喪失と冬の足音
どれだけの時間が過ぎたのか。
完全な暗闇の中で、時間の感覚はとうに消失していた。
体温が失われ、意識が泥のように重く沈んでいく中、微かな振動を感じた。
ズズッ……ゴリッ……。
石と石が擦れ合う音。そして、網膜を焼き切るような鋭い光の筋が、突然俺の視界を刺した。
「ミナトッ!! シズカッ!!」
光の向こう側で、血だらけの両手で瓦礫を退けるクロの姿があった。
その顔は、泥と汗でぐしゃぐしゃだった。
クロの太い腕が瓦礫の隙間に差し込まれ、俺たちの体を力強く掴み上げる。
その暴力的なまでの腕の温かさと、肺へとなだれ込んでくる新しい空気に、俺の意識はついに完全に途切れた。
♢
地下の崩落から、一ヶ月半が過ぎた。
教会は少しずつ元の日常を取り戻しつつあった。
だが、俺とシズカの間には、あの完全な暗闇で共有した熱の記憶が、言葉にされることなく静かに横たわっていた。
最近、シズカの様子が少しおかしかった。
ハナさんが作る温かいスープを、彼女はほとんど残すようになった。
時折、ひどく青ざめた顔で口元を押さえ、足早に教会の外へ駆け出すことがあった。
「どうした、どこか痛むのか」
俺が尋ねても、彼女は「……少し、アビスの空気に当てられただけ。うつるから近づかないで」と、無理に笑って俺を遠ざけた。
瓦礫の下で負った傷の後遺症なのか、あるいは極限状態を生き延びた反動による過度のストレスなのか。
俺には分からなかった。ただ、彼女が一人で何かを抱え込み、俺たちから見えない壁を作ろうとしていることだけは感じ取っていた。
そして、救出から二ヶ月が経とうとしていたある朝。
シズカは、忽然と姿を消した。
誰にも何も告げず。自らの武器と、僅かな荷物だけを持って。
俺はアビスの街を何日も探し回ったが、彼女の影すら見つけることはできなかった。
「……あの女、結局俺たちのことなんてこれっぽっちも信用してなかったってことかよ」
苛立ちを隠せないクロが、壁を殴りつけながら吐き捨てる。
俺は何も言い返せなかった。
あの絶望の底で、あんなにも互いの命を確かめ合ったのは、死の恐怖が生み出したただの幻だったのか。
彼女はただ、これ以上俺たちと同じ闇を共有することに耐えられなくなっただけなのかもしれない。
理由など、今となっては知る由もなかった。
彼女の微かな匂いと、ぽっかりと空いた喪失感だけを残して。
傷ついた三匹の獣たちのトライアングルは、こうして静かに崩れ去った。
♢
季節は、無慈悲に巡る。
シズカの失踪からさらに数ヶ月。
アビスに、死の匂いを孕んだ『冬』が近づいていた。
凍てつくような隙間風が教会に吹き込み始め、空は常に重苦しい灰色に沈んでいる。
「……ゴホッ、ゴホッ……」
ある夜、幼い子供の一人が、ひどく乾いた咳をした。
それが、全ての終わりの始まりだった。
最初はただの風邪だと思われていた。
だが、翌日には三人、その次の日には五人と、子供たちが次々と高熱を出して倒れ始めた。
その特徴的な、肺の奥から絞り出すような重い咳の音。
俺もクロも、四年前に一度だけその絶望を味わっていた。
アビスの汚染された空気が引き起こす、致死性の特殊な肺炎――通称“灰色の肺”。
かつてユナを死の淵まで追いやった悪魔の病が、この過酷な冬の到来と共に、再び教会の子供たちに牙を剥いたのだ。
ハナさんが顔面を蒼白にさせながら看病に駆け回り、先生が重い足取りで地下の書物庫へと籠る。
俺とクロは、ただ事ではない空気を感じ取り、無言で互いの武器の手入れを始めていた。
だが、この時俺たちはまだ分かっていなかった。
