覚醒の芽吹き
アビス中層のさらに奥深く。
そこは、光さえも届かない廃棄された巨大な物流倉庫群だった。
崩れかけたコンテナの影には、飢えた野盗や人殺しが息を潜めている。俺たちのような子供が足を踏み入れれば、数分で骨の髄までしゃぶられるような場所だ。
だが、背に腹は代えられなかった。
俺とノアは、気配を完全に殺し、コンテナの隙間を縫うように進んでいた。
「……ミナト、あそこ」
ノアが小さく服の裾を引く。彼女の視線の先、錆びた鉄箱の中に、手付かずの保存食の缶詰がいくつか転がっていた。
俺は油断なく周囲の気配を探る。……静かすぎる。
「待て、ノア」
俺が制止するより早く。
カコン、と背後で鉄パイプが床を叩く鈍い音が響いた。
「チッ、罠か」
闇の中から、次々と薄汚れた男たちが姿を現した。
ざっと十人。誰もが飢えた狼のような血走った目をして、錆びた鉈や鉄パイプを手にしている。子供を餌でおびき寄せて身ぐるみを剥ぐハイエナどもだ。
「なんだ、ただのガキ二匹か。まあいい、そのナイフと服は高く売れそうだ」
リーダー格の男が下劣な笑みを浮かべ、一歩踏み出してくる。
俺は無言でノアを背中にかばい、両手にナイフを逆手で構えた。
「……ノア、俺から一歩も離れるな」
言葉が終わるか終わらないかの刹那。
俺は床を蹴り、先頭の男の懐へと弾丸のように潜り込んだ。
「なっ――」
男が驚愕の声を上げる間もなく、その喉笛を横一文字に掻き切る。鮮血が吹き出し、男が崩れ落ちるのを盾にして、俺は次の標的の膝の裏の腱を両断した。
「こ、このガキ……殺せ! ぶっ殺せ!!」
パニックに陥った野盗たちが、怒号を上げて一斉に襲いかかってくる。
だが、多勢に無勢だ。
俺一人の命なら、このまま闇に紛れて全員の息の根を止めることもできただろう。しかし、背後にはノアがいる。彼女を守りながらの立ち回りは、俺の機動力を致命的に削いでいた。
「後ろがお留守だぜ、クソガキ!」
一人の男が、俺の死角からノアに向かって鉈を振り下ろした。
「――ッ!」
俺は咄嗟にノアを突き飛ばし、自らの背中でその一撃を受けた。
肉を裂かれる嫌な感触と、焼けるような痛みが背中を走る。
「ミナトッ!」
ノアの悲痛な叫び声が響いた。
俺は歯を食いしばり、背中を斬った男の眼球にナイフを突き立てる。だが、傷を負ったことで俺の動きは確実に鈍っていた。
じりじりと、残る七人の男たちに壁際へと追い詰められていく。
(……ここまでか)
俺が奥歯を噛み締め、最後の一人まで道連れにする覚悟を決めた、その時だった。
「……やめて」
俺の背後で、立ち上がったノアが静かに言った。
彼女は、血を流す俺の背中を見つめ、夕陽色の瞳を怒りに燃やしていた。
「ミナトを、傷つけるなっ!!」
彼女が口を大きく開いた。
だが、そこから声は出なかった。
代わりに、俺の鼓膜をギリギリと劈くような、奇妙で痛烈な振動が空気を震わせた。
人間には聞こえない、超高周波の音。
「あ? なんだこのガキ、頭がイカれ――」
野盗の一人が嘲笑おうとした瞬間。
倉庫のあちこちから、ギィ、ギィ、という無数の小さな鳴き声が沸き起こった。
闇の中から、無数の赤い光が灯る。
それは、アビスの残飯を漁って生きる巨大なドブネズミの群れだった。数十、いや、数百匹。それだけではない。野犬や、凶暴なアビスのコウモリまでもが、まるで目に見えない糸に操られるように、倉庫の隙間から次々と雪崩れ込んできたのだ。
「な、なんだこいつら!? ギャアアアッ!!」
