蛇の急襲
夜の底。
アビスの冷たい空気が、今日はひどく生臭かった。
鉄錆と、そして微かな腐肉の匂い。
教会の礼拝堂。
暗闇の中で静かに呼吸を整えていた俺は、ふと目を開けた。
隣には、音もなく寄り添うように立つシズカの姿があった。
俺たちは何も言葉を交わさない。
ただ、互いの視線が交差しただけで、同じ「異常」を感じ取っていることが分かった。
静かすぎるのだ。
常に這い回るネズミの音も、パイプから滴る水音すらも、まるで何かに怯えるように息を潜めている。
「……来る」
シズカの唇が、音もなく動いた。
直後。
教会の頑丈な鉄扉が、爆発音と共にひしゃげた。
「てめえら!! 何の用だ!!」
誰よりも早く反応したのは、クロだった。
怒号と共に彼は自らの背丈ほどある鉄の丸太を振り抜き、先陣を切って飛び込んできた男の横っ腹にフルスイングで叩き込んだ。
ゴシャッ!
鈍い音。肋骨が何本も折れ、内臓が破裂する嫌な手応え。
普通の人間なら即死、あるいは痛みで気絶する完全な一撃だった。
だが。
「アハ……ハハッ!」
吹き飛ばされた男は、くの字に曲がった異常な姿勢のまま、ケラケラと笑いながら立ち上がったのだ。
男の目は完全に焦点が合っておらず、口からは白い泡と涎を垂らしている。
痛覚を完全に麻痺させ、肉体のリミッターを強制的に外すアビス特有の違法薬物。
それを致死量ギリギリまで投与された狂人だった。
「なっ……!?」
クロが驚愕に目を見開いた一瞬の隙。
男は折れた腕をぶら下げたまま、獣のような速度でクロの足元に飛び込み、錆びた刃を突き立てようとした。
シュッ。
風を裂く音。
男の首に、シズカの放った鋭い投げナイフが深々と突き刺さる。
同時に、俺は気配を完全に殺して男の背後に滑り込み、その頸椎を的確にへし折った。
脳からの信号を物理的に絶つ。
薬で痛みを消していようが、首の骨を折られれば人間は動けない。
男は糸の切れた操り人形のように、ドサリと床に崩れ落ちた。
「クロ! 力で叩き潰すな! 関節を壊すか、脳か首を狙え! 奴ら、痛みを感じていない!」
俺の叫びに、クロは屈辱と焦燥に顔を歪めた。
自分の全力の一撃が通用しなかったこと。
そして何より、俺とシズカが言葉一つ交わさず、完璧な連携で敵を仕留めたことへの苛立ち。
「……指図すんじゃねえ!!」
クロは咆哮し、再び闇の中へと突っ込んでいく。
ひしゃげた扉の向こう。
松明の不気味な炎が、次々と暗闇に浮かび上がる。
十、二十……いや、五十は下らない。
全員が、先ほどの男と同じように焦点の合わない目をぎらつかせている。
「……『蛇』」
四年前。
ユナを救うための薬と引き換えに、先生の腹を抉り、決して消えない傷を負わせた中層最大の派閥。
奴らは、先生の命の灯火が消えかけているこの瞬間を、四年間ずっと待っていたのだ。
自分たちに泥を塗った教会を、根絶やしにするために。
「シズカ。ノアと子供たちを奥の部屋へ。ここは俺とクロで抑える」
「……私も戦う」
シズカの瞳には、かつて彼女の故郷を奪われた時と同じ、しかし今は「守るため」の強い決意が宿っていた。
だが、絶望はまだ終わっていなかった。
群がる狂人たちをかき分けるように、一人の女がゆっくりと姿を現す。
革のコート。手には蛇のようにしなる鞭。
四年前に先生と死闘を演じた幹部、“毒婦”。
「あはは。孤児院のネズミどもは随分と大きくなったねぇ。……あの時のすばしっこい小僧もいるじゃないか」
女の嘲笑が、教会のホールに響き渡る。
「あの忌々しい隻腕のジジイはどこだい? 今日は、きっちり息の根を止めに来てやったよ」
俺は、腰のナイフを逆手に構え直した。
守らなければならない。
四年前のあの日のように、また誰かを失うわけにはいかないのだ。
地獄の幕開けだった。
狂人たちが、獣のような咆哮を上げて一斉に襲いかかってくる。
クロが先陣を切り、巨大な鉄の丸太を大車輪のように振り回した。
骨が砕け、肉が潰れる音が連続して響く。だが、手足があらぬ方向に曲がろうとも、奴らは笑いながらクロの足首にすがりつき、刃を突き立てようとする。
「クソがッ! 離れろバケモノども!!」
クロの焦燥。
彼は強い。だが、その強さは「相手が痛みと恐怖を感じる人間であること」を前提としている。死を恐れない肉の壁を前に、彼の体力は確実に削られ始めていた。
そのクロの死角を突こうとした狂人の首を、闇から伸びたシズカの刃が音もなく掻き切る。
