは涙を拭い、晴れやかな笑顔で立ち上がった。
横で見ていたベルトトが、「もう〜、エミーナ姉様ったら泣き虫なんですから!」と冷やかしながらも、どこか嬉しそうにお茶の準備を手伝い始める。
ガラスと大理石でできた『ルシア宮』。 初夏の光が透過するテラスで、四歳の小さな女王様は、今日も愛する母親と、大好きな侍女たちに囲まれ、何ものにも代えがたい幸福な時間を我が物顔で謳歌していた。
母親を独り占めするための小さな秘密の悪戯も、大切な侍女を渡さないための可愛い我儘も。 すべては、この小さな宮殿に満ちあふれる、深い愛のゆえであった。




