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『アルストラーナ伝記』  作者: リアトト
帝国歴325年
124/152

『静寂の夜と甘き策略』

夜帳が静けさとともに降り立つと、オクタヴィアの広大な宮苑は、しんと静まり返る。

かつて最盛期には、百二十人もの后妃たちが色彩豊かな綾錦を競わせ、あちこちから立ち上る香煙が夜気をくゆらせていた。しかし、第十五代皇帝イリアードの治世下にある今、その広大な後宮に身を置くのはわずか四名に過ぎない。

静寂を愛する皇后リゼリアの居宮「水鏡宮すいきょうきゅう」、そして側室セシリアの「水明宮すいめいきゅう」。夜毎、静かに灯火を落としたそれらの宮へ、皇帝は気安く足を運んでは訪れる。いい歳をした夫の無邪気な不躾さに、妻たちは秘かに頭を痛めていた。

「后妃を増やされてはいかがでしょう」

ある夜、リゼリアがそれとなく側室の増員を促したのは、ひとえに自分たちの手元に平穏な夜を取り戻したいがためであった。皇后の意図をどこか察した各宮では、いつしか「早々の消灯と就寝」がひそやかな流行となり、後宮の夜の静寂はさらに深まっていった。

そこへ、一筋の小さな光のような輪舞が加わる。一歳九ヶ月になる皇孫女シェルランテが、春の芽吹きから秋の落葉に至るまで、幼い足取りで早朝の庭苑を駆け回るのを日課としたのだ。薄桃色の頬を濡らす朝露と、無垢な愛らしさ。いつしか後宮では、朝の光とともに目覚める「朝活」こそが最も美しき美徳とされるようになっていた。

こうした后たちの真意を、鈍感な皇帝イリアードが悟るはずもなかった。しかし、彼の胸中には全く別の、冷徹な帝王としての計算が渦巻いていた。

五月、イメイルの地で喫した痛烈な敗戦。あれ以来、皇太子リアムの未来には暗雲が垂れ込めていた。いずれリアムが即位した時、その揺らぐ盤石性をいかに補強すべきか。答えは一つ――有力な名家や親王家との婚姻を幾重にも結び、皇室の根を地に深く張り巡らせることだ。

後宮に新たな女たちが集まれば、渦巻く権力争いは免れない。だが、その華やかな醜聞の影で、リアムへ向けられた廃嫡の刃や批判の矛先は確実に逸れるはずであった。

夫は帝国の安泰を求めて。妻は静かな夜の安らぎを求めて。

思惑こそ揺れる水鏡のようにすれ違いながらも、「后妃を増やす」という結末だけは美しく一致していた。やがて秋の深まりとともに、新緑の風のごとく、新たな側室たちが次々と後宮の門をくぐり始めていく。静けさを保っていたオクタヴィアの宮苑は、再び華やぐ時代の予感に、ひっそりと吐息を漏らすのであった。

◇

柔らかな木漏れ日が差し込む皇帝の執務室。

うずたかく積まれた書類に向かい、政務に励む皇帝イリアード。その視線の先で、澄んだ姿勢のまま聖書を読み進めていたシンシアが、ふと顔を上げて目を合わせ、ふんわりと微笑んだ。

一人で寝起きする日々が続いていた皇帝は、その微笑みに、娘の母である皇后リゼリアの若かりし頃の面影を重ね合わせる。胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じ、イリアードはペンを置いた。

「何か美味しい茶菓子でも用意させようか?」

「そうですね。お願いしますわ、お父様」

シンシアは聖書を胸に抱き、少し首をかしげながら饒舌に言葉を紡ぐ。

「お父様も少しお休みしてはいかがですか? あまり詰めてお倒れでもされたら大変ですわ。帝国にとっても、私達家族にとっても、お父様はかけがえのない大切な存在なのですから。私と一緒にお茶でも飲んで、少しおしゃべりいたしましょう? きっと、日頃の煩わしさも少しは晴れますわ」

