第十章 : 朧鏡に映る奈落
夜空の彼方、天界の高みから地上を見下ろす一柱の神がいた。戦神・毘沙門天である。いつにも増して険しい面持ちで、彼は雲間に広がる朧な水鏡を覗き込んでいた。
水鏡に映し出されているのは、蒼黒い水底の戦場だった。地下水脈の闇に、百目とその仲間たちの姿が小さく揺らめいている。その周囲には不気味な水泡と暗雲のような妖気が渦巻き、古き海魔フォルネウスの邪気が戦場を覆っていた。
毘沙門天は静かに眉をひそめた。水鏡の中で純壱という若者の姿が見える。彼の体が沈み込み、今にも儚い泡と共に闇に消え入りそうになっていた。
「純壱……!」
神の喉が低く唸った。
まさか、この程度で命運尽きる運命ではあるまい。あの右眼に選ばれし青年が、このような形で果てて良いはずがない。まして、かつての同胞が目を掛けた人間なのだ。こんなところで死なせはせぬ。
毘沙門天は金剛杵を握り締めると、鋭い眼差しで水鏡に祈念した。瞬間、天界を満たす清冽な神気が地上へと降り注ぐ。神が下したのは「水行自在」の加護――水を行き、水を制する力である。
「行け。余の加護は汝らと共にあろう」
力強い囁きと共に、蒼い煌めきが水鏡の表面を走った。水面は輪紋を描いて震え、その中で純壱たちの影がかすかに光を帯びた。
耳鳴りのように鼓動が響いている。それ以外は何も聞こえない。広浄水場が静寂に沈み、凍りついた刹那――しかし、それも束の間の幻に過ぎなかった。
ゴゴゴッ……!
鈍い轟音とともに足元が揺れ、地面が崩落した。砕けたコンクリート片ごと俺たちは闇の奈落へと呑み込まれる。上下の感覚が狂い、視界がぐるりと反転した。溢れた水流に押し流され、体が宙を舞う。冷たい水が遠慮会釈もなく口鼻に流れ込み、肺を焼くような苦痛が走った。
(水の中……! このままじゃ――)
猛烈な息苦しさに意識が白み始める。必死に藻掻くが、手も足も虚しく水を掴むだけだ。このまま深みに引きずり込まれてしまうのか……絶望が脳裏を掠めた、そのときだった。
胸にぽっと温もりが灯った気がした。次の瞬間、喉を塞いでいた冷水が嘘のように引いていく。肺に新鮮な空気が滑り込み、激しくむせ返った。
「……ぷはっ!」
喉から水を吐き出し、大きく息を吸い込む。――息が、できる。確かに水中にいるはずなのに、まるで顔周りだけ空気に包まれているようだった。何が起きたのか分からず、荒い呼吸を整えながら周囲を見回す。
薄暗い水の中に、青白い光の筋がゆらゆらと揺れていた。崩落した床の破片が散らばり、岩礁のように積み重なっている。その陰から二つ、三つと人影が起き上がった。
「純壱ちゃん、大丈夫かい?」
ぼんやりとした水音の向こうから、百目の声が届いた。どうやら皆、近くに落ちていたらしい。俺は安堵で胸を撫で下ろすと、大声で応えた。
「……はい、なんとか! みんな無事ですか!?」
「平気だ! どうやら……皆、助かったようだな」
青頭巾がしみじみと言った。袈裟姿の影がゆらりと立ち上がり、こちらに歩み寄ってくる。水中だというのに、その動きは陸上と何ら変わらなかった。俺も試しに水を蹴ってみる。ふわりと体が浮かんだが、思いのほか自由に動ける。まるで水そのものが俺たちを拒まず、味方してくれているような感覚だった。
青頭巾の周囲では、小さな鬼火がいくつも瞬いていた。彼が錫杖を振るって灯したのだろう、薄闇に仄かな明かりが揺れている。その光に照らされ、百目と鎌鼬の姿も見えた。二人とも構えを崩さず周囲に警戒を巡らせている。
「これは……毘沙門天の加護、“水行自在”か!」
青頭巾が周囲に満ちる見えざる力を感じ取り、低く呟いた。その声には驚きと感嘆が入り混じっている。百目はすっと目を細めた。
「はは、なるほど。……ありがたい援護だね。今ここにいないのは、不問にしといてやろう。」
