第八章 : 醜き瞳孔、揺籃より
「純壱!」
肩を揺さぶられ、はっと我に返った。視界に百目の顔が飛び込んでくる。いつも飄々としたその目が、今は強い光を帯びて俺を覗き込んでいた。
「百目さん……?」
自分でも驚くほど掠れた声が、喉から洩れた。
冷たい汗が背筋を伝う。先ほど確かに届いた声の残響が、まだ耳の奥で渦を巻いている気がした。
「大丈夫かい、坊や」
百目が安堵させるようにそう言いながらも、その声には僅かな緊張が滲んでいた。
俺は震える指先で目元を拭う。ひどい眩暈に襲われたせいか、未だ現実感が薄い。それでも、伝えなくては──
「視えたんです。水の底に沈んだ……人みたいな何かが。腕も脚も声も無いのに、目だけが開いて、俺たちを……」
「目だけ……?」
鎌鼬が険しい声を漏らす。
「はい。それで、“視ているぞ”と言われた……頭の中に直接……」
自分で口に出した途端、喉がひとりでに震えた。あの底知れぬ冷たさが言葉と共に蘇る。俺は奥歯を噛み、なんとか恐怖を堪えた。
しばし沈黙が落ちた。青頭巾の持つ錫杖がかすかに揺れ、涼やかな鈴の音が湿った空気を払う。
百目は伏せていた顔をゆっくり上げると、眼帯ごしにこちらを見据えた。
「……そうかい。純壱ちゃんも“視られた”か」
「え?」
「お前さんが視たのは、多分……私がかつて縁と一緒に封じた……妖怪の残滓だよ」
静かながらも、その宣告はこの薄暗い廊下に重く響いた。
妖怪──百目の言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。しかし頭のどこかで、一連の“異変”が線を結ぶ。
東京の水脈に逆流する気配。都心で相次ぐ妖怪失踪。広浄の無人稼働。そして、俺の右目に刻まれた異様な幻視……。
その全てが、今ひとつの像を結んだ気がした。
「……つまり、その“妖怪”が封印から逃れようとしている、と?」
絞り出すように問うと、百目は煙草――いつもの敷島だ――に火をつけた。
「逃れつつある、だな。おそらく何者かが封印を解こうとしている……この施設を舞台にな」
「佐城博、か」
鎌鼬が静かに吐き捨てた。
百目は答えない。ただ薄暗い天井に視線を彷徨わせ、苦々しく口を開いた。
「大正の頃、私と縁は奴の“声”と“片眼”を奪い、水底深くに封じた。完全に滅ぼすことはできずとも、二度と地上へ出られぬように」
「暗い……水底……」
俺が呟いた。その光景は、つい先ほど俺の右目が捉えたものと重なっている。
百目はゆっくりと立ち上がった。袴の裾を払う仕草には、普段の飄々さはなかった。
「封印が弱まったのか、それとも誰かが意図的に破ったのか……。いずれにせよ、このまま放置すれば“溢れる”だろうな」
「溢れる……?」
「坊や、想像してごらん。深海に沈められていた怪物が、長い年月を経て再び鎖を破り、濁った水と共にこちらを覗き始めている光景を」
百目の低い声に、俺は喉を詰まらせた。
思い浮かべた途端、酷い寒気が背を撫でた。身体の芯が凍りつくような感覚。
それは現実ではなく、想像でもなく――目の前で起きつつある事態だった。
「行こう」
百目の言葉にハッとして顔を上げる。彼は既に歩き始めていた。青頭巾と鎌鼬も、その背に続く。
俺は慌てて後を追った。震える膝に力を込め、唇を嚙む。
――恐れてばかりでは、いられない。
旧施設の奥へと、俺たちは足を進めた。薄明りの中、古い配管や計器の影が不気味に歪んで見える。
天井の裸電球は所々切れ、暗闇が支配する廊下を進むには心許ない。そこで青頭巾が袖から小さな青い焔をひとつ摘み出し、手のひらに載せた。揺らめく青光が闇に細長い影を作る。
ひんやりとしたコンクリートの壁に指先で触れると、遠くで触れられたかのように感覚が遅れて伝わってくる。まるで現実感が希薄になったような——いや、こちらが既に何か別の“領域”に踏み込みつつあるのだろう。
耳を澄ますと、微かに水音が聞こえた。滴る音。揺れる音。規則性はないのに、不思議と何かの鼓動のようにも感じられる。
ゆるやかなカーブを描く通路を抜け、大きな階段を下りていく。足音が反響し、やがて鼻を刺す塩素の臭いが漂ってきた。巨大な水槽が並ぶ区画に出たらしい。薄青いタイル張りの床に、染みのような模様が点々と続いている。
――違う、あれは……足跡?
