『転生姫と生まれ変わりの鈴音』
冬の柔らかな日差しが、水明宮の白亜の石床に細長いたそがれ色の光帯を描き出していた。
アルストラーナ帝国の帝都ラーナを包む十二月の風は、どこまでも澄み渡り、白亜宮の広大な庭園に佇む冬バラの蕾を小さく揺らしている。水明宮はその名の通り、清らかな池のほとりに佇む館だ。しかし、この数年の間、その静寂にはどこか透明な哀愁が深く漂っていた。
貴妃セシリアは揺り椅子に深く腰をかけ、庭園の池に反射する水光を静かに見つめていた。膝の上に置かれた小さな刺しゅう布。そこには、かつて愛娘のために刺しかけて、ついに完成させることができなかった桃色の蓮花が残されている。
三年前。十八歳という若さで天へと召された娘、ルシア。
皇帝イリアードの寵愛も、皇宮の栄華も、母の腕から幼い命を奪い去る運命の冷たさを押し止めることはできなかった。あの日以来、セシリアの時間は氷のように凍りついたままだ。
――その静寂を打ち破るように、廊下から軽やかな足音が近づいてくる。
ペタペタと、無邪気に石畳を叩く幼い靴の音。
「……セシリアさま!」
鈴を転がすような愛らしい声とともに、扉の隙間からひょっこりと顔を出したのは、一歳十一ヶ月になる皇孫女シェルランテだった。
四つ葉堂で朝食を終えた彼女は、侍女の手を少しだけ振り払うようにして、毎朝こうして水明宮へとやってくる。皇太子リアムと妃シルヴィアの間に生まれた幼き姫君。皇帝イリアードと皇后リゼリアの初孫として、宮中中の祝福を一身に集める幼子だ。
「シェルランテ様。今日も来てくださったのですね」
セシリアの唇に、自然と温かな笑みが浮かぶ。揺り椅子から立ち上がり、そっと両腕を広げると、幼い姫君は小さな体いっぱいに喜びを表現しながらセシリアの胸へと飛び込んできた。
ギューッと幼い腕がセシリアの首に回される。その柔らかく甘いミルクのような香りに包まれるたび、セシリアの胸の奥にしみついていた冷たい痛みが、ひとつ、またひとつと溶けていくようだった。
「はい、セシリアさま。きょうも、いっしょ」
舌足らずな言葉。けれど、その澄み渡った瞳がセシリアを見つめ返すとき、胸が締め付けられるような、懐かしくも愛おしい不思議な感覚に捉われる。
シェルランテの手が、セシリアの膝の上に置かれた刺しゅう布へと伸びた。小さな指先が、桃色の蓮花をそっと撫でる。
「……きれいな、おはな」
「ええ。とても綺麗でしょう?……昔、私の大切な娘に作ってあげようとしていたものなのです」
セシリアが小さく吐息を漏らすと、シェルランテはふと手を止め、セシリアの顔をじっと見上げた。
幼子の瞳には、一歳の子供には不似合いなほどの深みと、包み込むような温もりが宿っていた。
(――お母様、泣かないで)
言葉には出ない。けれど、シェルランテの胸の中では、確かにその声が響いていた。
ルシアとして過ごした十八年の記憶。最後まで自分の手を握り締め、涙を流し続けていた母セシリアの姿。生まれ変わり、皇太子夫婦の娘シェルランテとして再びこの世に生を受けた時、ルシアの魂が真っ先に望んだのは、母の元へ行くことだった。
幼い体では、まだ複雑な言葉を伝えることはできない。自分が「ルシア」であると告げることも許されないのかもしれない。けれど、こうして毎朝四つ葉堂での務めを終えたあと、夕暮れが訪れるまで母の側で過ごすこと。その小さな手で母の指を握り返すこと。それだけが、今のシェルランテ――ルシアにできる、最大の愛だった。
「セシリアさま、だいすき」
シェルランテはセシリアの頬に、自分の小さな頬をすり寄せた。
「……まあ」
セシリアは驚いたように目を丸くしたあと、そっと涙を拭い、シェルランテを抱きしめ返した。
「私もですよ、シェルランテ様。……本当に、あなたのことが大好きです」
夕刻の足音が近づき、水明宮の大きな窓から差し込む光が、黄金色から茜色へと移ろっていく。
窓辺の揺り椅子で、すやすやと心地よい寝息を立て始めたシェルランテの頭を、セシリアは愛おしそうに撫で続けた。
失われたはずの時間は戻らない。けれど、この暖かな膝の上で眠る小さな命が、止まっていたセシリアの時間を、ゆっくりと、確かに未来へと動かし始めていた。
帝国の厳しい冬のさなか、水明宮の小さな一室だけは、春のような温もりに満たされていた。