血飛沫が上がる前に、俺は彼女の背中を蹴り台にして跳躍し、密集した敵陣の中心へと降り立った。
思考を殺せ。息を殺せ。
ただ、最も効率的に命を刈り取る影になれ。
俺のナイフが狂人の延髄を貫く。
引き抜くと同時に身を沈め、シズカが放った三本の投げナイフが俺の頭上を通過し、迫り来る敵の眼球に吸い込まれる。
死体が倒れ込む僅かな隙間を縫って、俺は次の獲物の頸椎を砕く。
次々と床に沈んでいく狂人たちの死体の山。
その光景を横目で見ていたクロの顔が、屈辱に歪む。
「……チッ! 雑魚どもが、調子に乗りやがって!」
戦況の不利を悟った毒婦が、忌々しげに舌打ちをした。
彼女の蛇のような鞭が唸りを上げ、空気を引き裂きながら俺の首を狙う。
だが、俺の眼にはその軌道がはっきりと見えていた。
首を僅かに傾けて致命傷を避け、俺はその鞭の先端を左の素手で掴み取った。
刃が仕込まれた鞭が俺の掌を深く切り裂き、血が噴き出す。
「なっ……!?」
毒婦が驚愕に目を見開いた瞬間、シズカが俺の背後から飛び出し、毒婦の懐へと入り込んだ。
彼女の逆手に握られたナイフが、毒婦の腹部――四年前に先生が抉られたのと同じ場所――を深々と貫く。
「ガハッ……! この……クソガキどもが……!」
血を吐きながら、毒婦が膝をつく。
五十人いた狂人たちも、クロの丸太と俺たちのナイフによって、ついに最後の一人が沈黙した。
血の海と化した教会の礼拝堂。
俺たちの息は上がり、全身傷だらけだったが、防衛戦は俺たちの完全な勝利で終わった。……はずだった。
「アハハ……ハハハハッ!!」
腹から血を流しながら、毒婦が狂ったように高笑いを発した。
その手には、見慣れない黒い起爆装置のようなものが握りしめられていた。
「ガキどもが……勝ったつもりかい? 私はね、四年間ずっとこの日を待ってたんだよ」
毒婦の目が、血走った執念に燃えている。
「この教会の真下が、大昔の廃棄施設の空洞になってるのは調べてある。その薄っぺらい床を支えてる何本かの柱に……アビスで一番強烈な発破用の爆薬を、たっぷり仕込ませてもらったよ」
「……なんだと!?」
クロが叫ぶ。
「これで、お前らもあのジジイも、全員瓦礫の下敷きだ! 地獄で仲良く……」
毒婦が起爆装置のボタンを押し込む。
俺は咄嗟にナイフを投げ、彼女の眉間を貫いた。
だが、遅かった。
ドゴォォォォォンッ!!!
大地そのものが悲鳴を上げるような、鼓膜を破る大音響。
教会の床が、まるで波打つように激しく隆起し、そして次の瞬間、足元の重力が完全に消失した。
床を支えていた地下の支柱が吹き飛び、俺たちが立っていた礼拝堂の床面が、巨大なすり鉢状に崩落を始めたのだ。
「うおおおおッ!?」
バランスを崩し、奈落へと滑り落ちそうになるクロ。
その先は、どこまで続いているかも分からない完全な暗闇。
落ちれば死ぬ。あるいは、ただでは済まない。
俺は崩れゆく瓦礫を蹴って跳躍すると、クロの胸倉を掴み、崩落を免れた奥の部屋(ノアたちがいる安全圏の通路)へ向かって、ありったけの力で投げ飛ばした。
「クロ! ノアたちを頼む!!」
「ミナトッ!!」
クロが手を伸ばす。だが、届かない。
反動で、俺の体は瓦礫と共に底なしの暗闇へと吸い込まれていく。
これでいい。
敵は全て死んだ。クロがいれば、先生も子供たちも安全だ。
俺は、迫り来る死の予感に静かに目を閉じた。
だがその時。
崩落していく暗闇の淵から、一つの影が躊躇なく跳躍した。
「ミナト!!」
俺の手を掴もうと、シズカが自ら虚空へと身を躍らせたのだ。
馬鹿野郎。お前まで落ちる必要なんてないのに。
だが、俺のその声は瓦礫の轟音に掻き消された。
俺とシズカは固く手を握り合ったまま、大量の瓦礫と共に、光の届かないアビスのさらに奥底へと堕ちていった。
絶対的な漆黒。
視界という概念そのものが死滅したかのような、完全な闇だった。
全身の骨が軋むような激痛で、俺は意識を取り戻した。
口の中に広がる濃厚な血の味。むせ返るような土埃と火薬の匂い。
耳の奥で、まだ爆発の残響と、どこかで瓦礫が崩れ落ちる音が微かに鳴り響いている。
「……っ」
僅かに身じろぎしただけで、内臓がねじ切れるような痛みが走った。
……生きている。
記憶がフラッシュバックする。
毒婦の起爆装置。崩れ落ちる地下の床。クロを安全圏へと投げ飛ばした時の、確かな感触。
