『水鏡宮の秘抄』
すいきょうきゅうの離れには、錦秋の彩りを映す美しい庭園を背にして、透き通るような古筝の音がほのかに響いていた。
その雅な音色に、皇后リゼリアは静かに耳を澄ませる。音の主は、普段から自室に閉じこもりきりで、楽器など奏でられるはずのない娘・シンシアの部屋からであった。
衝動に駆られて様子を窺いに行きたい想いは募るものの、リゼリアはそっと胸に手を当ててその脚を止める。繊細で傷つきやすい娘に余計な刺激を与え、再びその心を閉ざさせてしまってはならない——そう自身に言い聞かせるように、じっと耐えるほかなかった。
完璧と謳われる皇后リゼリアの異能は、人々の精神に干渉し、心を読み解く力に長けている。念話、念視、そして予知。あらゆる精神干渉の術を操る彼女であったが、なぜか愛する我が子にだけは、その力が一切届かなかった。能力の恩恵を受けられぬまま、不器用な母と娘として、ごく普通の家庭にあるような葛藤とすれ違いをただ繰り返す日々。
シンシアは名門リヴィエールの血を引きながら異能を持たない「無能」であるとされていた。しかし、リゼリアはふと思う。本当はまったく逆なのではないか、と。娘の中に眠る未知の異能があまりに強大であるがゆえに、他者の干渉をことごとく退けているのではないか。
——それこそが、完璧な皇后が抱える唯一の弱点であり、幾度となく重ねてきた自問自答の果ての不穏な推論であった。
◇
母が抱く静かな煩悶など露知らず、閉ざされた部屋の中で、シンシアはシェルランテをその腕に優しく抱きかかえていた。
シェルランテが紡ぎ出す七弦の古筝は、穏やかな子守唄のように柔らかな音階を奏で、部屋を満たす空気そのものにまで深い癒やしの気配を染み渡らせていく。やがて、ひとつの曲が静寂の中に最後の一音を溶け込ませると、シンシアはシェルランテを抱いたまま、そっと部屋を後にした。
悩みを深める母のもとへと足を運ぶと、そこには佇み、物思いに耽るリゼリアの姿があった。リゼリアは、孫であるシェルランテを腕に抱いて突如現れた娘の姿に、思わず目を見張る。
「お父様のところに行ってまいります。シェルランテが行きたがっているのです」
「そう……分かったわ。ですが、あまりお仕事の邪魔をしてはいけませんよ」
「はい、お母様。それでは、行ってまいります」
静かに告げ、去っていく娘の後ろ姿を見送りながら、リゼリアは動揺を隠せずにいた。あのシンシアが、自分から父であるイリアードに会いに行くなど、今まで一度として耳にしたことがなかったからだ。
そして何より、先ほど娘が口にした言葉。
——シェルランテが行きたがっている。
念話の術など使えず、他者の心に通じるはずもない娘が、なぜその意思を知り得たのか。届かないはずの心が触れ合ったかのようなその事実に、リゼリアの心は一層深い疑惑と不可解さに包まれていくのだった。
■ 登場人物一覧表
エミーナ・リヴィエール
セシリアの元侍女で、ルミナリア・リヴィエールの血脈を引き異能の力を持つ。
セレスティア親王軍の水明艦隊特攻隊長として数々の海戦で戦功を挙げ、「東海の鬼女」と恐れられた。後にアレスと結婚する。
アレス・マクウェン(アレス・サイリュン / 崔亜無)
15歳で志願兵として入隊後、航海長や艦隊副長を歴任し出世した優秀で勤勉な人物。
エミーナと結婚し、ツルギとミタマの父となる。教皇ゲンドラス・サイリュンの息子で、ココロギの異母兄。
ツルギ・マクウェン(ツルギ・サイリュン / 崔剣)
アレスとエミーナの息子(12歳)で、ミタマの双子の兄。男子としては珍しく異能力を発現させ、戦士としての才能を発揮している。崔厳の孫。
ミタマ・マクウェン(ミタマ・サイリュン / 崔御玉)
アレスとエミーナの娘(12歳)で、ツルギの双子の妹。リヴィエールの血を引き、12歳にして高度な水術や「新星爆発」などの技を扱う。崔厳の孫。
ルシア・フォン・セレスティア
アルヴェリア親王国王女で、「四つ葉の錫杖」を振るう圧倒的な強さを持った騎士・戦士・巫女。
戦死後、皇太子の幼い皇女「シェルランテ」として転生・復活を果たした。
ココロギ・サイリュン(崔心木)
「真理の光教団」の巫女で、後宮の礼拝堂「四つ葉堂」に住まう。教皇ゲンドラス(崔厳)の実娘。
リヴィエール一族の血を引き、「空間跳躍」や「神秘札の作成」などの異能を持つ。
セシリア