ネズミの群れが、黒い津波のように野盗たちに襲いかかる。
男たちが鉈を振り回すが、圧倒的な数の暴力の前には無意味だった。
足を噛みちぎられ、喉笛に野犬が喰らいつき、男たちの悲鳴と肉の弾ける音が倉庫に響き渡る。
それは、まさに地獄絵図だった。
だが、俺の足元は不思議なほど静かだった。
狂乱する獣の群れは、俺とノアの半径数メートル以内にだけは、絶対に入ってこようとしなかった。まるで、そこに見えない結界でも張られているかのように。
「……ノア、お前……」
俺が振り返ると、ノアは真っ青な顔で立ち尽くし、そのまま糸が切れたようにパタリと冷たい床へ倒れ込んだ。
「ノアッ!」
俺は慌てて彼女を抱きとめた。
気絶しているだけだ。初めて使った異質な力に、身体が耐えきれなかったのだろう。命に別状はない。
俺がノアを抱き上げた瞬間、獣たちは潮が引くように一斉に倉庫の闇へと消え去っていった。
後には、血の海に沈んだ野盗たちの無残な死体と、彼らが溜め込んでいた大量の物資だけが残されていた。
俺は背中の傷の痛みに耐えながら、ノアと大量の缶詰を背負い、凍てつく夜のアビスを歩いた。
教会の扉を開けると、ハナさんが血まみれの俺を見て悲鳴を上げたが、背負っていた食料袋を見るなり、顔を覆って泣き崩れた。
その夜、礼拝堂には久しぶりに温かいスープの匂いが立ち込めた。
一心不乱にスープを啜る子供たちの姿を眺めながら、俺は背中の傷を縫い合わせてもらい、ただ静かに痛みに耐えていた。
♢
翌日。
熱を出して寝込んでいたノアが、目を覚ました。
「あの力は、なんだ」
俺が単刀直入に尋ねると、ノアは少し戸惑ったように首を傾げた。
「分からない。ただ……頭の中で思い切り叫んだら、あの子たちが助けに来てくれた。私の『怒り』が、あの子たちに伝わったみたいだった」
「声なき声、か。……魔法や超能力の類じゃない。おそらく、お前の声帯が特殊な高周波を発していて、それにアビスの獣たちが本能的に従っているんだ」
俺の分析に、ノアは小さく頷いた。
「ノア。あの力は、この地獄を生き抜くための最強の武器になる」
俺はノアの目を真っ直ぐに見つめた。
「だが、感情に任せて使えば、昨日みたいに一瞬で体力が底を突いて気絶する。もし俺が倒れていたら、お前もあの場で死んでいた。……今日から、あの力を意識的にコントロールする訓練を始めるぞ」
ノアの瞳に、力強い光が宿る。
「うん。……私、ミナトの役に立つ」
それからの訓練は、さらに異質で過酷なものへと変わった。
教会の地下で、ノアは自分の声帯が発する『音なき音』の波長を調整する訓練を繰り返した。
最初は数匹のネズミを集めるだけで鼻血を出して倒れていたが、彼女の底知れない野生のセンスは、わずか数ヶ月でその力を完全に自らのモノにしてみせた。
索敵、陽動、そして敵の分断。
ノアが放つ獣の群れが戦場を支配し、混乱に陥った敵の死角から、俺が一切の音を立てずに喉笛を掻き切る。
それは、少数の戦力で多数を狩るための、アビスにおける最も完成された戦術だった。
俺たちはもう、ただの弱々しい子供ではない。
「行くぞ、ノア」
「うん」
血に塗れたナイフを握る俺の背中を、夕陽色の銀髪を揺らす少女が、無数の野犬たちを従えて追従する。
いつしか中層の悪党たちは、恐怖と畏敬を込めて俺たち二人のことを、一つの通り名で呼ぶようになっていた。――闇に潜む『教会の双影』と。
俺たち二人が、本格的にアビス中層の食物連鎖の頂点へと駆け上がるための、果てしなく続く防衛戦の幕開けだった。