短く笑んだ鎌鼬の視線が一瞬だけ天を仰いだように見えた。俺も悟る。きっと毘沙門天さまが力を貸してくれたのだ。この水中で自由に動けるのは、その加護のおかげに違いない。
だが、悠長に感謝に浸っている暇はなかった。ひりつく殺気が、水の底から肌を刺したからだ。
「来る……!」
鎌鼬が低く唸った。
同時に、鬼火の明かりが射し込む暗がりの奥で、金と銀の微光が瞬いた。フォルネウスの双眸だ。闇に溶けていた海魔の輪郭が、ゆらりと浮かび上がる。
次の瞬間、鋭い破裂音が轟いた。水圧を凝縮して作られた氷の槍が、音もなく射出されたのだ。青白い閃光が走り、氷槍は真っ直ぐこちらへと迫った。
「チィッ……!」
鎌鼬が風を纏った太刀を閃かせる。一閃。氷槍は軌道を逸らされ、脇の岩礁に突き立った。途端に岩が砕け、砕氷と砂利が四散する。
続けざまに、水流が唸りを上げた。俺たちを囲むように、水底の砂と残骸が巻き上がり、視界を遮っていく。濁流の渦。その中に、不気味な影が蠢いた。
百目が片腕を前に突き出し、低く念じた。瞬間、彼の背後にぼんやりと妖しげな無数の眼が浮かび上がる。それら百の妖眼が一斉に見開かれ、闇を照らすように爛々と輝いた。
「……っ! 動きを封じる!」
百目が短く叫ぶ。その視線は闇の一点を鋭く射抜いていた。百目の眼に見据えられたもの全てが凍てついたように固まる。確かに、渦中で渦巻いていた水流がピタリと動きを鈍らせた気がした。だが――
「フシャアアアァ!」
怨嗟混じりの咆哮とともに、闇の中から巨大な蛇躯が飛び出してきた。
フォルネウスだ。
鋭利な鱗に覆われた異形の体躯がうねり、水を裂いて襲いかかる。百目の膠着視線も、強大な魔力の前には長くは持たなかったのか。ヤツは嘲るように口吻を大きく裂き、その隙間に幾筋もの青白い光が収束していく。
「退避しろ!」
百目が叫ぶ。その叫びと同時に、蒼白い光弾が矢継ぎ早に放たれた。フォルネウスの放つ氷弾だ。
俺は咄嗟に地面を蹴って後方へ跳ぶ。水中にも関わらず、体は鋭く後退した。すぐ隣を氷弾がすり抜け、背後の水壁に激突する。バチンッ! と激しい霜焼けの音が響いた。
見ると、青頭巾が錫杖を掲げて結界を張ってくれていた。淡い金色の光膜が盾となり、俺への直撃を防いだのだ。
(助かった……!)
短く息をついたのも束の間、さらなる異変に目を見開いた。
フォルネウスの巨体が水中を奔り、その周囲で無数の水泡が爆ぜた。
泡は渦と化し、まるで生き物のように形を取り始める。ぼこぼこと膨れ上がった水の塊が腕となり脚となり、異様な人体を形作っていくではないか。否、それは人と言うにはあまりにも醜悪な代物だった。大蛇にも似た尾を引きずり、顔には爛れた金銀の瞳がいくつも埋め込まれている。
「使い魔か……!」
鎌鼬が歯噛みする。その声には珍しく怒りが滲んでいた。湧き出した水妖の群れは、フォルネウスが奪ってきた妖怪たちの成れの果てなのだろうか。散り散りになった無念の眼が組み合わされ、今また醜悪な傀儡として海魔に従っているのか――そう思うと、たまらない悔しさが込み上げた。
「くそっ……なんて真似を!」
俺は怒りに拳を震わせた。しかし水妖たちは構うことなく、ずるり、と長い手足を引きずりこちらへ迫ってくる。数は三体。どれも水の体を持ちながら、その内部に無数の眼球がちらついて見えた。ぞっとする光景だった。
「僕らはこいつらを抑える! 純壱ちゃんは下がってろ!」
鎌鼬が言うや否や、一足早く水妖に斬りかかった。太刀が水圧を切り裂き、渦巻く腕を容赦なく切断する。
青頭巾も錫杖を構え、数珠を握り締めて真言を唱え始めた。すると鬼火が一層強く輝き、水妖たちを取り囲むように旋回しだす。怨嗟の唸りが水中に満ち、水妖たちが苦しげにもがいた。
百目もすぐさま動いた。懐から巻物を取り出し、眼前に広げると素早く印を結ぶ。
「散!!」
短く放たれた声とともに、巻物が白光を放った。次の瞬間、水妖の一体がバチリと音を立てて四散する。封印の符だ。札に込められた浄化の力で、文字通り塵と化したのだろう。