帝国後宮の「貴妃」で、水明宮に居住するルシアの実母。古琴の名手であり、リヴィエールの血を引く気品と冷徹さを併せ持つ傑物。
シェルランテ
皇太子夫婦の間に生まれた皇孫女(中身はルシアの復活体)。「白鷺姫」と呼ばれ、宝物や巨大なマグロを出現させる能力、千里眼、空間跳躍などの異能を持つ。
イリアード
第15代皇帝で、ルシアの実父。かつて「軍神」と称されたが、現在は孫のシェルランテを溺愛している。
リゼリア
帝国の後宮最高権力者である「皇后」で、水鏡宮に座す。
冷静沈着な頭脳と高い威厳を持ち、公平に後宮を取り仕切る。
シルヴィア
春宮(白鷺宮)に住まう若き皇太子妃で、シェルランテの母。
夫の不始末に悩んでいたが、二人目の子(男児)を妊娠する。気前が良く配下の宮女たちにも優しい。
ゲンドラス・サイリュン(崔厳)
聖ゲンドラス教国の教皇で、ココロギとアレスの実父。超常的な力は持たないが、高い政治統治能力を持つ一流の政治家・亡国の元宰相であり、僭王であった。
ヴィオ
ルシアに引き取られ鍛え上げられた側近・従者で、仕込み錫杖による二刀流の使い手。
紫の儀式で憑依を受け、ルシアを刺した後にリアムに斬られ絶命した。
ビー・スー
ルシアに付き従う側近で、南部の孤島の王国末裔。
ディヌイヤ・ラーナ公国で「真理の光教団」の司教を務め、丸盾と短めの錫杖を扱う。
ヴォルフラム
「真理の光教団」の枢機卿で、エルサ・ルーメン大司教座聖堂に赴任している切れ者。元は吟遊詩人・達人の剣士。
アルル
水鏡宮(水明宮)の女官で、セシリアや皇后の伝言をココロギに伝える役割を担う。
ベルトト
皇后付き女官長を務める女性で、ベルナデットの妹。非常に優秀で「さすがベルトト」と称賛される。
リアム
皇帝イリアードと皇后リゼリアの息子の皇太子で、武芸に非常に長けている。
女官エレノアの手を出したことでココロギや妻シルヴィア、娘シェルランテからも冷遇・疎外されている。
エレノア
リアムと関係を持った元平民出身の女官。芙蓉宮に住まい、奉儀から昭訓へ昇格・懐妊した。
■ 用語集一覧表
真理の光教団
ゲンドラス・サイリュンを教祖としてルシアが設立した宗教組織。紋章は四つ葉のクローバー。
心木(しんぎ / こころぎ)
真理の光教団の教義において、宇宙の中心にそびえ立ち全生命の魂と心を繋ぎ止める世界樹。
四つ葉のクローバー
教団や聖ゲンドラス教国、ルシアたちのシンボルで、「希望」「信仰」「愛」「幸福」を象徴する。
四つ葉の錫杖
ルシアが愛用する片手剣のように扱う片腕ほどの長さの錫杖。
神秘札しんぴふだ
ココロギが集中して創り出す札で、未来の出来事や真実が絵と文面で浮かび上がる。
六棘の霜華ろっきょくのそうか
「霜華の女王ルシア」を象徴する結晶の紋章で、義賊組織の名称でもある。
白紅百合はぐぐゆり
アルヴェリア親王家の威厳を象徴する蓮の花の刺繍・紋様(白紅はルシア、黄色はセシリア)。
リヴィエール一族 / リヴィエールの血
異国の漂流民の血を引くとされる土豪の一族。美貌と空間跳躍などの強い異能の発現が特徴。
アンチアルマ
七十万もの軍勢が激突した、古都アンチアルマ周辺の広大な戦場平原。
アルストラーナ帝国
『偉大なるラーナ人の国』。文明発祥の地とされる古都ラーナを首都とし、帝政に以降してから320年強の歴史をもつ。
グラッデェ
強靭な騎馬民族。
聖ゲンドラス教国
ゲンドラス・サイリュンを国家元首とする「真理の光教団」の国家。首都はクリスタルヘイム。
ルミナリア
「花の都」と呼ばれる都市で、セシリアの故郷・ルミナリア・リヴィエール家の本拠地。
翡翠宮ひすいきゅう
後宮の最奥にあり、皇帝イリアードが生まれた居館。
水鏡宮すいきょうきゅう
後宮最高権力者である皇后リゼリアの居館。
水明宮すいめいきゅう
貴妃セシリアの居館。
四つ葉堂よつばどう
後宮の片隅にある教団の礼拝堂で、ココロギの住まいでもある。
東宮
皇太子リアムの居館
春宮
皇太子妃シルヴィアの居館(別名:白鷺宮)。
芙蓉宮ふようきゅう
昭訓エレノアの住まう館で、大量のカラスが集まることから「カラス屋敷」と陰口を叩かれている。
政教商の一致
ルシアが目指した思想で、宗教(真理の光教団)・国家(セレスティア/聖ゲンドラス)・経済(リヴィエール商会)・義賊(六棘の霜華)を連動させ、世の中の歪みや貧富の差を還流・是正する仕組み。




