第九章 : 深淵に咲くは紛い花
――それは、美しかった。
蒼黒い闇に沈む広浄水場の底で、俺たちは息を呑んで立ち尽くしていた。ひんやりと湿った空気が肌に纏わりつき、四方に聳える巨大な水槽が鈍い光を湛えている。
水と苔の湿った臭気に鉄錆の匂いが混じり、遠くで滴る水音が静寂を刻んでいる。
その一つ、水面の暗がみにぽつりと形容し難いほど醜い“眼”が浮かび、蒼黒い水泡をぼこぼこと吐き出していた。やがて泡の中心から、ゆらりと一柱の『ひと』が現れた。
陶磁器めいた白い肌、豊かな双丘と柔らかな腰の曲線。夕凪を抱く海のような蒼い髪は、内側だけ朱を孕んで揺蕩う。
その長い髪先からは冷たい雫が滴り落ち、闇の中できらめきを散らしている。
黄金と白銀の双眸は愉悦の三日月を刻み、唇には妖しい笑みが浮かんでいた。まるで水底に咲いた一輪の極楽鳥花。完璧な女神の肢体だった。ただ、頭の左右で螺旋を描く黒い角だけが、その存在が人ではないと静かに告げている。
あまりに幻想的な姿に、一瞬、俺は言葉を失った。
美しさに魅入られてはいけないと理性が警鐘を鳴らすのに、視線が絡みついて離れない。そして同時に、背筋を冷たい鉤爪で撫で上げられるような嫌な予感が走った。
「どうだ? 俺様の姿は。美しいだろう?」
声は――深海の底を擦るような、低く濡れた男の声だった。眼前の肢体はあくまで完璧な女神のそれなのに、喉から滴る音色は雄々しく耳を劈く。
ぞっとする違和感に首筋の産毛が総立ちになる。俺たちは揃って返辞を失ってしまった。
ただ見惚れてしまったのか。それとも恐れを感じ取ったのか……。
そんな俺たちを順々になぞるように、海魔は肩を竦めて見せた。
「お気に召さないか? 仕方ないな」
水面の光を砕くように肢体が揺らめいた。みるみるうちに背骨が軋みながら引き伸ばされ、ふくよかな胸郭が平たく潰れていく。
肉と骨が作り替えられていくはずなのに、その過程は目を逸らすことができないほど滑らかで、妖しく艶めかしかった。まるで魚が悠々と雌雄を入れ替えるように、女神のシルエットが、異形の変貌を遂げていく。
次の瞬間、そこに立っていたのは長髪の麗人だった。蒼朱の髪も金銀の双眸も陶の肌も変わらない。だが、その声と気配だけが完全に“雄”へ反転している。性すら超越したような、不気味な美しさに、喉元が凍りついた。
「さあ、これでどうだ?」
角の根がカチリと鳴る。ぽたり、と一滴の水が落ちて床に小さな波紋を描いた。その儚い輪の広がりに、俺はただ視線を奪われる。静寂の中で、誰も一歩も動けない。鎌鼬も青頭巾も息を詰めているようだった。時間の感覚さえ麻痺するほどの緊張が走っていた。
鎌鼬の刀身が静かに月光めいた光を纏い、獣じみた筋肉がいつでも噛み付かんと張り詰める。青頭巾は僧形の影を引いて俺の前へ半歩踏み出し、錫杖を横一文字に構えた。揺れる鈴が涼やかな弧を宙に描き、薄明に小さく響く。
百目は細い煙草を咥えたまま、悲哀と決意を湛えた双眸で海魔を見据えていた。その肩越しに、百の眼球が闇の中でかすかに瞬いたように見える。
「言葉を失うほど見惚れたかい?」
フォルネウス――日本で〈蛟〉とも呼ばれた古き海魔――は金銀の双眸を愉悦に歪めた。
「美は罪だ。だが罪があるからこそ、人は美に跪く。醜い眼に映るものを、切望という名で買い取る。それがお前たち人間さ。見ろ、誰もが終わりゆく定めのものに儚い美を夢見ている。散り際の桜、朽ちる寸前の燈火――そんなものにすがる愚かさよ。笑わせるじゃないか。有終など醜いだけだ。だからこそ、人々は永遠を渇望し、朽ちぬ美を求めるのさ。不変こそ美。変わらぬものこそが真に美しい……違うか?」
その歪んだ美学に、吐き気がした。命の儚さを嘲笑うその姿勢に、怒りが喉元まで競り上がる。だが俺が反論の声を絞り出すより早く、百目が静かに口を開いた。
「相も変わらず、お喋りな悪魔だ。だが鏡を覗けば分かる。お前が誇る美こそ最も醜い」
百目が応じる。低く穏やかながら、その声には確かな怒りの棘があった。
「醜い、だと? 確かに俺様の本性は海の化生だ。だがそれゆえ、誰よりも美を知っているのさ。認めるがいい。俺様の眼は戻ってきた。より麗しく、より完全にな」
「外殻しか映らぬ眼だ。心象こそ美醜を映す鏡と知れ」
「心象、ね。そんな曇った鏡なぞ、お前はそのご自慢の眼で覆い隠してしまうだろうよ」
「驕りを核に据えた者は、自らの醜さを永遠に見られんよ」
フォルネウスの金銀の瞳が嘲笑に細められた。
「さすがは広目天だな。神気纏う元四天王様は言うことが違う」
フォルネウスは肩を揺すって笑う。
「もっとも……その四天王も、今や妖怪とはな。堕ちぶれた神に、心の美醜など語れるものか?」
百目は何も答えない。薄闇の中、その横顔はかすかに陰り、紫煙の先が震えて見えた。背後に一瞬、紅い気配が滲んだのは俺の錯覚だろうか。静かな怒りが空気を満たし、俺はごくりと唾を飲んだ。
広目天……百目が、神?