愛くるしい仕草で父の心を鮮やかに揺さぶる娘。いつからか急に別人のように人柄が変わった娘に対し、イリアードの内に戸惑いが全くないわけではない。しかし、新妻の如き瑞々しさを漂わせるシンシアに、彼は再びリゼリアの面影を重ね、穏やかに目を細めた。

「そうだな……シンシアの言う通りにしよう」

父娘が部屋の丸暗い重厚な円卓へと移動すると、間もなく控えていた女官が、湯気を立てる茶と艶やかな茶菓子を盆に載せて運んできた。

「シンシアはいつも、その本を読んでいるな」

イリアードが興味深そうに視線を落とした。シンシアの手に収まっているのは『真理の光教団』の聖書である。彼女はすでにその全容を完璧に丸暗記しているのだが、まるで愛おしい宝物に触れるように繰り返し手にしては読み続けているのだ。

まさかそれが、皇帝の娘であり、シンシアにとっては異母姉にあたるルシアがわずか四歳の時に書き上げたインチキ宗教の聖書だとは、二人とも知る由もない。『信じる者は救われる』――それもまた、この世の一つの真理であった。

「そうですわ、お父様。実は……私、神秘札が作れるようになりましたの。お父様のために、心を込めてお作りして贈りますわね」

シンシアは茶目っ気たっぷりに悪戯っぽく微笑むと、すっと瞼を閉じ、胸の前で小さな手を合わせた。静寂の中、彼女の手元に小さな光が宿る。

やがて目を開くと、出来上がった神秘札を両手に載せ、誇らしげに父帝へと差し出した。

「出来ましたわ! はい、お父様」

「ほー! 本当にこのような物が作れるのだな。どれどれ……」

イリアードが受け取り、札に書かれた絵と文字に目を走らせた瞬間、その表情が凍りついた。

そこに描かれていたのは、恐ろしい何者かに連れ去られそうになり、涙を浮かべて助けを求めている若い娘の姿。そしてその脇には、重々しい筆致で文面が刻まれていた。

『娘を決して手放す事なかれ、国に災いが起こるべし』

「何と! これは……いかん!」

イリアードは立ち上がりかけ、深く眉間にしわを寄せた。

「ラシルから、お前に求婚の使者が来ておるのだ。……お前を嫁に行かせるわけにはいかんな。今すぐ、断りの主旨を伝えることにしよう」

「求婚ですって……! わたし、初めて耳にいたしましたわ、お父様!」

シンシアは迫真の演技で弾かれたように立ち上がると、動揺を露わにして父帝の背後に回り込み、しがみつくようにその背中に力強く抱きついた。

「私、結婚なんて嫌ですわ! ずっとお父様のそばにいたいのです……!」

背中に伝わる娘の震えと熱。これはかつてルシアが使っていた古典的かつ絶対的な作戦であり、それを見ていたココロギがシンシアに伝授した完璧な手法であった。婚姻の噂などというものは、後宮の深奥に身を置いていようとも光の速さで耳に届くものなのだ。

「そうか……お前は、父の元にいたいのか」

背中に回された愛娘の手に自分の手を重ね、イリアードは力強く頷いた。

「心配するでない。お前を他所へ行かせることなど絶対にしはしない。父と一緒に居なさい」

シンシアは背中に顔を押し当てたまま、潤んだ瞳で父を見上げた。

「はい、お父様……! 絶対ですよ? ずっとお父様のそばに居させてくださいね。約束ですよ?」

「ああ、絶対だ。お前は何も心配せず、安心しなさい」

「嬉しいですわ、お父様。大好きです……!」

完璧な仕上げだった。 抱きついたまま、父の視界から外れたところで、シンシアの唇が密やかに満足げな笑みを刻む。演じきった彼女は、見事ラシルからの使者を追い返すことに成功したのであった。


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