雪の日の誓い
教会の屋上は、全てが白く染まりつつあった。
灰色の空から、音もなく雪が舞い降りている。
アビスの雪。それはただの凍りついた水ではなく、全ての命を平等に奪い去る、美しくも無慈悲な死の象徴だった。
吹き荒れる風の中、先生は手すりに寄りかかるようにして立っていた。
その肩にも、銀色の髪にも、うっすらと雪が積もっている。
まるで、彼自身が静かに景色の中へ溶け込んでいくようだった。
「……ミナト。わしは、もう長くない」
雪にまみれながら、先生は穏やかな声で言った。
その呼吸はひどく浅く、微かにゼイゼイと嫌な音が混じっている。
「先生、そんなこと……」
「この病はタチが悪い。感染した人間が死ぬまで、その体内で増え続ける」
俺の言葉を遮り、先生は静かに真実を語り始めた。
「そして、最も恐ろしいのは……宿主が死ぬ間際に、最も強い感染力を持つ胞子を体外に放出することだ。……つまり、わしがここで安らかに死ねば、まだ生き残っている子供たちも、ノアも、全て終わりになる」
肺の奥から絞り出すようなその声に、俺は絶句した。
安らかに死ぬことすら、許されないというのか。
この人は、これまでずっと子供たちのために自分の命を削り続けてきたのに。その最期にすら、自らが教会の脅威になるという事実を一人で抱え込んでいたのだ。
「聞け。お前には最後の教えを授ける」
先生は真っ直ぐに俺の目を見つめた。
残された唯一の腕が、ゆっくりと伸びて、俺の肩を力強く掴む。
雪のように冷たかった。だが、その手から伝わってくる意志の力だけは、恐ろしいほどに熱かった。
「本当の強さとは、憎しみや怒りから生まれるものではない。……愛する者を守るため、非情になれる。その覚悟から生まれるのだ」
先生は懐から、一本の錆びついたナイフを取り出した。
そして、抵抗する隙も与えず、それを俺の右手に強く握らせた。
「わしが、子供たちを殺す“病原体”そのものになる前に。……お前の手で、わしを殺せ。ミナト」
それは、師から弟子への、最後の、そして最も過酷な命令だった。
頭の中が真っ白になった。
ナイフを握る手が、ガタガタと激しく震え始める。
「できない……」
俺は涙を流しながら、必死に首を横に振った。
できるはずがない。俺は、あなたを守りたくて、あなたに認めてもらいたくて、血反吐を吐いてここまで強くなってきたのに。
「……師を殺せと、言うのですか」
俺の震える声に。
先生は、静かに笑った。
あの時、アビスの底で死にかけていた俺を拾ってくれた時と同じ。不器用で、けれど何よりも温かい、不思議なほどの安らぎが浮かんだ笑顔だった。
「違う」
先生の親指が、俺の頬を伝う涙をそっと拭った。
「父を、超えていけ。……息子よ」
その言葉が、俺の心の一番柔らかい場所を貫いた。
涙で視界が滲む。
震える指先に力を込め、ナイフの柄を強く握り直した。
やらなければならない。この人を、俺たちの父親を、これ以上苦しめないために。そして、残された家族を守るために。
俺が覚悟を決め、ナイフの切っ先を震える手で持ち上げた、その時だった。
バンッ!!
屋上へと続く重い鉄の扉が、乱暴に蹴り開けられた。
ビクリと肩を揺らし、振り返る。
そこに立っていたのは、クロだった。
息を切らし、俺の姿を探して屋上まで駆け上がってきたのだ。
そして、彼の目に映ったのは――病で弱り果てた師匠に、俺が刃を突きつけているという、紛れもない『裏切り』の光景だった。
「……てめえ、ミナト……! 何してやがる!」
クロが怒りの形相で叫んだ。
違う。そうじゃない。
俺は咄嗟にナイフを下ろそうとした。
「違う、クロ! これは……!」
俺が弁明しようと口を開いた、その刹那。
背後に立っていた先生が、最後の力を振り絞り、俺の背中をドンッと強く押した。
ナイフを握りしめた、俺の右腕ごと。
グサリ。
生々しい肉を裂く音が、雪の降る静寂の中に響き渡った。
俺の手には、先生の腹部に深々と刃が突き刺さる、嫌な感触が残っていた。
信じられない思いで、俺は自分の手を見た。真っ赤な血が、ナイフの柄を伝って俺の手のひらを汚している。
先生の体が、ゆっくりと俺の腕の中で崩れ落ちていく。
俺は無意識にその体を抱きとめた。
「……それで、いい……」
腕の中で、先生が微かに微笑んだ。
「あとは、頼んだぞ……」
それが、先生の最期の言葉だった。
大きな体が完全に力を失い、雪の積もる冷たい床へと沈んでいく。
沈黙が降りた。
雪が先生の血を吸って赤く染まっていく。
扉の前に立ち尽くすクロは、その場で完全に凍り付いていた。
信じられない光景。
尊敬し、誰よりも強くなって守り抜くと誓った師が。
唯一のライバルであり、親友であったはずの男の手にかかって、死んだ。
彼の頭の中で、何かが決定的に音を立てて壊れるのが分かった。
「……うわあああああああああっ!!」
憎悪と絶望の絶叫が、白く染まる世界に木霊した。
クロが、獣のような殺気を放ちながら一歩踏み出す。
だが、その足はそこから先へは動かなかった。
返り血を浴び、ただ無言でこちらを見つめ返す俺の姿が、彼の目には見知らぬ底知れぬ怪物のように映ったのかもしれない。
俺は先生の亡骸を抱きしめたまま、その叫びを全身で浴びていた。
言い訳など、できるはずがなかった。俺の右手が彼を殺したのだから。
「……殺してやる」
雪にまみれ、血の涙を流しながら、クロが呻くように言った。
その瞳に宿っていたのは、かつての太陽のような光ではない。底知れぬ真っ黒な憎悪の炎だった。
「絶対に許さねえ……! いつか必ず、俺がお前を殺してやる……!! ミナトォォォォッ!!」
呪詛のような絶叫を残し、クロは吹雪の向こう側へと駆け出していった。
その後ろ姿を引き止める資格など、俺にはない。
一人取り残された屋上。
俺は先生の亡骸を抱きしめたまま、ただ降りしきる雪を見上げていた。
冷たい雪が、頬を濡らす。
たった一日の間に。
俺は父親と、ただ一人の親友を同時に失った。
それでも、生きなければならない。
親友に憎悪され、命を狙われることになっても。
俺が全ての罪を被り、化け物に成り果てることで、地下で震えるノアや子供たちが生き延びられるなら。
「……見ていてください、先生」
凍てつくアビスの空に向かって。
俺は血に染まった右手を、ギリッと強く握りしめた。
「俺が……俺一人で、全部守り抜いてみせるから」
それは、誰にも届かない、絶望と覚悟の誓いだった。
俺の心から、最後の光が消えた日。
降りしきる雪は、ただ無慈悲に全てを白く覆い隠していった。