あの日、火鼠の衣の事件が解決した日に、毘沙門天さまが言った言葉を思い出す。
――あいつの真名は“広目天”。余と同じ、“帝釈天四天王”の一人なのだ。
四天王の広目天と言えば、あらゆる邪を見通す千里眼を持つ仏法の守護神。その名を百目に重ね合わせるなど、にわかには信じがたい。それでも、背中越しに立つ彼の姿が、いつにも増して大きく見えたのも確かだった。
言葉の衝突が火花を散らすたび、頬を斬られたような痛みが空気を走る。世界が青黒く滲み、俺の右眼がずきりと脈動した。
「純壱」
百目が半歩だけこちらを振り向き、低く静かな声で囁く。
「恐れは焼けても、意志は溶けない――見失うなよ」
その言葉が胸に熱い杭を打ち込んだ。恐ろしい……それでも、俺は力強く頷く。膝が笑っていようと、震える指先をぎゅっと握り締める。百目の静かな瞳に一瞬映った俺の姿が、ほんの少しだけ誇らしげに見えた。
「その右眼を抱き締めるか。滑稽だが嫌いじゃないぞ、人間。――佐城博も欲しがるわけだ」
「これは俺が自分の意志で“授かった”目だ……! お前らなんかに、絶対に渡すもんか!」
「では取引をしよう」
闇の奥から、場違いな拍手音が響いた。水音と水銀灯の唸りに紛れて気付かなかったが、いつの間にか一人の男が姿を現している。佐城博――フォルネウスの封印を、今まさに解こうとしている男だ。
百目から聞かされていた因縁の相手。その妖怪研究者こそ、フォルネウスと結託し、妖怪たちを弄んでいる張本人だというのか。薄暗い照明の下で浮かぶ陰湿な笑みに、腹の底が煮え繰り返るようだった。
神経質そうな長身の男が、薄笑いを浮かべながら書類の束を高々と掲げて見せた。
「契約書だよ、的場君。これにサインすれば、君のその眼と引き換えに、地下で捕らえている妖怪たちを解放してあげよう――どうだい?」
「……解放?」
信じられない提案に、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。地下で囚われている妖怪たちを……助けられる?
