『恐るべき危機が訪れた時の為の雷丸(いかづちまる)』
硝煙と潮風の匂いが、混ざり合いながら重く淀む甲板。 荒れ果てた艦の木床には惨劇の痕跡が深く刻まれ、見渡す限りの海原を重苦しい静寂が支配していた。
ブランガ艦隊との激闘は、両者痛み分けという最悪の結末を迎えた。決着のその瞬間、ココロギが『旭日神劫』を解き放ち、ブランガをあと一歩のところまで追い詰めたのだ。しかし、その刹那——戦場を切り裂いて乱入した『アルカディアス』の絶対的な力の前に、千載一遇の好機は雲散霧消した。敵を仕留め損ねた代償は、あまりにも大きすぎた。
連合艦隊の被害は壊滅的であった。 とりわけ最前線で肉壁となり敵の猛攻を押し止めたアルストラーナ隊はほぼ無力化され、艦隊全体としては全戦力の実に三分の一を失うに至った。 敵が繰り出してきた異形なる異能の使い手——『紫の憑依者』たち。特別な力を持たぬ一般兵士たちの命など、彼らの異能の前には風前の灯火に過ぎなかったのだ。傷ついた兵士たちの絶え間ない呻き声と、全土を包み込む無力感。漂う空気はどこまでも深く、暗い絶望の底へと沈んでいた。
だが——その凍てついた静寂を突き破るように、一人の少女が勢いよく躍り出た。
「み、皆さん! 落ち込んでいる暇はありませんよ! このココロギが、この日のために夜通し研究を重ね、念創の力で生み出した秘策をお見せしましょう!」
四つ葉堂の巫女、ココロギである。 どんよりと垂れ込める暗雲を吹き飛ばさんばかりに、彼女は誇らしげに胸を張り、一歩前へ踏み出してみせた。ローブの袖口から、大袈裟な動作で取り出されたのは——手のひらにすっぽりと収まるほどの、一見すると何の変哲もない小さな笛だった。 しかし、それを握るココロギの瞳は、絶対の自信と得意気な光で爛々と輝いている。
「これこそが、我が最高傑作! 正式名称——『恐るべき危機が訪れた時の為の雷丸』! 通称『雷丸』です!」
あたかも伝説の聖剣を掲げるかのように、ココロギはその小さな笛を両手で高く上空へと捧げ持った。
「これを吹き鳴らせば、異能の力を持たない普通の兵士であっても、一瞬にして敵へ強烈な雷撃を放つことができるのです! これさえあれば、あの紫の憑依者どもなど、もはや恐れるに足りません!」
絶望を塗り替える勝利の鍵——言わんばかりの熱弁。 しかし、言葉の余韻が海風に消えていく中、周囲の反応はあまりにも、冷ややかだった。
長引く戦役の疲弊からか、皇女であり巫女でもあるシンシアは細く美しい溜め息をひとつ吐いた。彼女は細身の指先で顎を支え、半眼でその小さな笛を見つめると、感情の起伏を消した声で静かに呟いた。
「……なんだか。城門の門番か、水浴び場の監視員が首から下げている笛にしか見えないのだけれど」
「が、監視員!? 違います、これは聖なる念創の……!」
予想外の角度からの指摘に焦り、狼狽するココロギ。そのすぐ横から、今度は双子の妹であり、聖騎士と巫女の二つの顔を持つミタマが、首をちょこんと傾げた。その無垢で、それゆえに容赦のない瞳がまっすぐにココロギを射抜く。
「ココロギ様……。なんか、名前……長くないですか?」
「うぐっ……! い、いえ、名にはしかるべき威厳というものがですね……!」
必死に弁明の言葉を紡ごうとするココロギ。だが、そこへ追い打ちをかけるようにトドメを刺したのは、ミタマの双子の兄であり、共に聖騎士として戦場を駆けるツルギだった。彼は両肩をすくめ、呆れたような苦笑いを浮かべながら言った。
「最初から『雷丸』でよくないですか?」
「〜〜〜〜っ!?」
言葉を失うココロギの頭上——遙か高空を旋回していた白鷹のフェリスまでもが、絶妙なタイミングで『ピィーー!』と甲高い鳴き声を響かせた。 それはまるで、『そんな笛なんかより、俺の鳴き声の方がよっぽど美声だぜ!』と誇らしげに主張しているかのようであった。
あまりにも完璧な連撃。 静まり返る甲板の上で、自信満々だったココロギの表情が、みるみるうちに凍りついていく。 ピンと立っていた背筋が分かりやすくしおれ、爛々と輝いていた瞳からは一瞬で光が消え去った。
「うぅ……っ。せ、せっかく皆さんのために、寝る間も惜しんで作ったのに……っ。雷丸、すっごく強いのに……かっこいい名前なのに……」
先ほどまでの勢いはどこへやら。ココロギは両手で大事そうに笛を抱え込むと、その場にズーンと重いオーラを背負ってへたり込んでしまった。地面に視線を落とし、小刻みに肩を震わせるその姿は、まるで雨の中で拾ってもらえなかった捨て犬のようである。
さっきまでの殺伐とした戦場の空気はどこへ行ったのやら。あまりの落ち込みぶりに、シンシアたちは顔を見合わせ、困ったような、けれどどこか温かい呆れを含んだ笑みを浮かべるのだった。
シンシアは溢れそうになる笑みを小さく咳払いで誤魔化すと、視線をミタマへと向けた。
「エミーナ様はこの後、どうするっておっしゃっているの?」
ミタマは即座に表情を引き締め、受け取っていた伝令を正確に口にした。
「シューコルン上陸阻止。でもこちらの損害は最小限にしましょう、と」
その報告を聞き、シンシアは腕組みをしながら、海を見つめて静かに耳を澄ませた。思考を巡らせる沈黙のなか、先に声を上げたのはツルギだった。
「我々だけ先回りして上陸して、迎え撃ってはどうでしょう?」
血気盛んな若き聖騎士らしい、果敢な提案。その言葉に、シンシアの瞳へ確かな光が宿る。
「そうね。ココロギは船に待機して、船を守りつつ遠距離から支援して。私とミタマ、ツルギはシューコルンに飛んで、最大限の邪魔をしましょう」
「御意!」
ツルギとミタマが力強く頷く。作戦の方針が決まると、シンシアはへたり込んだままの小さな背中へと振り返り、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「ココロギ。笛、3人分あるかしら? せっかくだから使わないとね!」
その一言に、地面を見つめていた身体が跳ね上がる。 硝煙の匂い残る甲板に、わずかだが、確かにあたたかな絆のぬくもりが戻っていた。