そして――崩落していく俺の手を強く握り締め、自ら底なしの暗闇へと身を躍らせたシズカの姿。
「……シズカ……!」
自分の声が、ひどく掠れて弱々しいものに聞こえた。
俺の左手には、まだ誰かの手を強く握りしめていた感触が残っている。だが、落下の衝撃で離れ離れになってしまったらしい。
俺は激痛に耐えながら、這いつくばるようにして瓦礫の海を手探りで進んだ。鞭で裂かれた左の手のひらから血が滴り、指先が尖った石に引き裂かれても構わなかった。
「シズカ……どこだ……返事をしてくれ……!」
どれくらい暗闇を這い回っただろうか。
不意に、俺の右手が柔らかいものに触れた。
布の感触。そして、微かに温かい体温。
「シズカ!」
俺は彼女の体を抱き起こした。
ぐったりとしていて力がない。だが、微弱な呼吸と心音は確かにあった。俺の心臓が、安堵で大きく跳ねる。
「……ん……ぁ……」
微かな呻き声と共に、彼女の体が小さく震えた。
「シズカ、分かるか。俺だ」
「……ミナト……?」
暗闇の中で、彼女の手が弱々しく俺の頬に触れた。
その指先は、まるで氷のように冷たかった。
「……ここは……」
「教会の地下の、さらに底だ。……瓦礫で完全に塞がれている」
俺は冷静な声を作ろうとしたが、絶望は隠しきれなかった。
上を見上げても、光の欠片すら差し込んでこない。
何十トン、あるいは何百トンという瓦礫の層が、俺たちと上の世界を完全に断絶している。
空気が淀んでいた。新しい酸素が入ってこない。
そして何より、恐ろしいほどの『寒さ』が俺たちの体温を奪い始めていた。
アビスの深層の冷気は、物理的な温度以上に、魂の熱そのものを吸い取っていくような禍々しさを持っている。
「……痛い……」
シズカが、俺の胸の中で小さな声を漏らした。
俺の服が、生温かい液体で濡れていくのを感じる。落下時の衝撃か、瓦礫による切り傷か。
俺は手探りで自分の服を裂き、彼女の傷口を強く圧迫した。
「しっかりしろ。すぐに出口を探す。だから……」
「……いいの……ミナト……」
彼女は、傷口を押さえる俺の手の上に、自らの冷たい手を重ねた。
「もう……出られないことくらい……分かってる……」
その声は震えていた。
教会の子供たちの前で見せていた「優しい姉」の顔ではない。
ただ死の恐怖に怯える、少女の弱々しい声だった。
「……怖いよ……ミナト……。暗い……寒いよ……」
彼女の体が、ガタガタと激しく震え始める。
出血によるショックと、急激な体温の低下。
このままでは、彼女はあと数時間もしないうちに死ぬ。俺も同じだ。
俺が血反吐を吐きながら積み上げてきた強さなど、この圧倒的な自然の暴力と孤独の前では何の役にも立たなかった。
「……死なせない」
俺は、彼女の体を強く抱きしめた。
少しでも俺の体温を分け与えるように。
「お前は俺が守る。絶対に死なせない」
「……嘘つき……」
暗闇の中で、彼女の顔が俺の首筋にすり寄せられた。
彼女の涙が、俺の肌を熱く濡らす。
「あなただって……震えてるじゃない……」
図星だった。
俺の体も、恐怖と寒さで小刻みに震えていたのだ。
一人で全てを背負うと誓った。先生の代わりに、教会の守護者になると決めた。
だが、この絶対的な暗闇と、死の足音が耳元まで迫る極限状態の中で、俺の心にかけられていた「強さ」という名の鎖が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
怖い。
死にたくない。
一人で、この暗闇の中で消えたくない。
俺たちが教会の地下訓練場で学び、身につけてきたのは「殺す術」と「生き残る術」だけだ。
『死を受け入れる術』など、誰も教えてはくれなかった。
「……ミナト……」
シズカの冷たい唇が、手探りで俺の輪郭をなぞり、そして、俺の唇に触れた。
それはキスというより、互いの存在を確かめ合うような、すがるような接触だった。
「私を……一人にしないで……」
彼女の悲痛な囁きが、俺の理性の最後の一線を焼き切った。
俺は彼女の細い背中に腕を回し、その冷たい唇を強く塞いだ。
血と、埃と、そして互いの涙の味がした。
暗くて、冷たくて、息苦しい地獄の底。
死という絶対的な絶望がすぐ隣に口を開けているこの場所で。
俺たちは、狂ったように互いの温もりを貪り合った。
ただ、自分たちがまだ生きていて、一人ではないという事実を証明するためだけに。




