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『アルストラーナ伝記』  作者: リアトト
帝国歴326年
128/152

『残響の戦車と覇王の首』

アルストラーナ帝国歴326年、1月。

アルストラーナから遠く離れた南海。広大な陸の孤島、ディヌイヤの地には、肌にまとわりつく重苦しい湿潤な熱気が満ちていた。空を押し潰さんばかりの暗雲が低く垂れ込め、やがて天の底が抜けたかのような激しい雨が、狂おしくヒレスパス川の水面を叩きつけ始める。

濁流と化して荒れ狂う大川の対岸には、ディヌイヤの覇王ボーロス率いる大軍が重厚な陣を敷いていた。その陣列の最前線に整然と立ち並ぶのは、存在感を放つ無数の重戦車部隊である。巨大な車輪、地響きを立てていななく馬群、そして全軍が一斉に鳴らす地鳴りのごとき打刻音――ノースフォレスト遠征軍の兵士たちにとって、それは未だかつて経験したことのない相手であった。

「我が軍の馬らはあの異様な打刻音と戦車の威容に怯え、水に飛び込むことすらできぬか。……ふっ、ならば奴らの目を盗むまでのこと」

軍の先頭に立つ男――ノースフォレストを率いる魔王ブランガ・オデュヌは、濡れた鉄甲冑の袖口を静かに見つめた。昨年、聖ゲンドラス教国の『神託の聖母』エミーナに粉砕された両腕は、異能の魔導士によって繋ぎ合わされた。その新たな皮肉が紡ぐ微かな違和感を感じながら、彼は不敵な笑みを深めた。

雨音と激しい雷鳴が天を割り、世界のすべてを覆い隠す夜陰の中、ブランガは自ら精鋭部隊を率いて川の上流へと向かった。濡れた泥に足を盗まれ、冷酷な奔流に身を削られながらの決死の渡河。ついに泥深き対岸へとその足を踏み入れた瞬間、この「魔王」の瞳に、爛爛とした紅蓮の炎が点った。


◇

夜が明けるとともに、ディヌイヤの湿った大地に凄まじい地響きが轟いた。

「突き進め! 狙うは戦車を引く馬の脚だ!」

朝光を浴びて鈍く青黒い光を放つ甲冑を纏い、ブランガの咆哮が戦場を切り裂く。長槍サリッサを密密と掲げた重装歩兵の密集陣形が、泥を蹴ってじりじりと距離を詰めていく。

しかし、ボーロス王の誇る重戦車部隊がひとたび車輪を回転させれば、大地は震動し、凄絶な惨劇が巻き起こった。突進する鉄の車軸、そして車輪の中央から突き出された鋭利な大刃が、ノースフォレストの兵士たちを文字通り踏み潰し、肉片へと切り刻んでいく。絶叫と血しぶきが嵐のように舞い散った。

混戦を極める最中、ブランガは一頭の黒馬を駆り、激しい戦火をすり抜けて敵の側面に回り込んだ。機動力を活かした一閃の急襲。長年の死線で培われた絶妙な連携のもと、ノースフォレストの騎兵隊は戦車の上で手綱を握る御者たちを弓と投槍で正確に射ち落としていく。

主を失い、死の恐怖に狂乱した馬たちは、自分たちの陣列へと暴走を始めた。 重重しい車輪を引きずりながら悲鳴を上げて逆走する馬群は、パニックに陥ったディヌイヤの歩兵たちを自ら踏みにじり、薙ぎ払っていく。その瞬間、勝利の秤は残酷なまでに大きく傾いた。

激戦の渦中、なおも人際際立った巨大な戦車の上で、最後まで孤高の闘志を燃やす男がいた。 ディヌイヤの王、ボーロスである。全身に無数の矢と槍傷を受け、朱に染まりながらも、彼は戦車の頂から弓を引き続け、降伏の気配すら見せなかった。だが、溢れ出る血とともに力尽き、ついにその巨躯は満身創痍となって泥の上に倒れ伏した。

嵐が去り、不気味なほどの静寂が戦場を包み込んでいく。

ブランガは静かに馬を降り、血と泥に塗れた敵将の元へと歩み寄った。若き征服者の瞳には、冷酷な勝利の悦びではなく、眼前の敗将に対する深い敬意が宿っていた。

「……見事な戦いぶりであった、ボーロス王よ」

ブランガは静かな、しかし凛として通る声で語りかけた。

「余は勝利者としてお前に問う。そなたは余に、どのように扱われることを望むか?」

大きく胸を上下させ、荒い血の息を吐き出しながらも、ボーロスはゆっくりと首を上げ、力強い眼差しでブランガを見返した。死の淵にありながら、その瞳に屈服や乞識の色は微塵も存在しない。

「……王として。ただ、王として扱われたい」

重厚で、一切の媚びを含まぬ至高の一言。 その言葉を聞いた瞬間、ブランガの薄い唇が微かに押し上がり、満足げな笑みを刻んだ。

「見事だ」

ブランガは惜しみない賛辞を呟くと、一切の躊躇もなく腰の魔剣を抜き放ち――自らの手で、ボーロスの首を滑らかに切り落とした。

王としての尊厳を称え、王として死を与える。 転がる王の首を見下ろしながら、ブランガは血に染まった剣を振り払い、遠く濡れた空を見上げた。南国の風が、静かに吹き抜けていった。

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