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『アルストラーナ伝記』  作者: リアトト
帝国歴326年
136/152

『朝靄を灼く雷鳴』


朝靄が深く垂れ込め、視界のすべてを乳白色の沈黙が覆い尽くしていた。シューコルンの港は、すでに港としての機能を自ら相殺している。自発的に沈められた数隻の船が黒い背を水面に覗かせ、張り巡らされた分厚い鎖が水面下で蠢いていた。二度とこの港を使えぬように自らを傷つけるような、退路を断った完全な撤退戦の異様な緊張感が、冷えた空気とともに漂っていた。

防波堤の先端に、シンシア、ミタマ、ツルギの三人が並んで立っている。息を殺し、耳を澄ませ、目を細めて濃霧の奥を凝視していた。波が防波堤を叩く湿った音に混じり、水面を削る鈍い音が響き始める。

靄の切れ目から、薄っすらと、しかし確実に巨大な禍々しい船影が現れた。

「来たわ!」

シンシアの短い叫びが切っ掛けとなった。 隣でミタマとツルギが同時に錫杖を構え直す。シャラン、と繊細で複雑な金属音が朝空に鋭く響き渡り、空気がピンと張り詰めた。

三人が口に咥えたのは、異様かつ重厚な銘を持つ笛――正式名称『恐るべき危機が訪れた時の為の雷丸』、通称『雷丸(らいまる)』。

最初に覚悟を決めて息を吹き込んだのは、シンシアだった。

――ピュィーィーン!!

脳天を貫くような高潔で苛烈な音色が防波堤に轟いた直後、天が割れた。 眩量な紫白の閃光が朝靄を切り裂き、目前に迫っていたブランガ艦の巨大な帆柱へ直線的に突き刺さる。ズドン!という鼓膜を揺らす轟音とともに、強風が吹き荒れ、一瞬にして艦船全体が激しい烈火に包まれた。あまりの威力と破壊力に、シンシアは思わず目を見開く。横を見やれば、ミタマもツルギもまた目を丸くし、互いに顔を見合わせていた。

「――いける!」

確信を得た二人も即座に雷丸を咥え直す。甲高く狂おしい笛の音が立て続けに港へ鳴り渡り、次々と天から雷光が降り注いだ。接近するブランガの船々が次々に巨大な松明と化していく。

三人は防波堤から散開し、濡れた石畳を走りながら雷丸を鳴らし続けた。落ちる雷熱、爆ぜる木片、立ち上る黒煙。そして、炎に追われて海へ飛び込む敵兵たちの惨叫と悲鳴が、こだこのように港全体の音と景色を占領していく。

「ココロギ! これ、すごいのを作ってくれたじゃない…!」

走りながらシンシアは叫んだが、その賞賛の呟きは、遠く沖合で船を守り待つココロギの元までは届かない。

業を煮やしたブランガ勢が、ついに異様な手段に出た。 空間が歪み、紫色の禍々しい気を纏った『紫の憑依』の兵士たちが、陸上に直接跳躍して姿を現す。

「させるか…っ!」

シンシアは速度を緩めず、月華の錫杖『朧三日月(おぼろみかづき)』を力強く振り抜いた。 空を切り裂いて放たれた光の三日月刃が、重装甲の鎧ごと敵兵を一直線に切り刻む。直後、至近距離に三人の敵が屈み込むように転送されてきた。シンシアは足元を軸に身を翻し、『半月乱舞』を発動する。不規則に乱舞する複数の半月状の光の刃が縦横無尽に閃き、紫の兵士たちは反撃の隙すら与えられずに倒れ伏した。

遥か遠くの防波堤側では、ツルギが猛威を振るっていた。 『東雲煌竜(しののめこうりゅう)』から解き放たれる紅蓮の火柱とともに、重厚な『龍鱗盾(りゅうりんじゅん)』を地響きが立てるほどの勢いで敵の胸元へ突き立てる。質量と火炎の衝撃に吹き飛ばされた敵兵たちは、次々と冷たい海へと叩き落とされていった。

一方、水揚げ用の倉庫が立ち並ぶ暗がりでは、ミタマの独壇場と化していた。 両手にそれぞれ『空斬水鏡』と『東雲煌竜』を構え、舞踏の旋律を奏でるかのようにしなやかに、そして冷酷に旋回する。刃が描く水の軌跡と火の尾が交差し、倉庫街の影を鮮やかに彩っていた。

だが、どれほど三人が圧倒的な武を見せつけようとも、空間の歪みから溢れ出る敵兵は無尽蔵だった。霧の向こうから無限に湧き出す紫の気配に、防波堤も倉庫街も徐々に埋め尽くされようとしている。

疾走の途中で巡り合い、背中合わせに立ち止まった三人。 肩で息をしながら、シンシアがミタマとツルギに力強い視線を送る。二人は無言で頷き返した。潮時だ。

「引き揚げるわよ!」

三人は揃って翻すと、敵の追撃を振り払うように一気に地を蹴り、朝靄の深淵――頼れる仲間のココロギが待つ、自分たちの船へと跳ぶように帰っていった。


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