一瞬、そんな甘い言葉に心が揺れる。だが、よりによって俺の右眼と引き換えにだというのか。この右眼は、俺が自分の意志で掴み取った力の証なのだ。それを差し出せだなんて、虫が良すぎる。
ふざけるな――喉元まで怒声が競り上がった、その刹那、鎌鼬が忌々しげに舌打ちした。
「散々喰い散らかしておいて、今更解放だって?」
「喰ってなどいないさ。海は命の揺籃だ。あいつらには“胎内に還ってもらった”だけさ。それに、殻など要らない。眼だけで十分なのだからな」
――眼、だけ。
右眼が焼け付くように熱くなり、視界に深海の闇が滲んだ。瞼の裏に異様な光景が次々と浮かぶ。暗い水底、無数の眼球がぶくぶくと泡に混じって漂っていた。薄明かりの中で見覚えのある妖たちの瞳が揺らめき、声なき叫びが水圧に潰されて軋んでいる。嗚咽がこみ上げ、膝から力が抜けた。
「やめろ……!」
崩れ落ちそうになった俺の身体を、青頭巾がするりと支えた。袈裟の袖口から伸びた骨ばった手が、俺の肩をがっしりと掴む。
「目を逸らすな。視れば禍も映るが、真も映る」
その静かな一言が、張り詰めていた恐怖の膜を音もなく貫いた。逃げたい一心で閉ざしかけていた俺の右眼が、再び見開かれる。薄闇に沈んでいた光景が息を吹き返し、現実が鮮明によみがえった。
怯えているだけでは何も変わらない。震える胸の内側で、正義感に似た熱い怒りがじわりと恐怖を塗り潰していく。俺は唇を噛み締め、逃げ腰になりそうな心を叱咤した。美と称して奴が奪ってきたものを、この眼で最後まで見届けるんだ――たとえそれが俺にできる唯一の抵抗だったとしても、証人になることを俺は選ぶ。
「観賞者は要らないと言ったな。なら俺は“証人”になる」
俺は奥歯を噛み締め、吐き捨てるように叫んだ。
「奪ったもの、醜さ、美と称した驕り――全部この眼に刻んでやる。証言してやるよ、“お前は世界で一番醜い生き物”だってな!」
俺の叫びに、鎌鼬が小さく嗤った。青頭巾はうむと静かに頷いた。
フォルネウスの金銀妖瞳がわずかに揺れた。
次の瞬間、百目が喉の奥でククッと小さく笑う。
「――だ、そうだぞ? 坊やの言葉は素晴らしいな。悪魔よ、お前の宴はここで終いにしよう」
鎌鼬が躍り出る寸前の体勢で刀を構え直し、青頭巾の錫杖についた鈴が澄んだ音を響かせる。
百目の背後に無数の妖眼がぼんやりと浮かび上がる異様な光景に、思わず息を呑んでしまった。だが同時に、全身に奮い立つものがあった。百目が本気になった証、その心強い力を感じたからだ。
空気が張り詰め、髪の毛一本動かせぬ静止の刹那――。
フォルネウスは自らの頬を長い舌で舐め上げた。その顔には嗜虐的な恍惚が滲んでいる。
「美しいものは瞬きする間に砕け、醜いものは見えぬ振りをされて腐る……さあ、どちらが先に堕ちるかな?」
百目が静かに一歩、闇へ踏み込んだ。
咥えていた煙草を指先で摘まみ、闇へ放った。赤い火玉が弧を描いて水面に落ち、じゅっと小さく泡を立てて消える。肩口で赤い残滓のようなオーラがふっと燃え上がる。低く凛とした声が広浄に響いた。
「純壱ちゃんが言っていたろう。所詮その美しさは“紛い物”だ」
ドウッ!
轟音とともに四方の水槽が同時に裂けた。天井近くまで蒼黒い水飛沫が荒れ狂い、白い泡沫が嵐のように弾け散る。耳をつんざく破裂音に鼓膜が悲鳴を上げ、視界一面が水煙に覆われた。硬質な水音が広い浄水場の底を激しく満たし、頭上の照明が青白い稲光を吐き出す。
「退けっ!」
鎌鼬が怒声を上げ、即座に青頭巾の結界が薄膜の光を織り成した。俺は降り注ぐ水の奔流から右眼を庇いながら、前を行く百目の背中を必死に追う。氾濫する水の冷たさが骨まで染みてきた。
水煙の向こう、フォルネウスの人影が見る見る黒い波に溶けてゆく。その輪郭はただの霧散ではない。巨大な鱗に覆われた蛇躯が蠢き、闇の水に潜ろうとしていた。醜悪な龍の海魔――奴の正体が、その一端を現したのだ。俺は息を飲んだ。
だが次の瞬間、闇の底には金と銀の双眸だけが妖しく煌めいて残っていた。
「俺様も示してやろうじゃないか……永遠の美を! 本当に醜いのはどちらかという事を!」
その低い囁き声と共に、足元で蒼い渦が巻き起こった。途端に重心を奪われ、俺は膝から崩れ落ちる。世界がぐらりと水に傾き、天地が逆転したかのように感覚が狂った。猛烈な水圧が四肢を締め付け、冷たい液体が容赦なく喉元に押し寄せる。肺が焼けつき、意識が遠のきそうになる。
錆びた鉄と生臭い潮、そして微かに血の匂いが鼻腔を突いた。
視界が泡と闇に呑まれんとする刹那、不思議と百目の声だけが鮮明に届いた。
「恐れるな、坊や。次は“眼”より先に、心で斬るさ」
水の牙が音を失った。あれほど荒れ狂っていた水流が嘘のように掻き消え、広浄水場は一瞬で沈黙した――静寂だけが残り、俺の鼓動がドクン、ドクンと耳鳴りのように響いている。




