中層の平定と現実の壁
ノアの能力が開花してからの一年間。
俺たちは、血で血を洗う中層の生存競争を、文字通り圧倒的な暴力で制圧していった。
戦術は常に同じだ。
まず、ノアが操る獣の群れ――ネズミや野犬たちが、敵の拠点へと雪崩れ込む。
暗闇の中で突如として無数の牙に襲われた野盗たちは、パニックに陥り、陣形も連携も完全に崩壊する。そして、獣たちの波に紛れ、完全に気配を殺した俺が、混乱する敵の死角から次々と喉笛を掻き切っていく。
音もなく、無慈悲に。
気づいた時には、拠点は血の海に沈み、物資だけがごっそりと消え失せている。
『教会の双影』。
中層の悪党たちは、俺たち二人のことを恐怖と共にそう呼んだ。
姿を見た者は生きて帰れない。狙われたら最後、どんな巨大な派閥であっても一夜にして壊滅させられる。
俺たちは中層において、一種の不可侵の都市伝説へと登り詰めていた。教会の周囲に足を踏み入れる愚か者はすでにおらず、子供たちは野盗の影に怯えることなく、つかの間の平穏な日々を過ごせるようになっていた。
だが。
俺が武力で中層を完全に平定したのと時を同じくして、絶望的な現実の壁が、音もなく教会を包み込み始めていた。
♢
「……これだけか」
ある夜。
中層で最後に残っていた中規模の密輸組織を壊滅させた俺は、彼らの倉庫の奥で、血濡れたナイフを下ろした。
傍らで、ノアが野犬たちを労うように撫でながら、申し訳なさそうに首を振る。
倉庫の中に残されていたのは、ひどくカビの生えた穀物の袋が二つと、泥水のように濁った酒の瓶だけだった。
「連中、もう何日もまともな飯を食っていなかったみたい。……倉庫、どこも空っぽだった」
俺は舌打ちをし、ナイフの血を払って鞘に収めた。
ここ数ヶ月、ずっとこの調子だ。
俺たちがどれほど敵を殺し、略奪を成功させようとも、手に入る物資の量は目に見えて減り続けていた。
理由は単純だ。アビス中層そのものの資源が、完全に枯渇し始めているのだ。
食料も、薬も、綺麗な水も。
無いものは、どれだけ殺し合っても奪えない。貧しい者同士で共食いを繰り返した結果、中層という広大なエリア全体が、ゆっくりと餓死に向かっている。
俺たちが武力で得た平和は、ただ「殺される恐怖」を遠ざけただけに過ぎなかった。
このままでは、次の冬が来る前に、教会の子供たちは確実に飢え死にする。
教会へ戻ると、ハナさんが痩せこけた頬に無理やり笑顔を貼り付けて、俺たちを出迎えてくれた。
子供たちも、腹を空かせているはずなのに、俺に心配をかけまいと必死に元気なふりをしている。
その健気な姿を見るたびに、俺の心は削り取られるように痛んだ。
(……俺はまだ、弱い)
どれだけ喧嘩に強くなろうが、ノアという最凶の獣を従えようが。
この地獄の底で、本当に大切なものを生かし続けるための『力』が、俺には決定的に欠けている。
深夜の礼拝堂。
一人で天井を見上げていると、俺の脳裏に鍵をかけていたある記憶がフラッシュバックした。
中層の最西端にある、古い廃棄物処理施設の跡地。
アビスの住人すら寄り付かないその奥深くに口を開けていた、黒い石で囲まれた清浄なトンネル。
そして、その最奥に鎮座する、三十メートルを超える巨大な黒い門。
あの巨大な門の向こう側に何があるのか、俺は知らない。
だが、あの時俺の本能は確かに感じ取っていた。あそこに、このアビスの死の連鎖を断ち切るための『何か』が、間違いなく存在していると。
しかし、その門の脇には、一人の男が立っていた。
『――帰れ』
直接脳内に響いたその声。
ただ視線を向けられただけで、全身の血が凍りつき、思考が停止したあの圧倒的な威圧プレッシャー。
あの時、俺は命からがら逃げ帰った。
自分の魂が完全に折られる音を聞きながら、その事実を誰にも言わず、心の奥底に封印したのだ。
「……ミナト?」
不意に、隣で眠っていたノアが身を起こし、不安げに俺を見つめた。
俺の体が、恐怖で微かに震えていたからだ。
「……なんでもない。寝てろ」
俺はノアの頭を撫で、ゆっくりと立ち上がった。
逃げ続けるわけにはいかない。
今の限界点(中層)に留まっていれば、待っているのは家族の緩やかな死だ。
生き延びるためには、あの黒い門をこじ開け、特区の資源を手に入れるしかない。
あの絶対的な死の象徴を、今度こそ俺の力で打ち破らなければならないのだ。
「ノア。明日、俺は一人で少し遠出をする」
「私も行く」
「ダメだ」
俺はかつてないほど強い口調で、ノアを制止した。
あの重圧の前では、ノアの獣たちなど一瞬で機能不全に陥るだろう。最悪の場合、俺たち二人が一緒に殺される。
「お前はここに残って、ハナさんと子供たちを守れ。……これは、俺が一人で超えなきゃいけない壁なんだ」
ノアは何かを言おうとして口を開いたが、俺の決死の目を見て、静かに唇を噛んだ。
「……必ず、帰ってきて」
「ああ。約束する」
翌朝、俺は誰にも見送られることなく教会を出た。
目指すは、中層最西端の禁忌の地。
己のトラウマを精算し、本当の『化け物』へと至るための、絶望の門だった。