残るは二体。しかし、鎌鼬と青頭巾がかり合っている以上、百目と俺は手が空いている形だ。百目は油断なくフォルネウス本体の動向を追っている。俺もそれにならって蛇躯の行方を目で追った。
フォルネウスはなおも水中を縦横に駆け巡り、虎視眈々と攻撃の機会を窺っているようだった。さしもの百目も、二体の水妖を相手にしながらでは完全には海魔を封じ込められない。再び膠着視線で動きを止めようと構えるが、その刹那――水中に甲高い笑い声が響き渡った。
「フフ……いいねぇ。滑稽だよ、君たちが無様に足掻く様は」
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。佐城博――あの男の声だ。視線を巡らせると、少し離れた岩場の上に佐城の姿があった。彼の周囲だけ、水が避けるように空間ができている。どうやらフォルネウスの庇護下で空気の泡でも張っているのだろう。佐城は悠然と腕を組み、僕らの戦いを見下ろしていた。
「……佐城!」
俺はその忌々しい名を吐き捨てるように呼んだ。佐城は薄笑いを浮かべたまま、つまらなそうに肩をすくめて見せる。
「俺たちは、必ずお前を止めてみせる! 百目さんたちは、フォルネウスになんか負けないぞ!」
悔しさに震える声で怒鳴り返した。佐城は鼻で笑う。
「負けない、か。なるほど立派だ。しかし負けなくとも勝てもしないまま時間だけが過ぎれば、結果は同じことだよ。いずれ君たちの寿命は尽き、肉体は朽ち果てる。人間とはそういう哀れな生き物だろ?」
水を通して届く声は妙に澄んでいた。佐城の一言一言が水底に染み渡り、胸に重く沈んでいく。
「美しいものも醜いものも、皆いずれ滅びる。それがこの世の理だ。だが……もし滅びなければ? もし永遠に変わらなければ? それはきっと、この世で最も美しいものになる」
佐城の眼光がぎらりと光った。
「不変こそが、美なのさ。老いも死も超越し、永久に色褪せない美……君も渇望しているだろう? 本当は」
「……!」
心臓が、ひどく大きく鼓動した。佐城の言葉が胸の奥深くを抉るのを感じた。老いも死も超越し、永久に色褪せない美……。
脳裏に浮かんだのは、病床に伏せる祖父・縁の姿。無情な老いが大好きだった祖父の躰を蝕み、やがて命を奪った――もし、あのとき衰えずに済んだなら? そんな儚い願いが胸を掠める。
(俺だって……変わりたくないと、願ったことがある……)
俺にも、死や別れを恐れた記憶がある。だから佐城の言葉は甘い毒となって心に染み込んでいく。
「純壱! 耳を貸すな!」
はっとして顔を上げる。百目がこちらを振り向き、叱咤するような声を上げていた。
見ると、いつの間にか二体目の水妖も封印され、残る一体を鎌鼬と青頭巾が追い詰めている最中だった。百目は鋭い眼差しで俺と佐城を交互に睨み、油断するなとでも言うように首を振って見せる。
「……そう、だった。危ない……」
俺は浅ましい幻想に囚われかけていた自分を恥じた。ぐっと奥歯を噛み締め、ぶるりと頭を振る。佐城はそんな俺の様子を満足げに眺めていた。
「ほら見たまえ、心当たりがあるんだろう? 人は変化を恐れる。朽ちることを本能的に嫌悪する。誰だってそうさ……君も、そして君の大切な人もね」
「黙れよ!」
俺は佐城を睨み返し、大声で怒鳴った。しかし心の動揺を完全には隠せない。佐城は薄笑いを浮かべたまま、静かに首を振る。
「やはり君も渇望しているんだ。“不変”を。君の右眼が欲しているだろう? この契約書にサインすれば、すべてが手に入る。さあ——」
佐城が懐から契約書を取り出し、緩慢に差し出してくる。ぐ、と喉が詰まった。
——不変こそが、美。
頭の中でその言葉が何度も木霊する。そうだ、滅びゆくものは悲しいだけだ。だったら、最初から滅びなければいい。変わらなければいい……!
