第七章 : 視ているのは、誰
広浄は、想像以上に静かだった。
大きな施設であればあるほど、本来は“何かしらの音”が常に耳に残るものだ。
人の声、靴の音、電話の呼び出し音、咳払い──そういった人間の痕跡が、まるで音の埃のように漂っているのが普通だった。
けれど、この場所には──それがなかった。
鎌鼬の靴音だけが、静かに響く。
足音が一度跳ね返った後、壁に染み込むように消えていく。
「……無人、だな」
彼が低く言った。
その言葉に、誰も返事をしなかった。
すでに、言葉を挟む余地がなかった。
歩きながら、俺は視線をあちこちに走らせた。
けれど、そこに“生活の匂い”はなかった。
コーヒーカップひとつない。椅子の背に上着もない。床に散った紙くずも、ペンの置き忘れもない。
まるで、人間というものの存在だけが“最初からなかった”ような整然とした空間。
けれど、設備は稼働していた。
圧力計の針は正しく揺れ、送水管の接合部からは低い唸りが聞こえてくる。
水が動いている。ポンプも稼働している。
音だけは、“正常”を装っている。
……けれど、それがむしろ怖かった。
「“模倣”しているみたいだな」
百目の声が、背後で落ちた。
「ここは、“人の手で”運営されていない。けれど“人の手で運営されていた形”だけが、なぜか維持されている」
鎌鼬が配管の影を覗き込む。
「影はある。けど、“臭い”がないね。ここに人間はいなさそうだ」
それは、“そこに何かがいた”形跡が、何かで“覆い隠されている”ということだった。
百目の前に浮かんでいた目玉が、ふいに震えた。
「──……ぐッ」
彼が小さく息を呑んだのを、俺は見逃さなかった。
目玉の一つが、ふっと消えた。
破裂音はなかった。ただ、瞬きのように“視界がひとつ潰れた”。
「……クソッ! 目玉を潰された……いや、“喰われた”のか? わからん」
「“視た”かい?」
「……いや、“視られた”感覚はあるが、相手は“視ていない”。まるで透明な何かで覆い隠されているような……妙な感覚だ」
百目の声が、わずかに震えていた。
それは恐怖ではなく、明確な“違和感”に対する反応だった。
視ていたはずが、視られていた。
この施設が“情報を渡している”のではなく、“覗き返してきた”という事実。
俺は、何気なく壁の下部に目をやった。
「……あれ?」
タイルに、青黒い痕があった。
乾いているのに、濡れているように見えた。
水でも、血でもない。
けれど、何かがそこを“這って”いったような──そんな跡。
それが“線”の一部であることに気づいたのは、もう少し後だった。
旧管理棟は、建て増しを重ねたような不格好なつくりをしていた。
廊下はわずかに傾き、壁紙は所々剥がれかけている。
照明は蛍光灯ではなく裸電球。明滅を繰り返すその光が、室内の影を微かに動かしていた。
奥の資料室に入ると、紙の匂いがぶわりと押し寄せた。
棚には帳簿、冊子、封筒、リボンで括られた手書きの記録──
いずれも、戦後間もない頃のものらしかった。
「見つけた」
鎌鼬が埃を払った小箱を開ける。中には、フィルム缶が数本。
「16ミリか……生きてるかな」
「純壱ちゃん、動かせるかい」
「はい、もちろん」
百目に頼まれた俺は、室の隅にあった古びた映写機にかけて、巻き取りのレバーを手で回す。
プロジェクターが軋むような音を立てながら、壁に白黒の映像を投げ始めた。
ブツ、ブツ、とフィルムがつなぎ目を跳ねながら走る。
映ったのは──無人の処理場だった。
水が送られている。
弁が開き、濾過槽の水位が上下している。
でも、誰もいない。
機械は動いているのに、職員の姿は一人も映っていなかった。
テーブルの上には未使用のマニュアル。電話は鳴らない。筆記具は埃をかぶっている。
まるで、機械だけが“人間を真似て”稼働しているようだった。
そして──
「――来たな」
映像の片隅に、影が現れた。
整ったシャツ。片手に資料を抱え、カメラに背を向けて歩く姿。
ただ、それだけだった。
けれど、誰もがその輪郭を見た瞬間、名を思い浮かべた。
佐城博だった。
数秒間、立ち止まる。
そして、振り返る。
その目が、まっすぐこちらを向いていた。
映像の向こうにいるはずなのに、俺の右目の奥を“視てくる”ような気がした。
ざわり、と背中が粟立った。
「……いた、ね」
鎌鼬が低く言った。
机の上には、書類の束があった。
水質異常、侵入者報告──いずれも墨で手書きされたもの。
けれど、その数枚が、滲んでいた。
まるで、濡れたわけでもないのに、
文字のインクだけが“溶けるように”失われていた。
右目が、反応した。
図面の上、記録用紙の下、廊下のタイルの継ぎ目──
あらゆる場所に、細い線が浮かび上がる。
――紋だった。
あまりにも静かに、あまりにも自然に、
でも、それは“そこにあった”。
目玉が、潰れた。
俺のじゃない、だが“本能的に”感じ取った。
音さえなかった。
ただ、視界のどこかが“ひとつ分”すっと消えたのだろう。
百目が、左目を押さえて蹲る。肩は震え、太い血管が浮き彫りになっている腕にはじっとりとした汗が滲んでいた。
「……視えなくなった」
その声には、驚きよりも、確信に近いものがあった。
百目が送っていた“視線”が、どんどん断たれている。
それは物理的な遮断であり、“そうではない”。
もっと根源的な、“記録できない空間”に踏み込んだという意味だった。
「ここは……“次元”が違う」
その言葉が落ちたとき、室内の空気が変わった。
風が通っていないのに、紙が揺れた。
背後の扉が、軋んだ。
そこには、誰もいなかった。
けれど、扉の裏に、“何か”が残されていた。
一枚の紙。
白い便箋。几帳面な字。
“見ていたろう。 ならば君も、視られるべきだ”
それだけが、墨で書かれていた。
署名はない。印もない。
けれど、その筆跡を、俺は知っていた。
佐城博。
あれは、あいつの字だ。
右目が脈打った。
それは脳の裏側に火を走らせるような痛みで、
同時に、“像”が浮かんだ。
水。
ただの水じゃない。
深く、黒く、静かで、どこまでも冷たい水の底。
そのなかに、何かが沈んでいた。
腕を、脚を、声を、全部失くして、
それでもなお、目だけを開いて──
“視ている”
俺を。
百目を。
右目が視たのは、幻ではなかった。
それは確かに、どこかに“ある”ものだった。
場所も、形も、定かではないのに、“今ここにある”という感覚だけが、異様に鮮明だった。
声が、頭の奥で響いた。
──視ているぞ。
耳ではない。心臓の奥でもない。
目に、直接届いた。
俺の目を介して、誰かが“視返して”きている。
恐怖が、遅れて追いついてくる。
これは怒りじゃない。怨みでもない。
ただ、そこに在るということを“証す”ために、視られている。