俺たちが戦うべき本当の敵は、外からやってくる狂人や獣などではなく、この冷たいアビスの空気そのものなのだということを。
最初の咳が響いてから、わずか一週間。
教会の地下は、絶望に満ちた野戦病院のような惨状と化していた。
「……はぁっ、はぁっ……」
熱にうなされる子供たちの荒い呼吸が、薄暗い部屋に充満している。
水で濡らした布を額に乗せるハナさんの手は、限界を超えた疲労で小刻みに震えていた。
俺とクロは毎日、凍てつく街へ這い出て、わずかな食料と薬草になりそうな植物を探し回った。だが、中層のどこを漁っても、この「灰色の肺」を治せるような抗生物質など見つかるはずもなかった。
四年前に薬を奪った蛇の拠点も、すでに先の襲撃で完全に崩壊している。
「……クソがッ!!」
ある夜、手ぶらで帰還したクロが、教会の石壁を力任せに殴りつけた。
拳の皮が破れ、血が壁に滲む。
「何が最強だ……! 狂人の群れだろうが、化け物だろうが、俺が全部叩き潰してやるのに……! なんで、こんな目に見えねえ病気なんかに……!」
その怒りは、他でもないクロ自身の無力さに対するものだった。
俺も同じだ。
気配を殺す術も、敵の喉笛を的確に掻き切る技術も、この病魔の前では何の役にも立たない。俺たちは、ただ命が削られていくのを黙って見ていることしかできなかった。
そして、何よりも俺の心を暗く支配していたのは、先生の存在だった。
四年前にユナを救うため、毒婦から受けた腹の傷。
アビスの環境では決して完治しないと言われたその傷が、確実に先生の免疫力を奪っていたのだ。
先生は、自分の食料を全て病気の子供たちに分け与え、不眠不休で看病を続けていた。
その顔色は死人のように青白く、痩せ細った頬にはかつての絶対的な強者の面影はない。
ある深夜のことだった。
水汲みから戻った俺は、通路の角で足を止めた。
壁に手をつき、激しく咳き込んでいる先生の背中が見えたからだ。
「……ゴホッ……ガハッ……!」
血を吐くような、いや、実際に血を吐き出しているひどい咳だった。
先生が口元を押さえていたボロ布が、どす黒い赤に染まっているのが暗がりでもはっきりと分かった。
「……先生」
俺が思わず声をかけると、先生はビクリと肩を震わせ、咄嗟に血染めの布を背後に隠した。
「……ミナトか。起きているのか」
「先生、その咳……まさか」
「なんでもない。ただの風邪だ」
無理に作った穏やかな声。
だが、その息遣いは酷く乱れていた。
俺は一歩踏み出そうとしたが、先生の鋭い視線に射抜かれ、動けなくなった。
「……誰にも言うな。クロにも、ハナにもだ」
「でも、先生の体が……!」
「わしは、教会の長だ。わしが倒れれば、この場所は終わる。……お前なら、分かるな」
それは、教えを乞う弟子に対する目ではなく、同じ重圧を背負う者に対する、哀願のような響きを持っていた。
俺は奥歯を噛み締め、無力感に苛まれながら頷くことしかできなかった。
♢
それから数日。
事態は最悪の方向へと転がり落ちていった。
熱を出した子供のうち、最も幼かった二人の呼吸が、立て続けに止まったのだ。
冷たくなった小さな体を、凍った土を掘って埋める。
ハナさんは泣き崩れ、クロは虚ろな目で宙を見つめていた。
死の恐怖が、教会の全ての空気を重く塗り潰していく。
俺たちの心は、もう限界だった。
そして。
空から白い灰のような、雪が舞い降り始めた夕方。
先生が、俺だけを教会の屋上へと呼び出した。
彼の歩みはひどく遅く、階段を上るだけで何度も立ち止まっていた。
その背中を見た時、俺の直感が警鐘を鳴らした。
これが、先生の最後の時間になるのだと。
全てが白く染め上げられていく、静かで、残酷な夕暮れだった。