――違うよ。
不意に、誰かの声が聞こえた。若々しい男の声だった。柔らかく澄んだその声は、水の振動を通り越して直接鼓膜に響いたように感じられた。不思議と懐かしい声音——それが誰のものか、すぐには思い出せなかった。
――変わらないものなんてないさ。永遠なんて退屈だろう? 散るから美しいし、朽ちるから愛おしいんだ。
「――っ、そうだ……!」
俺はハッと息を呑んだ。霞んでいた視界が一気に澄み渡る。胸の中で何か熱いものが蘇り、もう迷いは跡形もなく消えていた。
「悪いが……お断りだ!」
俺は佐城を睨み据え、まっすぐに言い放った。
「永遠が美しいだなんて、笑わせるな! 朽ちることの何が悪い? 散りゆく命のどこが醜いんだ! お前だって人間だろう!?」
激昂する俺に、佐城はわずかに眉を上げた。しかしすぐさま嘲るようにかぶりを振る。
「理想論だな。結局、君は何も救えないまま終わるだけさ。君自身も、大切な者も、皆——」
「救ってみせるさ、何度でも!」
俺は迷いなく言い切った。祖父が教えてくれた大切な何かが、今の俺を支えている。たとえ儚い命でも最後まで足掻き続ける——それこそが生きるということだ。
佐城が何か言いかけた、その時だった。
「百目さん! 鎌鼬さん!」
俺は弾かれたように百目たちの方へ振り返った。残る最後の水妖が青頭巾の鬼火に焼かれ、鎌鼬の一太刀で断ち割られるところだった。消滅する水妖。
その背後、闇を裂いてフォルネウスの巨体が再び姿を現す。獰猛な怒りに目を爛々と輝かせ、牙を剥き出しにして突進して来た。
百目が即座に間合いを詰め、妖眼の力で睨みつける。蛇躯の動きが鈍った。だがフォルネウスの双眸もまた妖しく輝き返し、睨み合いとなる。神と海魔の意地のぶつかり合い――その凄絶な光景に、水底が軋むような緊張が走った。
(見える……!)
俺の右眼が疼き始めた。二柱の睨み合う中心点――フォルネウスの巨体に視線を凝らす。闇をまとった鱗の隙間、胸郭に当たる辺りだ。そこに、ぼうっと不規則な光が瞬いて見えた。蒼黒い水に溶け、普段なら目視できないはずのそれが、今の俺にははっきりと捉えられる。
(あれが……弱点!)
確信に戦慄が走った。フォルネウスの魔力の源――“核”とも言える場所が闇の中に透けて見えたのだ。俺は全身にみなぎる熱に突き動かされ、大声で仲間に叫んでいた。
「鎌鼬さん、青頭巾さん! フォルネウスの“核”は胸の中だ! あそこを狙ってくれ!」
鎌鼬と青頭巾が一瞬こちらを見る。二人とも即座に頷いた。
「了解! ――百目、抑えてろ!」
鎌鼬が水を蹴って猛然と駆け出した。百目は頷くと、なお一層妖眼の力を注ぐ。フォルネウスの巨体が水中で痙攣した。金銀の双眸が憤怒にギラつくが、百目の睨みの前に膠着している。
「いくぞ、青頭巾!」
鎌鼬が駆けながら気合いを上げる。青頭巾は既に動いていた。結界を解いた錫杖を高々と掲げ、数珠を鳴らしながら大きく振りかざす。
「はあぁッ!」
水底に真言が轟く。次の瞬間、錫杖からほとばしった無数の鬼火が一直線にフォルネウスへと飛翔した。青白い炎の玉が蛇躯を串刺しにし、内部へと燃え広がる。
「グオオオォォッ!」
フォルネウスが断末魔のごとき悲鳴を上げた。痺れた体を無理やり捩じらせ、長大な尾を振り回す。しかし鬼火に内側から炙られた傷口は大きく開き、核が脈動する光をさらけ出していた。
その好機を、鎌鼬は見逃さない。ほとんど残像と化す速度で巨体の懐へ潜り込むと、全身に風を纏った太刀を突き出した。
「おおおおッ!」
渾身の突き。刀身が風圧で震え、純白の刃閃が走る。寸分違わず、フォルネウスの胸の裂け目——核めがけて一直線に貫いた。
ズシュッ!
