『真夏の後宮と光の神秘札』
真夏の陽光が降り注ぐ後宮の一角。クローバーの青葉に優しく埋もれる小さな礼拝堂――通称「四つ葉堂」では、いつものようにうさぎたちが愛らしく庭草をはんでいた。 しかし今日ばかりは、食べることに余念がないうさぎたちでさえふっと口を動かすのをやめ、心配そうに堂内を覗き込んでいる。
それもそのはず、皇孫女シェルランテが、この上なく不機嫌に大きな泣き声を響かせていたからだ。 お世話係のココロギには、生後七ヶ月になるこの赤子がなぜこれほど憤っているのか、よく分かっていた。昨日の聖ゲンドラス教国で行われた記念式典に、自分だけ連れて行ってもらえなかったからである。自力で空間転移ができるほどの特別な力を持つ幼子でありながら、セシリアとココロギからその計画をすっかり伏せられていたのだ。「この裏切り者め!」――シェルランテの涙の底には、そんな幼い呪詛すら透けて見えるようだった。
「よし、よし、シェルランテ様。どうかお泣きにならないでくださいな。皇太子妃様がお見えになって、私、叱られてしまいますわ」
泣きやまぬ赤子をなだめるように、ココロギはあたたかな声をかける。
「さあ、四つ葉牛乳ですよ。とっても美味しいですよ」
竹筒で作った特製の哺乳瓶を口元へ運ぶと、シェルランテの感情がどうあれ、その小さなお口はしっかりと塞がれた。途端に、四つ葉堂へ穏やかな静寂が戻ってくる。様子を窺いに近寄っていた牛や山羊たちも、胸を撫でおろすようにそれぞれの持ち場へと戻っていった。
シェルランテはすっかり機嫌を直し、満足そうに両手で竹筒を支えながらゴクゴクと牛乳を飲んでいる。
「わぁ……ココロギは、シェルランテをあやすのが本当に上手ですね」
そっと覗き込んだ皇女シンシアが、感心したように吐息をもらした。
「ねぇ、ココロギ。私もシェルランテを抱いてみてもいいかしら?」 「もちろんでございます、シンシア様。では、バトンタッチいたしますね」
ココロギの手から、柔らかく温かな温もりがそっとシンシアの腕へと委ねられる。
「シェルランテ、おばちゃまですよ。美味しいですか?」
語りかけると、シェルランテは竹筒を両手でしっかりと押さえたまま、キャッとお顔をほころばせた。
「ココロギ! シェルランテが笑いましたわ! 可愛い……なんて愛らしいのでしょう!」
これまで人との関わりに心を閉ざし、鬱屈とした思いを抱えていたシンシアの中で、その瞬間、何かが弾けて消えた。胸の奥底から込み上げる、命そのものの愛おしさ――それを確かに実感したのである。
その様子を見つめながら、ココロギはそっと手を合わせ、静かに目を閉じた。シンシアのための「神秘札」を紡ぎ出すために。
シンシアが所持する札の数は、いまや四百枚に達しようとしていた。彼女はこの札の最多保有者である。そしてこれは、ココロギが『至高の光巫女ハイ・プリエステス』という高貴な称号を授かってから、初めて作製する特別な神秘札でもあった。
やがて完成した札を、赤子を抱いて手が塞がっているシンシアの目の前へそっと提示する。
「ありがとうございます、ココロギ。今日の札は……とても心に響きますわ」 「私も拝見してよろしいでしょうか?」 「ええ、もちろんです」
現れた神秘札には、大人の女性に背後から優しく抱きしめられている少女の姿が描かれていた。きっと、皇后リゼリアに抱かれた幼き日のシンシアなのだろう。 絵の傍らには、美しい文字でこう刻まれていた。
――『愛し、愛されている事を知るべし。すべての願いは叶わん』
「なんだか、とても素敵な札ですね……」
ココロギがしみじみと眺めていると、シンシアがくすりと微笑んだ。
「ふふ、それはココロギ、あなたが作った札でしょう?」 「あっ、そうでしたわ! 私ったら、なんだか変ですね」
二人の若々しく澄んだ笑い声が、光の差し込む堂内に心地よく響き渡る。 かつて人に心を開かず、ただ内に篭ってばかりいたシンシアが、いま花がほころぶように笑っている。
(シンシア様が、あんなにも楽しそうに笑っていらっしゃる……)
その笑顔を見つめるココロギの心の中にも、これまではただの名ばかりであった『至高の光巫女』から、真に人々の心を照らす本物の巫女になりたいという、強い願いと情熱がふつふつと湧き上がってくるのだった。