先頭を行く百目のすぐ横で、鎌鼬が身構えた。その視線の先、黒い水の斑点が不規則に床を汚している。それは人間の足が踏んだように並び、やがて通路の角で消えていた。
鎌鼬が刀を抜いた。
「……いるな」
張り詰めた声に、俺も緊張が一気に高まる。壁際に沿って大きく迂回するように配置された水槽の向こうに、ぼんやりと人影が浮かんでいた。最初は暗がりの中に立つ異様な形──奇怪な生物のようにも見えた。
しかし青白い焔の光がそちらに届くと、それが人間の輪郭を浮かび上がらせる。
片手に何か書類の束のようなものを抱えた、細身の男。
黒いシャツと履き古されたジーンズ。
――佐城博だった。
「よう、的場君。待ってたよ」
百目が静かに前へ出た。燐光の中で、その横顔が険しく陰る。
「やはりお前さんが“失踪事件”の犯人かい、佐城博君」
「ご期待に沿えて光栄ですよ。探偵さん」
佐城は薄く笑んだまま答えた。その声色は朗らかなようでいて、酷く冷たい。
「佐城博、君の目的は何だい? 俺の“仲間”を何人も“喰い殺して”、ただで済むと思ってるのかな?」
鎌鼬が忌々しげに刀を構える。
佐城は肩をすくめてみせた。
「喰い殺す? 違うね。僕はただ“与えて”いるだけさ。力無き雑魚共に、最後の役割をね」
「何だと……?」
青頭巾の眉間に皺が刻まれる。
「彼らも本望でしょ。自らの身が偉大な存在の一部となるのだからね!」
百目は射すくめるような声音で言った。
「……“奴”に与するとは……愚かな真似を」
「愚か? はて、それはどうかな」
佐城の笑みがわずかに広がった。
「僕はこの目でハッキリ、くっきりと見てしまったんだよ、百目。醜く平和ボケした人間と妖怪が、何の緊張感も無く寄り添うこの街をね!――吐き気がするぜ、全く」
佐城の声が初めて熱を帯びた。張り付いた笑顔のまま、その視線が据わる。
「妖とは、常に“怪”であるべきなんだ。恐怖も無く人間と馴れ合うなど、滑稽と言わずに何と言うんだい?」
「だからって……!」
思わず声を荒げたのは俺だった。
「だからって、妖怪たちを犠牲にしていいわけがないだろう!?」
自分でも抑えきれず叫んでいた。悔しさと怒りに視界が滲む。
佐城の目が、ようやく俺の方を向いた。嘲弄するような光が、その黒い瞳に浮かんでいる。
「的場君……実は、君の噂は聞いてたんだ。百目の“助手”になった人間がいるってね」
「……っ」
不意に名を呼ばれ、俺は言葉を失った。
佐城はゆっくりとこちらに歩み出る。その足元は水が沁み出したように黒く滲み、歩くたびにじゅくり、と不快な音を立てた。
にたり、と佐城が笑う。次の瞬間、その声は低く抑えられた囁きに変わった。
「君のその右目……美味しそうだね」
心臓が一際大きく脈打った。身体中の血が逆流したような錯覚に襲われる。俺は咄嗟に右目を手の甲で覆っていた。
「……渡すもんか」
自分でも驚くほど冷静な声が出た。恐怖よりも怒りが勝っていた。不思議と、震えはしなかった。
「この坊やに指一本触れてみろ。貴様の喉を掻っ捌くよ」
鎌鼬が佐城を睨み据え、獣じみた声音で唸った。
次の瞬間、佐城はふっと表情を消し、「……もういいだろう」と静かに告げた。
直後、耳鳴りのような重低音が辺りに満ちた。地鳴りかと思うほどの低い振動が床を揺らす。
「来るぞ!!」
青頭巾が叫んだ。
青頭巾の錫杖についた飾りが、不意にジャラジャラと音を立てた。水槽の水面が小さく波打つ。
佐城の姿が闇に溶けるように後退していく。その背後、闇の中で“何か”が動いた。
――最初に見えたのは、無数の煌めく光だった。ゆらゆらと揺蕩うそれは、列をなして闇に浮いている。
――目だ。魚の群れにも似た、無数の瞳がこちらを覗いていた。
続いて、ぬらりと黒光りする巨体がうねる。その余波に床が撓み、鋼鉄の配管が悲鳴を上げた。
散在していた無数の眼が集まり、一対の巨眼となってこちらを睨んだ。ぶくり、と水泡が弾ける音がする。
「見なよ、妖怪・蛟の姿を!……いいや」
佐城の愉しげな声が、冷たく響いた。
「地獄の大公爵、悪魔フォルネウスを!」