手応えとともに紫色の奔流が噴き出す。それはフォルネウスの瘴気に染まった血潮だった。泡と毒の入り混じった血液が水底を濁し、周囲に暗い靄を広げていく。
百目はすかさず封印の札を構えた。絶好の好機——しかし、その瞬間。
「甘いんだよッ!」
血走った声とともに、フォルネウスの巨体が暴風のように暴れた。鎌鼬が握る太刀ごと吹き飛ばされ、傷口から刀身が抜ける。鎌鼬はたまらず後方へ弾き飛ばされた。
「ぐあっ!」
鎌鼬の体が水中を滑り、俺のすぐ脇の地面に叩きつけられる。俺は急いで駆け寄った。
「鎌鼬さん!」
「大丈夫……平気だよ……」
鎌鼬は顔をしかめながらもすぐに身を起こした。その視線はまだフォルネウスに向いたままだ。俺も追う。
苦悶にのたうつフォルネウスの体から、次々と鱗と粘膜が剥がれ落ちていた。
核に深々と傷を負ったのは明らかだった。
しかし、それでも尚もがく悪辣な生命力。百目の札が放たれるより早く、フォルネウスの巨体は闇へと逃れようと蠢き始めた。
百目が追撃の封印札を投じた。だがフォルネウスの双眸が妖しく光り、札は何かに弾かれたように軌道を逸れて岩陰に突き刺さる。効力を失った札が虚しく漂う間に、フォルネウスの輪郭は闇に溶けていった。
「待て、逃がさんぞ!」
青頭巾が素早く数珠を繰り、結界を張り巡らせようとする。だが、時既に遅かった。
血の混じった濁流が荒れ狂い、俺たちの目を眩ませる。次に視界が晴れた時、そこにフォルネウスの姿はなかった。あるのは紫黒い血の靄と、崩落した岩々の陰影だけだ。
「……逃げた、のか?」
俺は荒い息を吐きながら呟いた。あたりに耳を澄ます。しかし水音以外、何も聞こえない。妖気もどんどん薄れていく。
「仕留め損ねたか……」
百目が忌々しげに呟いた。鎌鼬が立ち上がり、悔しそうに拳を握り締める。
「畜生、もう少しだったのに! 封印できないなんて……!」
「いや、命脈は奪ったはずだ。さしもの古の海魔も、傷が癒えるには時間がかかるだろう」
青頭巾が静かながらも確信を持った口調で言った。錫杖を杖代わりにしてゆっくりと歩み寄ってくる。百目も小さく息を吐き、こくりと頷いた。
「ああ。命からがら逃げ出したというところだろう。尻尾を巻いてな」
百目は微笑を浮かべてみせたが、その目は笑っていなかった。暗闇の一点を射抜くように鋭い光を宿している。
「佐城博は……?」
はっとして見渡したが、あの男の姿はどこにも見当たらない。
「逃げおったか。素早い奴め……」
青頭巾が悔しそうに呟く。佐城め、濁流に紛れて一足先に退いたのだろう。
俺は奥歯を噛みしめた。肺の奥に怒りが燻る。しかし今から追っても間に合わないだろう。さっきまでの激戦で、こちらも疲労は大きい。仲間たちも荒い息を吐いていた。
やがて、水底を満たしていた紫黒の靄がゆっくりと拡散していった。静寂が戻る。水は澄んでいるとは言えないが、先程までの殺気は跡形もなく消えていた。
百目がそっと肩に手を置いた。その顔は穏やかで少し誇らしげだ。
「よく頑張った、純壱ちゃん。君の判断と勇気が勝機を生んでくれたよ」
温かな激励に、胸の奥がじんと熱くなる。
俺は眼帯越しに右眼に触れた。この眼は俺自身の意志で授かった力。どんな誘惑にも屈さず真実を視る——そう誓ったからこそ、俺は負けなかった。
「まだ終わりではないな。次こそ仕留めるまで……休んではおれぬ」
青頭巾が遠く暗闇の彼方を見据え、鎌鼬もうなずいた。
俺も二人の隣に並び、闇の向こうを睨み据えた。どこかに微かに残る妖気の痕。それを俺の右眼は捉えている。闇の彼方へ続く微かな残滓……フォルネウスの逃げた先に違いない。次は必ず——
「行こう、純壱ちゃん」
百目が前方を指差した。緩やかな水流が岩の隙間へと続いている。おそらく地下水脈のさらに奥深くへ通じる流路だ。
俺は力強く頷いた。
「……はい!」
恐れはもう、ない。




